宇宙世紀三大悪女としてのララァ・スン
ガンダムファンの間では、宇宙世紀三大悪女という言葉が語られることがある。
三人のうち、二人まではおおむね定番が決まっている。
Vガンダムに登場するカテジナさんことカテジナ・ルース。
そしてガンダム0083に登場するニナ・パープルトンである。
カテジナさんについては誰もが納得の人選である。なんといっても、言うことやること、過激にすぎる。最初は清楚なお嬢様っぽい立ち位置だったのがどんどん暗黒面がむきだしになり、最後にはほとんどボス敵にまで成り上がってきている。
一方のニナ・パープルトンは悪女と呼ぶよりも、単に嫌われ役という感じだ。アナベル・ガトーとコウ・ウラキの間を行き当たりばったりでうろうろするその姿に、醜悪な印象を抱いたファンが多かったせいもあろう。私はどことなく、ドラマ部分にある矛盾を一身に背負わされた作られた悪女という印象を、彼女には抱いている。
さて、問題は三人目だ。
カテジナさん、そしてニナ。方向性は違えど、それなりにインパクトを持つ悪女ふたりに匹敵する悪女が、宇宙世紀にいるだろうか?
結論から言えば、いない。
性格が悪かったり、ムチャクチャなことをやる女性は他にも大勢いるが、他を圧倒するほどの悪女としての実績を持つ、あるいは一部ファンとはいえ、蛇蝎のごとく嫌われる女性がいないのである。セイラさんは実は黒いとか、クェスは気にくわないとかの個人的な印象はあれど、ファンの間で共通認識になるまでは育っていない。
そこで、ここに、ララァ・スンを三大悪女のひとりとして認めてみてはどうかと私は提案したい。
悪女、といっても。ララァはカテジナさんのように悪いことをしたわけではない。一年戦争でいえば、まだキシリアの方が悪女めいたことをしている。また、シャアとアムロの間の三角関係にあったとしても、ニナ・パープルトンのように醜悪な言動で男を迷わせたわけでもない。
むしろ、三角関係でいえば被害者めいたところもあり、同情されこそすれ、非難の対象にはならない――はずだ。
ここで少し悪女うんぬんから視点を変えてみる。
ララァという女性の特殊性についてだ。
ララァが特別な女性であることは、その後のアムロやシャアのセリフからも分かるだろう。ララァはこのふたりの傑出したニュータイプに強い影響を与えている。では、その特殊性とは何だろうか?
ニュータイプとは、人類の革新である。人は分かり合える、それがニュータイプというものだ――が。
実のところ、ニュータイプでなくても人は分かり合える。直接相手の心は読めないし、たびたび誤解やすれ違いもあるが、それでも我々は分かり合える。魂が融合するほど自我が溶け合う必要は、ないのだ。人類の革新は『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)やら『人間以上』にしかないというのならともかく、そこまで行く必要がないなら、ニュータイプの力はいらないのだ。
それどころか、ニュータイプの力は人類の革新とも人と人が分かり合えるのともあまり関係がないようにすら思える。人と人が心と心で結ばれるというのは、社会のありようが今のままであるのなら、むしろケンカになりかねない。
ちょっと自分の心の中をのぞきこんでいただきたい。良いもの、きれいなものもそこにはあるだろうが、醜いもの、邪悪なもの、恥ずかしいもの――それらもやはりある。これらすべてを相手に押しつけるかのごとき形で心と心を結びたいと、本当にあなたは思うだろうか? たとえ、愛する家族、気の置けない友人であったとしても、やはり隠しておきたい気持ちはあるのだ。
そう考えてみると、ガンダム世界においてニュータイプ同士が分かり合えなかった理由は明白だ。ニュータイプの力によって自分の醜い内面、他人の汚い胸の内をさらけだしあった結果、そこに生まれるのは分かり合うという気持ちではなく、拒絶と敵意でしかないだろう。
だが、ひとりだけ例外があった。
ララァである。彼女は、アムロやシャアの心をさらけだされた上で、それを理解した。好ましいと思った。なぜだろうか?
そこにきれいなものしか見えなかったわけではあるまい。アムロも、シャアも、こう言ってはなんだが内面ではきわめて甘えん坊である。男には誰しも女性や母性に依存したいという気持ちがあるものだが、このふたりは特にそれが強いように見える。
そして、ララァはそのすべてを受け入れ、肯定した。
それはなぜだろうか? 私はララァのニュータイプの力が原因だとは思わない。そうではなく、ニュータイプとは無関係に、彼女は。
ダメな男を、ダメなほどに愛してしまう、好ましく思ってしまう――いわゆる、『ダメンズ・ウォーカー』な女性だったのではないか。
ニュータイプの力と、ダメ男ラブな性癖を持つ女性。これは最強の組み合わせである。どんな男だって内面にダメなところがある。それをさらけだし、押しつけても嫌うどころかより愛してくれる女性。女神じゃあるまいか。
だが、同時にこれは最悪の組み合わせでもある。一年戦争において、ララァという女性と知り合ったアムロとシャアは、その結果、ララァの呪縛に囚われてしまう。
ララァの呪縛の最悪の面が出たのがシャアである。
シャアはその優れた能力とは裏腹に、きわめて脆弱な精神を持つ。彼の仮面と偽名は、その弱い自分を隠すためのものであるとも言える。
抜きんでた高い能力と、優れた血筋を持つがゆえに、シャアは常に周囲から頼られ、依存されてきた。それは人間が猿の群れであった頃からの当然の流れであり、否定しようがない。不満であっても、シャアは仮面の下にそれを押し隠した。
そしてそれは、ある程度はうまく機能した。シャアは復讐のためとはいえ、仮面の下に作った「かくあるべき自分」を演じ続けた。
シャアだけではない。我々は全員、社会においてそうやって生きている。両親に対して良き子供としての自分を、子供に対して良き父母としての自分を、社会において尊敬される一員としての自分を、作り、演じる。演じる自分は本物の自分と同じではない。しかし、それもまた自分の一面である。また、かくありたい自分を演じることによって、自分を高めることもできる。
苦しいとき、辛いとき、逃げずに踏みとどまるためには。自分を嫌いにならずに、肯定できるようにするためには。「かくありたい」と思う自分を演じることによって、虚構と仮面の力をかき集めることで可能になる。そういう側面も、やはりあるのだ。
だが、シャアはララァによってその最後の踏ん張りどころを失ってしまった。
ダメな自分。弱い自分。醜い自分を。
「それでもララァは、私を愛してくれた」
だから、逃げるような自分でもいいと。
アクシズでシャアと会ったハマーンは。ララァのようになろうと努力したのではないかと思う。
シャアもまたララァの代わりをハマーンに求めてはないかと思う。
しかし、ダメ男を愛するという特殊な性癖を持たないハマーンは、シャアの出した甘えと依存のメッセージを正しく受け取ることができなかった。あるいは正しく受け取ったがゆえに拒絶してしまったのかもしれない。いずれにせよ、ふたりの愛は破局し、憎しみと絶望だけが残った。
その後の『Zガンダム』でも、結局シャアは最後まで踏ん張って仮面を押し通すことができなかった。エウーゴのクワトロ大尉としても、シャアとしても。本来のキャスバルとしても。
シャアは社会や人間に絶望したのではない。誰かに甘えて依存したいのに、誰も甘えさせてくれないから不満で逃げ出したのだ。
そうして考えると、『逆襲のシャア』におけるシャアの目的ははっきりしている。彼は人類すべて、そして地球に甘えてみせたのだ。こんなダメな自分を、人類の故郷である地球の生態系を破壊するような最低の自分を、それでも受け入れて欲しいと。
筋金入りの甘えん坊というか、ここまでいくと狂気のレベルである。
それほどに、ララァの愛は甘い毒となってシャアを侵したのだ。
もしもララァがいなければ。
ダメ男を愛する性癖を持ったニュータイプと出会うことがなければ。
どれほどに宇宙世紀の歴史は救われることになったのだろうか。
醜く弱い自分を、それでも仮面の下に押しとどめ続けることがシャアにできれば。もしかしたら、シャアとハマーンの関係は破綻せずにすんだかもしれない。いずれシャアの弱さは露呈したろうが、それまでにハマーンが十分に精神的に成長していれば、ハマーンはシャアの弱さを無条件に受け入れるのではなく叱咤激励することでシャアを奮起させることができたかもしれない。
その結果として、やはりアクシズと地球との間には戦争が起きたかもしれないし、多くの人が死ぬことになったかもしれない。
けれども、その戦いはアメリカ独立戦争のような。人類が新たな一歩を踏み出すためのきっかけになる戦いではなかったか。
人類の革新とかニュータイプがどうこうではなく、もっと先に何とかすべき、経済や政治の権利や平等へとつながる戦いになったのではないか。
ララァは、辞書的な意味合いでは決して悪女ではない。悪いことはしていないし、傍からみて不愉快な女性でもない。それどころか、聖女か女神かというくらい情けの深い女性であったろう。
しかし、その深い情愛が何を生み出したかを考えれば。
彼女こそ、宇宙世紀最大の悪女ではないかと思えるのである。
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以前、友人との雑談に「ガンダム三大悪女」の話題が出た。
ガンダム(宇宙世紀)で「悪女」のレッテルを貼られた3人のキャラクターのこと...
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