『再考 桶狭間合戦』橋場日月(『歴史群像87号』) なぜ今川義元は討ち死にしたのか
『再考 桶狭間合戦』橋場日月(『歴史群像87号』) なぜ今川義元は討ち死にしたのか
『桶狭間の合戦』について私が最初に触れた記述は 小学校の図書室にあった『まんが日本の歴史』だったと思う。
勝利の前祝いにうかれた今川義元が、風雨をついて行われた織田信長の奇襲攻撃によって敗死する展開であった。
さて、それから三十有余年が経過した。
今では、今川義元がそれなりに有能な武将であり、決して油断していたわけでもなければ、織田信長が奇術師ヤンのごとき奇計を使って今川軍を翻弄したわけでもないという考察が一般的である。
だが、今川義元が油断したのでもなければ、織田信長が奇計を使ったのでもないとするなら――
なぜ、今川義元は討ち死にしたのだろう?
戦場における勝利/敗北と、大将の討ち死には必ずしも一致しない。戦国時代における合戦でも、城攻めであればともかく野戦における大将の討ち死にはさほど多くない。
たとえば、厳島合戦における陶晴賢の討ち死に。あるいは、沖田畷(おきたなわて)の戦いにおける龍造寺隆信の討ち死に。
そして、桶狭間における今川義元の討ち死に。
この3つの戦いは、いずれも相手より優勢な軍勢を持ち、敵地に攻め込んだ上での敗北が討ち死ににつながっている。
わずか3つの事例から一般的な結論を出すのは危険だが、ここは三割精神でおおざっぱに共通する部分を引き出してみよう。
おそらく――というか、ほぼ確実に。
討ち死にした三者とも、敗北を想定していない。
陶晴賢も、龍造寺隆信も、そして今川義元も。戦場に赴くにあたり、自軍の優勢を確信していたはずだ。勝負には時の運もあるから苦戦や引き分けはあるだろうが、よもや自分が負けて命を落とすとはおそらく考えていなかっただろう。
そして、それゆえに。
逃げるタイミングを、彼らは間違えたのではないかと思う。
勝てると思って戦場にのぞんだ彼らは、自らの優勢を信じるあまり、目の前にせまった破滅に気づくのが遅れた。
まさか。いや、そんなはずは――
もしも自軍が劣勢であれば、あるいはそれほどに勝ちを確信できない状況であれば。おそらくもっと早く逃げ出せたはずなのだ。何もかも放り出して、自らの身ひとつを救うためにひたすら逃げて逃げて逃げまくれば、戦場ではそうそう討ち死にするものではない。
まさか。だが、ひょっとして――
疑惑が確信に変わった時。
敗北が現実と変わった時。
それまで勝利の幻を見ていた彼らは、すでに逃げようにも逃げられない状況にあったのではないか。
陶晴賢を、龍造寺隆信を、そして今川義元をただの敗北ではなく、討ち死ににまで追い込んだのが敵手ではなく、自らが脳裏に浮かべた勝利という幻想であったのだとしたら。
私が昔読んだ、『勝利の前祝いに浮かれて討ち死にする今川義元』という『まんが日本の歴史』における記述は、もしかしたらかなり正鵠を射ていたのではないだろうか。
なお、橋場日月さんの記事は別働隊による迂回奇襲という説の提唱である。
中島砦から東海道を西に向かい今川義元の本陣を突いた織田信長の主力二千の他に、それなりに有力な別働隊が鎌倉往還を沓掛城に向かい、東から今川勢を攻めたため、挟撃という形になったという説だ。
確かにこれならば、本陣を信長に強襲された時に、「危ないから殿はお下がりください」みたいなことになって「よし分かった」となって、少数の兵でその日出発した沓掛城に戻ろうとしたところを討ち取られた、あるいはそこからさらに南へ逃げたところで討ち死にしたという考え方も可能である。
カラーページにおける尾張桶狭間付城群(樋口隆晴)と合わせて、なかなかに面白い記事であった。
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