作家は読者のリアルに従って書く

小説を書いていて、ときどき、はた、と手が止まるときがある。
それは「自分の中にあるリアル」と、想定読者の考えるであろう「リアル」が食い違うときである。

 読者というのは、当然一人ではない。一人一人経験も違えば知識の量も違う、そしてそこから導かれる価値観と、リアルの概念も違うわけである。
 この場合、作者はどのあたりの知識レベルに合わせて情報を選択するか。その基準を決めるのが大変なのだ。

 たとえば、三蔵法師について書くとする。
私は三蔵法師とは、遠く天竺まで旅をした唐代の僧侶の個人の名前ではなく、いわゆる僧侶の「位」であることを知っている。
 つまり、徳の高い僧侶には「三蔵」という位が与えられるわけであり、日本にも三蔵法師はいるのである。
 しかし、今の日本の常識では、三蔵法師、と言えば、それは天竺まで旅をして、西遊記のモトネタとなった、玄奘三蔵のことを指す。
 それ以外に三蔵法師は存在しない、というのが、日本の一般的常識だろう。
 この場合、三蔵法師という言葉は、特別の解説を加えない限り、世間一般の常識に従って書くのが当然である。

 だが、SFは、こうは行かない。

 その昔、アニメで宇宙空間での戦闘シーンを描く際の演出について、アニメ関係者の人と話をしたことがある。
 その際に、アニメ関係者の語った言葉の中に
「アニメの宇宙には上下と、空気抵抗があるんですよ」
 という言葉があったのを覚えている。

 つまり、アニメの画面の中では。宇宙空間で戦闘し被弾した宇宙船は画面の「下」に向かって「落ちて」行かねばならない。そして、推進機を破壊されれば、その場に停止し、漂流しなければならない。
 ということなのだ。
 これは、リアルではない。宇宙には上下はないし、たとえ推進機を破壊されていても、慣性の法則で動き続けるのが当然なのだ。
 しかし、そのリアルな動きを見た人のほとんどが不自然に感じるのだ。
 
 人間は経験則で見たものを判断する。それは、いわゆる反射的な行動であり、そこに思考を必要としない。
 つまり、推進力を失えば「下」に「落ちる」のが当然であり、落ちなければ、その場に漂流するのが、当然なのだ。

 宇宙空間は無重力である、という事実は、知識とそして無重力の状態の映像で理解できる人が多いだろう。しかし、その無重力と言う概念ですら「下」という概念を基にしたものであり、宇宙に上下は無い、という事実の理解に繋がるものではないのだ。
 そして、無重力であるがゆえに、推進機を破壊された宇宙船は、宇宙空間に漂っていなければならないのである。

 大部分の人間は、物語を受取るとき、コストを払おうとは思わない。
 コストを払うことなく、つまり、労力を使ったり考えることなく、皮膚感覚と経験則で反射的に受取りたがる。
 目の前に見せられた光景を理解するために、一段階思考して受取らねばならない物語は敬遠されるのである。

 まあ、世の中には、あえて、そのコストを受取り手に要求することで、受け取り手の優越感をくすぐり、「わかっている俺ってスゴイ」と思わせるやりかたもあるので一概には言えないが、基本的に、想定読者の「常識レベル」が作品のレベルとなっていく。

 まあ、いくら常識レベルを決めたところで、読者のレベルは様々である。
 想定読者よりも知識レベルの高い人からは
「なにもわかっちゃいねえ、これは正しくない」と言われ
 想定読者よりもレベルの低い人からは、たとえ事実であっても、
「こんなことできるわけが無い、ご都合主義だ」と印象のみで批判されるわけである。

 以前の日記でも書いたが、今の時代は、悪意はダイレクトに作者に届く、しかし善意は編集さんの教えてくれる売り上げの数字でしか届かない。
 その数字の向こうに、面白いよ、と言ってくれる読者の顔を思い浮かべるという
「一段階の思考コスト」が、作者にも求められる時代なのかもしれない(w


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