『DRAGON BUSTER 01 龍盤七朝』秋山瑞人 導入部「序――龍の系譜」にみる、読者の視点や興味を誘導し、納得させる技法
久しぶりの秋山瑞人さんの新刊である。
あまりに久しぶりなので、いきなり読むのははばかられた。
これ1冊で2年か3年はあれこれ妄想して楽しむ必要があるのだ。
そこで、あえて机の脇、目につく場所に置いておいた。
「俺はいつでも、この本を読むことができるのだ」
そう心の内でほくそ笑みつつ好きな本を読まないで置いておくのはなかなかに趣があるものである。
とはいえ、そうやって焦らす楽しみも一週間あれば十分だろうということで、読んでみた。
焦らした分、むさぼるように読んだ……かというと、そうでもない。
私の本の楽しみ方は、酔いしれながら読む楽しみ方と、納得しながら読む楽しみ方に二分できる。このふたつに明確な境界線があるわけではなく、混じり合ってはいるが、この本に関してはやはり「ふむふむ、なるほど」と納得しながら読む割合が大きかった。
その納得を示すものとして、本書の導入部「序――龍の系譜」をみてみよう。
昔の戦争で、ひとりの女が三百人が詰める砦に単身で乗り込み、そのほとんどを斬って捨てたというものである。
物語の導入のエピソードとしては、それほど珍しいものではない。ターミネーターだって、ランボーだって、撃ちまくりーの殺しまくりーの、である。
だから、このエピソードが読んで面白いのには、ちゃんと理由があるのだ。
(p11)
遠い昔、老人は“龍”を見たことがある。
最初の一文はこれだ。
これだけでは良くも悪くもない。なんかハッタリかけてんなー、という感じであるがまあ、目はそのまま先へ進む。
続く文章には、これから語られるのが“六十と七年前”の戦時下のエピソードだと書いてある。
続くイメージの想起キーワードはこれだ。
(p11)
勝った側の歴史とは所詮そんな程度のものであるが、とりわけ天下の軍国たる卯にしてみれば、あの一件は是が非でも葬り去らねば収まりのつかない理解不能の記憶であったのかもしれない。
ナニやら、これから語られるのは歴史の暗部だぞ、と匂わせている。
(p12)
中でもひときわ鮮明な記憶は、「北東に大凶の兆しあり」を意味する占術の幟が鐘楼に掲げられていたことである。
いきなり、その暗部がさらけだされるわけではなく。その予兆をまず語るあたりがニクイ。しかもこの後、占術なんて明日の天気も分からないとかこきおろしておいて、こうだ。
(p13)
そんな役立たずの幟が、あの日に限って、八門関を滅ぼす大凶が北東より到来すると看破していたのは一体どういうわけだったのだろう。
いやだから、爺さん。もったいぶらないで言えよ、なんだよ。ナニがあったんだよ。あんたもう、老い先短いんだから、あまり長い話すると途中でくたばるだろうが。
読みながらそんなことを思ってしまうわけだが、何せそこは年寄りの昔話。まだまだ続く。龍の兆は本当にあったのか。役立たずの占い師にも分かるほどの兆しが。
が、老人の思い出話であるからして、結論は自分で出してしまう。
(p13)
否。
やはり、ただの偶然だったのだろう。
そして、ここまで焦らしておいて、老人の視点が過去へと飛ぶ。映画なんかでいえば、最初に老人が昔話をしていて、続いて画面がもやもやもやーんとなってから、過去のその場面へ飛ぶという演出である。
映画ならばカメラワークであるが、もちろん、小説であるからして文章で描かれる。少し長いが引用してみよう。
(p14~15)
老いさらばえた分だけ魂も干乾びて軽くなったのかもしれない。近頃では、薄く目を閉じて気を静めるだけで過ぎ去った日々へと容易に飛翔することができる。あの日のあの夕刻、大凶到来の幟を掲げよと自ら命じたあの無駄飯喰らいは一体何をしていたのだろう。またぞろ下手くそな詩でも捻っていたか、物見櫓に登って蘭瑞の岸辺に洗濯をしに来る女たちを覗いていたか。西日の射し込む粗末な執務室では、当時の砦首であった円将王朗が流刑も同然の己が任を呪いながら性懲りもなく転属を懇願する書状をしたためていただろう。無理もない、戦線もすでに地平の果てへと去ったあの頃、八門関は大掛かりな戦や輝かしい功名とは無縁の砦だったのだ。紅色の蜻蛉は桶の水面を突いて波紋を広げ、出入りの商人は証文に判を突き、午後番の歩哨は汗と虱と退屈にまみれ、群狗自身はといえば、天幕の日陰に長椅子と丼を持ち出して仲間三人と賽を振っていた。
映画であれば、砦の遠景あたりからはじまって、ゆっくりと近付いていって、楼門やら兵士やら出入りの商人やらを写していきつつ砦の中に入る。
はためく凶事を示す幟にしばらく焦点を当てたあと(字幕が出る)、最後にその下に転じて若き日の語り手の老人(群狗)が仲間と賭けごとをやっている場面を映し出す。
けれど、それと同じことを文章ではできない。やってもいいが、効果は悪い。そこで、人々のエピソードに「女たちを覗いて」とか「転属を懇願」とかのように、映像作品であれば役者の演技でそれとなく見せる部分を明白な形で描写しているわけだ。
その後は、若い群狗の目と耳が読者の目と耳となる。
むろん読者としてみれば、すでに「なんかある」のは分かっている。この先にとんでもないことが起きるに違いないといわれ、じりじりしている。
だから、群狗の語る砦のよしなごとにも飽きることなくついていく。なぜなら、その中にも続く破滅を予兆させるものがちりばめられているからだ。
(p15)
人足たちがほとんど裸に近い格好で働いているのは武器の類を持ち込ませないための用心だった。
読者は、「――にも関わらず、ってわけだな?」と描写にリアクションを返しながら読み進める。
しかも、そうやって群狗は北東の方角へ――凶事の方角へ近付いているのである。当の群狗はむろん知らない。けれど読者は知っている。だから期待が膨らむ。
そしていよいよ、凶事の中心に到達する。厠の糞尿をためる糞樽の中に潜んでいた女が、厠の中から出てきたのだ。
ここも、いわゆる理詰めで納得の描写である。
重要人物登場であるから、漫画であればブチ抜きの大ゴマで。映画なんかでいくと、カメラの位置を変えたりスローモーにしたりして三回ぐらい繰り返す、アレである。さすがに長いので引用はしない。私の脳内では、“ダダンダンダン……”というターミネーターの登場場面BGMが流れていたことを書き記しておく。
そこから一気にアクションである。
三百人が詰める砦の中に、女ひとりが殴り込みである。当然、囲まれる。槍で突かれる。が、女はそれをすべてはらいのける。
(p21)
瞬く間に十人が斬られた。
しかし、ここでは男たちはまだ意気軒昂だ。何せ戦火も遠のいた砦で、暇なのである。おっとり刀で駆けつけてくる。
(p22)
さらに十人が斬られた。
にも関わらず、なぜか、女を止めることができない。それどころか同士討ちまではじまる。女の独特の歩法で誘導されているのだ。
(p22)
さらに十人が斬られた。
砦の門が閉じられる。これで女は袋の鼠だ。だが、読者的にはこれは明らかな死亡フラグというやつである。「やべー、やべーよっ」と言いながら読み続ける。
(p23)
さらに十人が斬られた。
何かがおかしい。
(p23)
そして、さらに十人が斬られた。
ここで、遅ればせながら、砦の兵士の浮ついた気分が消える。古参の兵が腕に覚えの槍をふるう。
(p23)
あの一突きこそまさに雑兵の意地、練兵で詰め込まれたお仕着せの兵法が、弛まぬ精進を経てのみ到達し得る極北の姿であったと皮肉でなしに思う。
ちょっと泣かせの演出が入りました。ぐっとくる描写である。でも、手も足もでない。すっぱり斬られる。
そして、この後はモラルブレイクして逃げまどう兵士たちを斬って斬って斬りまくりである。気持ちは分かる。なんだか悪鬼の類と戦っている気分になろうというものだ。
ここからは、腰を抜かしていた群狗の客観描写から、覚悟を決めた群狗の主観描写に切り替わる。
『バイオハザード』で弾丸ないのにゾンビの群れに囲まれたような、群狗の恐怖や焦りが描写の中心になるわけだ。
読者的には、六十と七年後にも群狗が生きていることから、彼が助かることは分かるのだが、こんな化け物のような女を相手にどう助かるのやらと興味が持続するという寸法である。
このように、導入部を読んでみるだけでも、読者の興味を引き、情動を煽り、焦らして昂ぶらせるための理詰めで納得のいく技法が幾つも使われている。
読者が何を見ているか、何を読みたいと思っているか――それを見切り、必要であれば誘導し、そして楽しませる。
見事な技法であり、見事な作品である。
これでこそ、続きを二年でも三年でも待てるというものだ。

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