十二月お題 「ひとりぼっち」
吐息が白く眼前に煙る。再度、溜息を一つ。
部屋に掛かる時計は既に五時を過ぎている。強張る体から力を抜いた。
マゼンタ、イエロー、シアンの炎はフラスコで混ざり合い溶け合いながらその様相を変化させる。研究室には僕一人だ。
灰褐色の机。薬品の蒸気、熱によって鉄紺に燻された棚。
中々上手くゆかない。既に丸一日この部屋に缶詰になっている。息を吸う。
まぁ、いい。一息いれよう。さすがに凍えてしまう。
外は深々と雪が降り続いている。風が吹き夜闇に風花が歔欷として散っていく。この地域では珍しい。騒々しい他の奴らも食事に出ている。
僕は寒さに痺れた爪先に力をいれ、椅子から立ち上がる。
ここに来る前に、新しく茶葉を買っておいた筈だ。
実験室の隅に目をやる。ああ、良かった。記憶違いではないようだ。 薬缶に火をかける。呼気の流れで広がる蒸気。
神経を使う実験を中断したせいか、それとも芯まで凍えた手足のせいか、はたまた疲労で鈍く重い体のせいか、思考はぼやけ、視線はふらりふらりと中空を彷徨う。
つらつらと脳内で消えては巡り、浮かんでは廻る公式、変化し、混合し、消化され、攪拌し、精錬され、腐敗し、昇華する炎、固体、濃度、圧力、色、液体、触媒、温度、気体、光、そして言の葉。
「学術においても実際は人は何も知ることは出来ない。常に実践が必要である、か。ゲーテだったかな……」
先ほど見た雪を思い出して背筋がぶるりと震えた。このままでは風邪を引きかねない。茶でも入れるか。
棚から茶の用意をする。菓子もあるな……食うか。淹れた茶を一口含む。咽喉を心地よい熱さが流れてゆく。こういう日ならばやはりほうじ茶だな。香ばしくて美味い。
そんな僕の耳に遠くから足音が聞こえた。帰ってくるにしては馬鹿に早いな……
唐突に扉が開かれた。乱暴に扱われた蝶番が悲鳴を上げる。
古い年代物なのだからもっと丁寧に扱って欲しい。
誰だ? いや、こんなノックもせずに不躾な開け方をする粗忽者は一人しかいない。ぐるりと首を扉の方向に向け、
「何だ、騒々しい。もっと戸は静かに空けろ」
と告げる。やはりそうか。
「えへへ、すいません。先輩」
後輩である一年の少女は相も変わらぬ腑抜けた顔で部屋に入ってくる。今日はいつもの汚れた白衣ではなく私服だ。しかも、洒落た暖かそうな白いコートと手袋である。コートの下から覗く服はドレスのようだ。髪型もいつものように野暮ったく後ろで括っているのではなく、きちんと整えており、アクセサリーまで付けている。
珍しいこともあるものだ。これ以上、天気がおかしくなるような事は慎んで欲しいものだが。
「何か用か?僕は見ての通りの実験中で忙しい」
「えー、先輩ってば、お茶飲んでるじゃないですか。すっごい暇そうですよ。あ、私にも一杯下さい。このお和菓子ってば美味しそー」
まったく図々しい奴だ。おまけに人の話も聞かない。茶を入れるのも面倒だが入れぬほうがもっと面倒なことになりそうである、仕方ない。
新しく茶葉を急須に入れ薬缶から湯を注ぐ。
「しばらく待て。茶葉を開かせないとな」
「はーい。先輩の入れるお茶は美味しいですよねぇ。私、お茶がこんなに美味しいものだとは先輩のを飲むまで知らなかったですよ」
家では紅茶やコーヒーばかりでしたしと、あぐあぐ菓子を頬張りながら喋る。菓子の甘さに顔がいつも以上に緩んでいて、褒められている気がしない。何時も通り幸せそうで結構な事だ。
いつの間にかここに常備されることになったこの後輩専用の湯呑みに茶を入れる。ゴクゴクと幸せそうに両手で湯呑みを抱えて飲む。そんな勢いで飲んで熱くないのか。
そしてこいつは、あの教授の講義は眠いだとか、今流行っているんですよーとお気に入りのバンドグループの話をしたり、楽だと思って選んだ共通科目のレポートが実は厳しいとか、先輩、お勧めのミステリの作家さんいたら教えてくださいよ、ドイツ語分からないんで教えてくれませんかなど、毒にも薬にもならぬ話題をのべつ幕なしに喋る。
いつまで喋り続ける気だ。
僕は三回目になるお茶の御代わり渡しながら尋ねる。
「で、用事でもあるのか?」
「へ? 特に……無いですけど」
口の端が引き攣る。何か、この女は僕の平穏を邪魔しにきただけというのか?
「帰れ」
「そんな冷たいこと言わないでくださいよー。先輩と私の仲じゃないですかぁ」
「どんな仲だっ! 用が無いのならさっさと帰れ」
「つれないですねぇ、先輩は。今流行りのツンデレってやつですか?」
「意味が分からん。とっとそれを飲んで帰れ。その様なキチンとした装いをしているということは、どこかに出かけるのだろう?」
「おっ、さすが先輩。チェック細かいですね。その通りこの後、オペラを見にいくことになってるんですよ、両親と。ここの近くの劇場なんです。待ち合わせの時間より早く着きすぎたから、暇潰しに研究室誰かいるかなーって思ったら灯りが見えたので。先輩がいてくれてラッキーでした。えへっ」
「そのわざとらしい笑顔はやめろ。気持ち悪い」
「うわっ、ひっどーい先輩ってば普通、女の子にそんなこと言いませんよ。デリカシーないなぁ」
「普通の子女にならば僕とて礼儀を持って接するさ。言うのが憚られるが、君はその……なんだ、かなりアレだからな」
「アレって何ですか。アレって。ほら私ってばこれでもお嬢様ですからっ。先輩にだけ教えますけどヴァイオリンだって弾けるんですよ?」
ほら、こんな感じにと、ふわりと立ち上がり仕草を見せる。それは何かの冗談か、エアーヴァイオリニスト。この単語で新しいジャンルを築けそうである。
「そうか、そういうことが出来るような子女だということは分かった。分かったから、素早くその湯呑みに入った茶を飲んで帰りなさい。僕は休憩中なんだ。その時間を邪魔しないでくれ」
「えー、憩いの時間にこーんな可愛い女の子とお茶出来るなんてサラリーマンなら二時間で三本は持ってかれますよ?すっごいお得じゃないですか先輩ってば」
「どこの相場だ、それは。もういいからっ帰れっ!」
「もう先輩ってば相変わらず厳しいんですから。帰りますよ。そろそろ時間ですしね」
気付けば、この後輩との漫才で小一時間は経っていた。なんという無駄な時間を過ごしたのか、自らの不明を悔やむ。
「それでは先輩、御機嫌よう。また明日です」
普段はしない化粧を施しているせいだろうか、別人の見知らぬ女のようにも見えた。しかし、こちらに向ける笑顔はいつもと同じ笑顔だった。見ているこちらの力が抜けるような、そして安心するような……って何を考えているんだ僕は。
首を振り正気に戻る。
「ふんっ、では……な」
「ふふっ、先輩ってあれですか。好きな女の子には意地悪しちゃうタイプですか?」
あまりの暴言に、呆れた口が塞がらない。
「その口から飛び出る巧言、失言、放言、暴言、妄言の種類の多様なことには驚かされるばかりだが、他人でしかない僕がわざわざ毒舌を吐かずとも良いかと考えていたことを一言を持って直言してやろう。君はあれだ……物凄い阿呆だな」
頭が痛い。脳をどう働かせたらその結論に達するのか。別次元の論理で動いてるとしか思えない。
「何なんですかー、その言い方は。失礼しちゃいますね、この朴念仁は」
頬を膨らませながら子供のように言う。
「確かに僕は無口で愛想がないが物分りは良いぞ。言葉は正確に使え。さぁ、もう時間なのだろう。行かなくていいのか?」
そう言うと右手につけた時計を見る。
「あ、本当だ。拙いです。怒られちゃいますよ、それじゃ先輩、またねです」
その言葉を言い切った勢いのまま部屋を飛び出していく。キッチリ閉めていけ。やれやれだ。僕は扉を閉めた。廊下から寒さが伝わってくる。暖房入れるか。急に部屋が広く感じた。
ぼんやりと呆けている間に他の奴らが帰ってきた、声はかけない。そういう間柄である。
部屋は先ほどよりも人が増えている。僕には関係がない群れ、集まり。寒々しい。いつも以上に奴らのざわめきが耳に障る。
はて、僕は何故こんなにも苛ついているのだろう。この程度の騒音はいつものことだというのに。
帰ろう。こんな気分で続けても成功はしない。記録を書き、手早く資料を纏め鞄に放り込む。実験器具を洗う。
そして机の上にある二つの湯呑みを片付けてないことに気付いた。白い滑らかな手、薄く頬を彩る化粧、鈍い銀色に光る腕時計。そんな光景が脳裏を掠める。
そうか、さっきまでは、あいつと一緒にいた間は「ひとりぼっち」じゃなかったなと。
思わず苦笑いしてしまう。だからか。
あいつが次来た時は少しは歓迎してやってもいいか。そんな事を考えた。
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