「線は生き物である(姫川明 論)」
電撃文庫の新刊&新シリーズ一冊目「リセット・ワールド」の見本本がメディアワークスから届いた。
どうやら無事に、3月の新刊として書店に並べてもらえそうである。
イラストは「小さな国の救世主」と同じHimeakiさんである。
彼女たちの本業はマンガ家である。
「姫川明」のペンネームで「ゼルダの冒険」のコミックや「鉄腕アトム」のコミックのリメイクを手がけており、その画力、特にフォルムを描くときの線の美しさ、力強さは、まさしく一線を画している。
彼女たちとの付き合いは、かれこれ20年を越える。
私は、もともとはマンガ家志望の人間で、高校時代からずっとマンガ同人「作画グループ」に所属している。
実を言うと今でも現役の会員で、作画グループが発行している「GROUP」という創作誌に「榎野英彦」名義で「あんな話。こんな話。ここだけの話」というウンチク漫画を掲載していたりする。
とは言っても、絵のほうは妻に任かせて、私はコマ割りとネームだけであるが(W
この作画グループつながりで、なんだかんだと30年ほど前から、いろいろなマンガ家さんのところに顔を出してネタ出しをしたりしてきたわけである。
というわけで、ここらで一つ、マンガ論みたいなものをぶち上げてみようと思う。
姫川明、と言う名前のマンガ家は、売れっ子ではない。しかし、本当の実力者だと私は思うのだ。
マンガと言うものの本質を彼女たちは理解し、そしてそれを書ける技能を持っている。
それは、今風のいわゆる流行としての「売れる要素」とか、そういう部分ではない。
そんな彼女たちが、このたび、文化庁のメディア芸術祭賞を受賞した。
やはり、見ている人は見ているのである。
これは、そんな彼女たちへの応援歌である。
「線は生き物である(姫川明・論)」
はじめに、断っておきます。
私はマンガ家でも編集者でもありません。ただのライトノベル作家です。
マンガ家でもなんでもない、一介のライトノベル作家が、わかりもしないくせに、何を偉そうにマンガ論などを書きやがって、とお考えの方もいらっしゃるでしょう。
実を申しますと、私は、三十年ほど前から、作画グループというマンガ同人に所属し、マンガ家さんの仕事場でアシスタントの真似事をしたり、アニメや出版、という世界に関わってきた人間でして、様々な仕事の現場に首を突っ込んで、名前を出さずに仕事をしてきました。
それを自慢するつもりはありません。ただ、私は、マンガに関して、まったくの素人ではない。ということだけを最初にお伝えしたかっただけですので、誤解なさらないでいただければ幸いです。
さて、自分のことはどうでもいいので、さっさと話を進めましょう。
マンガにおいて、最も重要なものは何でしょうか? 絵でしょうか? お話でしょうか? コマ割りと、構図でしょうか?
私は、描線、つまりタッチだと思います。
人物の描線だけではありません、背景も効果線も書き文字も、コマの中に描かれたすべてのものを表現する線。それこそがマンガにとって最も重要なものだと思うのです。
マンガ家さんによって、やり方は異なりますが、多くのマンガ家さんは、キャラの絵をかくとき、まず簡単な下書きをして、それから鉛筆でアタリを取ります。この、アタリというのは、いわば何十本という鉛筆の線によって、キャラを描いたものです。
そして、その何十本ものアタリの線の中の、一本を選んでその上にペンで、線を引きます。 その線の選択、その能力が、マンガ家の描写力を決定するのです。
アタリと下書きの鉛筆の線を消しゴムで消した時に、そこに現れるもの。それこそがそのマンガ家さんの個性だと思うのです。
私は、アシスタントの真似事みたいなことをやったこともあります。ですから、マンガ家さんが、そうやってアタリの上から線を引く姿を何度も見てきました。
その光景を見るたびに、私の脳裏に一つのエピソードが思い浮かぶのです。
それは、自動車のデザインをしている人から聞いた話です。
自動車の設計は、今ではほとんどがコンピューターの仕事で、空力学的にもっとも空気抵抗の少ないラインを、キーの一押しで計算して出すことができます。
しかし、昔はコンピューターの性能が低かったために、そういった空力学的な計算に、長い時間が掛りました。
これは、そんな時代のエピソードです。
自動車の設計を担当している人が、空力的にもっとも抵抗の少ない線を探し出すために、図面の上に何本も線を引いて、それぞれに空気抵抗を計算していたところに、有名なデザイナーの人が来たのだそうです。
そのデザイナーの人は、何本も線を引いてある図面を見て、設計の人の話を聞くと、近くにあった鉛筆を手にとって、その図面の上に、すっと、流れるような曲線を引いて、こう言ったのだそうです。
「俺は、この線が好きだな」
そう言ってデザイナーの人が帰った後で、何十時間という時間を掛けて、コンピューターがはじき出した、もっとも空力学的に洗練された線は、そのデザイナーさんが、フリーハンドですっと引いた曲線と、ほとんど変わらなかったそうです。
数ある線の中から一本を選択する。もしくは何も無い白いコマにすっと線を引く。
その線が見える人。それが才能と呼ばれる能力だと私は思います。
そして、そうやって引かれた線は、引かれたその瞬間に。その白いコマに空間を生み出します。
それは、空気であり、世界なのです。
姫川さんが、アマチュア時代に描かれた「ヒウリ」と言う作品があります。
今から二十年以上前に、あの同人誌が世に出たとき、あれを読んだ、とあるベテランのマンガ家さんが
「白戸三平さんの空気が描ける人がいるとは思わなかった」
と言った。という話を私は聞いています。
白戸三平さんのマンガは、実に白いマンガです。背景を書き込んだコマはあまりありません。
しかし、その白い、書き込みの無いコマの中に、すっと引かれた一本の線が作り出す空気、そして間。これは、まさしく職人芸であり、芸術なのです。
その、書き込みの少ない白っぽいコマのなかに、読者が見るものは、自分の脳内にある光景です。
簡略化された、実に簡単に見える線。しかし、その線は、脳内のイメージの扉を開くキーワードなのです。
描かないことで描く。これができる。その域まで達することができる人はほんの一握りでしょう。
さて、こういった、イメージを引き出せる線でキャラクターを描くと、どうなるでしょう?
答えは簡単です。
そのキャラクターには、生命が吹き込まれるのです。
読者の脳内で、そのキャラクターは動き始めます。コマの中に空間が生まれ、その中で息遣いさえ感じさせるほどに動き出すのです。
これも二十年前の話になりますが。当時私は、月刊アウト、というアニメ関係の雑誌の編集部に顔を出して、そこで、投稿の選別や、記事などを書いておりました。
あるとき、その関係で知り合ったアニメ制作会社の社長さんたちと飲み会に行くことになりました。
そのとき、私が彼女の名前を出すと、そのアニメスタジオの社長さんも彼女たちを知っていました、そして、真顔で私にこう言ったのです
「彼女は天才で、そして化け物です」
なぜ、天才で化け物なのか、その理由はこうでした。
「アニメーターが一秒間に24枚の絵を使って描く動きを、彼女は一枚で描いてしまう。彼女にはその線が見える。その線を見るために、世のアニメーターは死に物狂いの努力を重ねているのに、彼女は、いとも簡単に、その線を引く。これが天才、そして化け物の理由です」
事実、姫川明さんの画力を否定する人間はまず存在しません。
誰もが、その絵の力を認めているのです。
でも、この線を引く能力。この絵を描く能力。それこそが、姫川明さんの最大の弱点でもあるのです。
マンガを読んだときに、絵によってもたらされるインパクト、というか、情報が多すぎるのです。
絵を見ていくだけでも楽しい。それはつまり、マンガを読まなくてもいいということに繋がります。
マンガというのは、ストーリィや、セリフや、仕草、表情、構図、という様々な要素で構成されています。そのバランスの上にマンガは成り立っているのです。
しかし、絵の持つ力によって、絵以外の要素を読み取れなくなってしまうのです。
なまじ、マンガを読む能力がある人ほど、マンガとしての要素を、読み取ることができなくなるのです。ちゃんと描いてある情報が、描かれていないように見えるのです。
もし、姫川さんが、もっとへたくそな線を引き、へたくそな絵を描いていたら、私はもっとメジャーになれたと信じています。
その証拠が、彼女たちが書いているいわゆる子供向けマンガです。
絵の力が強く、絵を見るだけで楽しい。だからこそ、マンガを読むための能力が低い、子供たちでも、絵で物語を読み取ることができるのです。
彼女たちのマンガが、学年誌で絶大な人気を得ている理由はそこにあります。
この、彼女たちの絵の力に惑わされる人は、他にもいます。それは、マンガを描く人、マンガ家さんたちです。
マンガ家さんたちの望みは何でしょうか?
これは、私の本業である小説家とも共通の望み、願望でもあります。
それは。自分の描いたキャラクターに生命を吹き込むことです。
自分の作った物語世界の中で、笑い、怒り、恋に頬を染め、悲しみに泣く、生きたキャラクター。それをこの世に生み出すこと、それがマンガ家、作家、クリエイターに共通の望みであり願望です。
その願望を、目の前で、いとも簡単に見せられたとき、マンガを描く人たちの多くは、おそらく、彼女たちの描いたキャラの線とフォルムを「欲しい!」と思うでしょう。
そこに、自分たちが思い描いていた、願望があるのですから。
こういう言い方は好きではありませんが、彼女たちの絵や線をコピーすることができれば、自分にも生きたキャラが描けると思い込む人が出ても不思議ではありません。
普通は、コピーすれば、劣化します。
絵の持つ力も、物語の持つエッセンスも、薄められてしまいます。
しかし、もともとの絵の持つ力が濃ければ、劣化しても通用してしまいます、それどころか薄まった分、飲み込みやすくなるのです。
自分でマンガを描く経験を長く積んで、自分の絵が確立したベテランのマンガ家さんたちには、彼女たちの絵の呪縛は効果がありません。
彼女たちの物語の力や、構成の力などを、正しく評価できます。
しかし、自分で絵を描いたことの無い、いわゆる読むだけの編集者や読者の多くは、物語の力や、構成力に気がつかず、絵の力だけに気を取られてしまう人の方が多いでしょう。
そして、彼女たちの絵柄が持つアメリカンコミックスや、ワーナーブラザースのアニメとの共通性を下敷きにした感覚は、日本人として日本のマンガしか読んでこなかった人には違和感を感じさせることになります。
しかし、その反面、姫川明のマンガは、世界中で支持されることになりました。
彼女の作品を、日本という風土に押し込むことは、実に愚かなことだと私は思います。
インターネットは、まさにグローバルです。日本で通用するものが、そのまま通用するとは限りません。
そのインターネットで公開してるマンガが、今回、文化庁の賞を受賞したことは。この日本にも、その愚かさに気がついた人がいた、ということだと私は思うのです。
今回の受賞は、今まで日本の常識や、よくあるマンガの基準でしか、姫川明のマンガを見ることしか出来なかった人々の、その基準を吹き飛ばし、新しい視点と基準を与え、作品の価値に気づかせる、そのきっかけになるのではないかと思っています。
マンガの神様である、手塚治虫先生の衣鉢を継ぎ、あの「鉄腕アトム」をあそこまでリメイクできるマンガ家が他にいるでしょうか?
膨大な数のユーザーを持つ「リンクの冒険」を、その膨大な数のゲームユーザーの世界観と矛盾することなく、融合し、もう一つの「リンクの冒険」を創り上げてしまうことのできるマンガ家が他にいるでしょうか?
原作つきだ。オリジナルではない。ただ、それだけの理由で、彼女たちを低く見ることしかできなかった人々は、今、その目をしっかりと見開いて見据えて欲しい。
彼女たちはずっと描いてきたのです。
それは、そこにあったのです。
あなたたちが見えなかったものを、姫川明はしっかりと見据えて描いてきたのです。
姫川明の評価は、この受賞で定まったわけではありません。
そう、ここが、始まりなのです。
二十年来の友人として、そして、共に仕事をする仲間として。
そして何よりも、姫川明のファンとして。最後に一言だけ書いて終わりにしようと思います。
私は、彼女たちのさらなる飛翔を願ったりはしません。
なぜなら、私にとって、それは願いではなく、既定の事実だからです。
最近のコメント
19時間 45分前
21時間 2分前
2日 20時間前
2週 6日前
2週 6日前
3週 2日前
4週 5日前
6週 7時間前
7週 12時間前
8週 2日前