『朝倉宗滴と日本国憲法第九条』(大野信長/『歴史群像No.89』より)「どんな手をつかおうが、最終的に――勝てばよかろうなのだァァァァッ!!」とうそぶく無敵ジジイが残した大きすぎる空白
私は『歴史群像』を読む時にはおおむね真面目な顔をして読む。内容の多くは興味深くも面白いが、おおむね「ふむふむ」とうなずきながら読むのだ。
だが、こと大野信長さんの文章に関しては「いひひひひひ」と笑いながら読む。大野信長さんの文章の裏にある芸人の資質に強い共感を覚えるからだ。
そうやって毎号「いひひひひ」笑いをしながら読む『激似戦国武将論:信長の独断フルスロットル!』、今号は『朝倉宗滴と日本国憲法第九条』である。
朝倉宗滴と言えば、知る人ぞ知る戦国武将である。ただ、活躍したのが信長の時代よりちょい前ということもあり、『信長の野望』などの戦国時代ゲームを通してその活躍が知られることは少ない。同じく信長以前であっても、北条早雲のように小説の題材になることも少ないゆえ知名度は低いはずだ。
現代における知名度はともかく、このオヤジ、戦にはめっぽう強い。
戦国時代を扱った娯楽読み物やゲームでは、越前朝倉家というのは織田信長との関連でのみ語られることが多い。しかも、朝倉家が信長に刃向かったあげく滅ぼされていることから、評価は低く、あるいは辛くならざるをえない。何しろ、滅びてしまった結末は変えられないからだ。そして、実際に、滅びてしまっても仕方ないよなぁ、という『勝負弱さ』を朝倉家はしばしば見せるのである。
勝つために目玉ぐるぐる(石川賢風に)で常に必死な織田信長に比べ、朝倉という名門には、なぜかそうした貪欲さがない。飢えた犬のような獣のような、そうした、勝つためになりふり構わぬ姿勢が見えないのだ。
だが、実は。朝倉家の軍事部門を統括していた朝倉宗滴自身はまさにそうした言葉を残している。
『朝倉宗滴話記』という、宗滴の言葉を記録した文書に次の文章がある。
「武者は犬とも言え、畜生ともいえ、勝つことが本にて候」
つまりはまあ、「どんな手をつかおうが、最終的に――勝てばよかろうなのだァァァァッ!!」(ジョジョにおける、カーズ風)というオヤジである。
にも関わらず、と言うべきか。
朝倉宗滴という武将の生き様は、畜生道とはほど遠い。朝倉家中でのクーデターを未然に阻止し、朝倉家の権力基盤を固めると自らは軍奉行として四十年、ひたすら前線で戦い続けている。その大いなる武威をもってさらなる地位や権力を求めるではなく、ただひたすら朝倉家の守護神として戦い続けたのだ。
朝倉宗滴にしてみれば、それもまた「勝つことが本にて候」だったのかもしれない。歴史上、どれだけ多くの有能な将軍が、主筋にうとましく思われたり、警戒されたりして勝利を逃していることか。戦国時代でいえば、彼のひとつ前の世代である太田道灌の最期もまた、そうした事例のひとつだろう。
朝倉宗滴は、戦場で強いだけの武将ではない。彼は勝つために必要であれば生涯一軍人して己の人生を賭することすら、辞さなかったのだ。
にも関わらず、と言うべきか。
朝倉宗滴が四十年にわたって戦い、勝ち、朝倉家の黄金時代を築き上げた、まさにそのことが。朝倉家を滅びへと誘った。
四十年にわたり、いざ戦いとなれば、宗滴がいた。
どんなに苦しい戦いでも、宗滴に任せれば、何とかしてくれた。
勝つために必要なことはなんでもやる有能な守護神がいてくれた。
それが、――朝倉家の危機管理能力を、勝負勘を奪うことになった。
朝倉宗滴が死んだ時、彼に変わるべき人材は、彼に代わって「勝つためには何でもやる」武将は、どこにもいなかったのである。
これまた、『朝倉宗滴話記』に、彼が死ぬ前に残した言葉がある。
「今死んでも思い残すことはないが、後3年は生きてみたい。やり残したことがあるわけではないが、織田上総介――織田信長――という男の行く末に興味があるのだ」
朝倉宗滴の没年は1555年。まだ織田信長は尾張一国の統治すら出来ておらず、かの桶狭間の戦いで信長の名前が一躍有名になるのはその5年後である。
だから、私はこの言葉が朝倉宗滴に未来が見えたとか、信長が危険だと思ったとかではないと思っている。
周囲皆敵、身内にすら敵がいる中で、ひたすら戦い続ける織田信長という男のエピソードを伝え聞いた朝倉宗滴は、たぶんそこにもう一人の自分を見る思いだったのではないか。
「武者は犬とも言え、畜生ともいえ、勝つことが本にて候」
織田信長という青年武将もまた、そういう男だったからだ。
なお、歴史群像No.76には『越前朝倉興亡記』という、やはり大野信長さんの記事があるが、こちらと合わせて読むと今号の記事はさらに面白いだろう。
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