ショートショート:「説得」

「まったく、何でこんな世の中になってしまったんでしょうね」
 目には隈、こけた頬。生気が無いような容貌なのに、そこだけは爛々と光る目。絵に描いたような神経質そうな男が愚痴っている。
「やれ、誰が悪い。いやあいつが悪い。……まったく人のフリ見て我がフリ直せとはよく言ったもんです。じゃあお前らは一体、どうなんだよって」
「わかるよ」
 男の愚痴に相槌を打つ者がいる。姿は見えぬ。
 相槌に勢いを得た男はなおも続ける。
「そうなんですよ、倫理だ論理だと声高に叫ぶ奴は多いですよ、そりゃそいつらが言ってることは正しいかもしれない。
 でもですよ、それを満員電車の中で叫んでいるとしたら、そいつらはただの周囲を顧みない奴ですよ。
 自分だけは正しいと思っているんだ。周りにどんな迷惑をかけているかもわからずにです。何様のつもりなんだと」
「ふむ」
「……でもそいつらを罵ってはいけないと、僕は思うんですよ」
「というと?」
「確かに世の中にはそういった馬鹿が多いですよ、でもそれを抑え付けるだけじゃ駄目なんです。暴力に暴力で対抗してはいけないと思うんです」
 声が頷いた。
「なるほど」
 男は、指揮者のように両手を大きく広げて、クライマックスを迎えたように言った。
「まったく、もっと寛容にならなければいけないんですよ。
 みんながみんな、博愛をもって世に臨むべきなんです、そうでしょう?
 でなければ、真面目な奴が馬鹿を見るだけの世界になってしまうんですよ」
 男はすべてを言い終えたのか、大きくため息をついた。

 そして、それまで相槌を打っていた者――死神は、男に問うた。
「で、言い残すことはそれだけかな」
 男は死神に膝を折って懇願した。
「命だけはどうか!」

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