脳内妄想固定装置の開く未来……「初音ミクのもたらすもの」

先日、友人のマンガ家の仕事場に遊びに行ったとき、モニターの前に座らされて、延々と動画を見せられた。

正確に言うなら動画を見せられ、そして音楽を聴かされた。というべきかも知れない。

その動画と音楽のほとんどは、ネットの動画掲示板から拾ってきたもので、彼が作ったオリジナルの動画は一本か二本だけであるが、その動画のすべてに共通したテーマがあった。

「初音ミク」である。(w

 ご存知の方も多いと思うので「初音ミク」については説明しない。ご存じない人は各自で検索して戴きたい。
 さて、友人のところで見た動画と聞いた音楽から感じたことは。たった一つ

「いい時代になったものだ」

という感慨である。
 
 その昔、いわゆるMADと呼ばれる、既存の音楽や映像を編集によってコラージュし、まったくの別物に仕立て上げる(主にギャグ)という二次創作が流行していたことがある。
 このMADは、最初、カセットテープで始まった。

 いわゆるラジカセと呼ばれるハードが日本中に広がり、若者なら誰でも持っている。という時代が来たとき、ラジカセは若者のオモチャになった。
 「これで遊ぼう」と考えたのは当然である。
 中でも「TVマンガ20年のたくらみ」と称するMADテープは、アニメソングの切り張りや会話の切り張りによって、シリアスな場面が一転してギャグになるという、実に楽しいコンテンツであった。

 この流れは、SF大会のプログレスレポートなどで、ブームとなり、今でも歌われているスターウォーズのダースベイダーのテーマで歌われる替え歌「戦艦はとても強い~」とか
東宝映画の「地球防衛軍」の伊福部氏のマーチで歌われる「女がとっても大好きミステリアン~」などのコンテンツを生むに至った。

 また、当時のタモリのオールナイトニッポン、では、NHKのニュースを適当に切り張りして、滅茶苦茶な事件を作り上げ、アナウンサーが、あの、淡々とした口調で読み上げる。というMADなコンテンツを、堂々とニッポン放送のラジオで流していた事もあるのだ。

 さすがに、NHKからクレームが来たということで、このコーナーは中止になったのだが、深夜放送とはいえ、公共のマスコミで、このような放送が行なわれていたことを知る人はきっと40代以上だろう。
 まだ、著作権などにルーズな時代だったのである。

 やがて、この「編集によるMADコンテンツ」は、カセットテープという音だけのメディアではなく、ビデオテープによる編集へと変わっていく。
 世の中にVTRが普及し、一家に一台、の時代から二台目、三台目を買う時代になったとき、ダビングという手法で、映像編集が行なえるようになったのである。

 家庭用VTRにもフライングイレースヘッドや、ジョグダイヤルなどが搭載されるようになって、ビデオの再編集によるMADコンテンツは、さらに画質が良くなった。

 それらのコンテンツは、オリジナルのアニメを作りたい、という欲望の代償行為でもあったのだろう。
 自主制作のセルアニメは、機材と手間がかかり、なによりお金がかかったのである。

 再編集によるコンテンツは、傑作駄作取り混ぜて山のように作られた。
 しかし、それらのコンテンツを見ることができるのは 製作者の個人的知り合いだけだった。
 放映されるわけはない、上映会を開くこともない。ただ、趣味を同じくする人間の間で、ダビングされたテープが回っていくだけだったのだ。
 かつての職人は、孤独にタコツボの中で戦うしかなかったのである。

 しかし、今は違う。
 インターネットと、画像掲示板、という「公開するためのツール」
 初音ミクをはじめとする「創作するためのツール」
 この二つが揃っているのだ。

 これが、どういう結果を生むか。
 見えている人には見えているだろう。

 かつて、多くの人と資本を消費しなければ制作できなかったコンテンツを「個人の手間」というコストをかけるだけで制作できるのである。
 確かに、そうやって作られたコンテンツは、その道のプロが多くの資本を費やして作り上げたものとは比べ物にならないほどの低いクォリティかもしれない。
 だが、考えて欲しい。
 そういったものは今まで存在していなかったのだ。
 それが「存在する」ということの意味がおわかりになるだろうか?

 私は、この「初音ミク」に飛びついた業界の人間を数多く知っている(w
 そのほとんどが、音楽業界とは無縁の業界人である。
 マンガとかイラストとか小説とか、そういったまったく異業種のプロが、目を輝かせて夢中になっているのである。

 彼らは「面白いこと」と「面白いもの」が好きなのだ。というか、面白いことや面白いものを面白がらないで、他人を面白がらせることなどできはしない。
 面白いことに貪欲な人間、それこそがクリエイターなのである。

 コンピュータはさまざまな垣根を下げてきた。
 たとえば絵の具やカラーインクで絵を描くことに不慣れな人間でも「絵を描くツール」があれば、自由に着色できるし、失敗しても簡単に修正できる。
 下手な字しか書けない人間でも「文章を書くツール」があれば、誰にでも読める字で文章が書けるし、修正も簡単である。
 そして今、歌が歌えない人間でも「歌を歌ってくれるツール」によって、曲を作るだけでなく、歌詞をつけた「歌」を作ることができるようになったのである。

 今まで、資本や技術、努力などで越えてきた垣根を、個人がツールで越えられるようになったのだ。
 これはつまり、すべてのコンテンツの底が上がったことを意味している。

 プロにとって、厳しい時代である。
 プロというのは、シロウトに出来ないことをやってのけることで、プロという称号を戴いている。その「素人にできないこと」だったスキルが、ツールによってシロウトの人でも簡単にその場所まで上がってこれるようになってしまうのだ。
 ツールの分しか、リードを持っていなかったプロは、消えていくしかない。
 とはいえ、プロとシロウトの垣根が無くなるわけではない。

 ツールで越えられる垣根が消えた分、裾野が広がるだけで、プロの立つ山の高さは変わらないのだ。 富士山を上る事を思い浮かべてもらえばいい。
 今まで山すそから人が登っていた富士山に、五合目まで道路が開通したとき、世の中の人々は「富士登山もずいぶん簡単になった」と言って喜んだ。

 確かに時間は短縮された。疲労も減った。でも、結局富士山の頂上に立つには、それなりの装備と体力が無くてはならないことに代わりは無い。
 ツールは、ツールである。結局は使う人間の才能次第であるという現実は変わらないのだ。 そして、資本も技術も必要としない分、そこに投下できるのは「個人の才能と手間」でありそれがゆえに才能と努力の結果は如実に出るのである。
「ツールを使う」ことと「ツールを使いこなす」ことは違うのである。

 メディアプレイヤーの外見を変えることを「スキンを変える」と言う。
 今、コンピューターは、新しいスキンをまとう事を覚えたのかもしれない。
 そのスキン(皮膚)は、ますます人に近づいて行くだろう。

 私の書いた「銀星みつあみ航海記」のなかに登場する「クララ」という名前の電子人格は、私の脳内にしか存在しない。いわば妄想である。
 しかし、今、その妄想は、コンピューターによって誰でも見ることが出来るコンテンツに変えることができる。
 イラストとして、動画として、そして歌を歌わせることもできるのである。

キューティ・ハニーに登場する「空中元素固定装置」ならぬ「脳内妄想固定装置」によって新しい地平が開かれていくのかもしれない。

 モニターの中で微笑む「ミク」の動画を見ながら。私は、そんなことを考えていた。

 


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