『エートレインで行こう!』プロット前半
GA文庫テーマ大賞に向けて書いたプロットです。規定通り、本文にして100ページになるあたりで、うまいこと収まればいいなと思いつつ、収まらないような気もしてきました。
限りなく本文に近い量ですが、読めたら読んでね!
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春、駅、謎の少女。そしてラブコメ?
『エートレインで行こう!・プロット』60ページ(原稿用紙77枚)その前半。
【この物語のあらすじ】
親に捨てられ、孤児となった行徳俊(ぎょうとくしゅん)は、鰐淵裕子(わにぶちゆうこ)という女性に拾われて、とある町の電車の駅に降り立った。その駅では、リンという少女が、俊の訪れを待っていた。 リンも俊と同じく、裕子に拾われたみなしごだ。裕子の所有する鰐淵屋敷を巡るトラブル、借金をかたに裕子に結婚をせまる男。そんな悪の手から裕子を守るため、俊はリンとともに悪と戦う。
そんな中、俊は自分の戸籍が抹消されているのだという事実を知って愕然とする。が、そんな子供達を救おうとする全く無力ながらもマイペースに生きる裕子の姿に励まされ、やがて俊はリンへの想いを育んでいく。みんなのアイドル裕子さんをこよなく愛する人達が、非力ゆえに織りなしていく、愛と哀しみのラブコメディ!
1.
俊【しゅん】は、とある駅に降り立った。電車を降り、階段を、登って下って、改札を抜けたときに目の前に拡がった、見知らぬ町の風景は──。
春霞。
揺れるかげろう。
満開の桜。
駅前だというのに、なんてうららかな光景なんだろう。
薄桃色の桜の花が、風もないのに、はらはらと枝からはぐれて舞い落ちる。その花びらを身に纏い、幹の根元に一人たたずむ少女の姿。
「あ……」
思わず声を出してしまった。最初はぼんやりとしか見えなかった少女の姿は、やがてハッキリと輪郭を浮かびあがらせてくる。
「どうしたの、俊くん」
俊をこの町に連れてきた女性が、俊の顔をのぞきこんできた。そして俊の視線の先にある、桜の根元へと、ついと目線を移動させた。
「綺麗でしょう、あの桜。この町のシンボルなのよ」
この女性──電車の中で知りあって、まだ名前も知らない──は、やさしい目をして微笑んだ。
「あの桜が、どうかした?」
「や、なんでも……」
女性は桜のことしか話題にしない。少女のことをいっこうに気に留める気配がないのはどうしてだろう。少女はとてもみすぼらしい服装で、一見してとてもまともとは思えない風貌だ。ボサボサの髪、浅黒い小さな顔から白い目だけを光らせて、さっきから、じっと俊だけを睨みつけてくる。それは捨て猫が、相手に敵意を抱きながらも、すきあらばなにがしかの獲物をかすめ取ってやろうともくろんでいる図さながらで、射すくめられた俊はその鋭い視線から逃れられない。
だけど女性にとって、あの少女は、あそこであんなふうに立っていても、不思議でもなんでもない存在のようだ。女性だけではない。駅前公園にはたくさんの大人たちが行き交っているが、誰も少女に注目したり、ましてや立ち止まって声をかけたりする者はいない。
ふあぁ。
女性があくびを噛み殺した。動こうとしない俊に、うーんと困った顔をして、やんわりとした言葉でうながしてくる。
「私の家は、ここから歩いて五分くらいよ」
「……うん」
やっとの思いで、俊は少女から目を離した。
少女の視線が背中に突き刺さるようだけど、この町に着いたばかりの俊には、ほかに気になることはたくさんある。そういうわけで、女性に手を引かれて歩いているうちに、俊の頭から少女のことは離れていった。
……それにしても歩いて五分だなんて。
とんでもない。
もうどれくらい歩いただろう、女性の家に辿りついたのは、夕日が沈んだあとだった。薄暗闇に浮かぶ屋敷は、見あげるばかりの豪邸で、まわりを背の高い樹木に囲まれた、いかにも古そうな洋館だ。
ギギギギィという入り口の扉の開く音を聞いたとき、俊は思わず身震いした。これじゃ、まんま、吸血鬼の隠れ家だ。
家の中は真っ暗だし。
パチンとなにかのスイッチを押した音がして、女性が深くため息をついた。
「まただわ……」
ああ、電気がつかないんだなと俊にはわかった。女性はそこいらに置いてある燭台に明かりを灯す。その手慣れた仕草を眺めながら、こういうこと、この家でもよくあることなのかと俊は思った。俊の家も最後のほうは、電気代を払えなくて、電気を止められてしまった。それにしてもこんなに大きな屋敷なのに、この家にはこの女の人一人しか住んでいないのだろうか。ほかに誰も出てこないし、屋敷からは物音ひとつ聞こえてこない。時折外からザワッと木々の葉擦れの音が聞こえたり、ギャーッスとカラスの悲鳴らしきものが聞こえるのがなんだかそれらしくてすごく不気味だ。
やさしい顔をしてるけど、もしかしたらこの女の人は僕を食べようともくろんでいるのかもしれない。などと半分冗談、でも半分は大真面目に考えながら、俊は出された粗末な食事を蝋燭の明かりの中で取り、食後はランプの明かりを頼りに寝室へと案内される。
なぜ俊はここにくることになったのか、明日から俊はなにをして暮らせばいいのか、学校はどうするのか、女性のことをなんと呼べばいいのか。女性は、それらのことに触れようとしない。わざと話さないようにしている気もして、俊からは、なにも聞けなかった。
その夜、俊は暗さとさびしさと不安とで、なかな眠れなかったけれど、電気がなければすることもないので、やがて泣きながら眠りに落ちた。
翌朝俊が目覚めたとき、女性は、もう出かけたあとだった。書き置きと朝昼の食事が用意されたテーブルには、この屋敷の鍵が置いてあった。裏口の鍵をかけて庭に出ると、長いハシゴのてっぺんで植木の手入れをしている大男と目が合った。大男は俊を見つけると、のしのしとハシゴを下りてきたので、恐くなった俊は転がるようにして、外へと向かった。うしろから大男のうめき声のようなものが聞こえてきて、俊の逃げ足は加速する。大男の手が俊の肩にかかった瞬間、俊は裏木戸から外へ飛びだした。大男は、それ以上は追ってこなかった。
なんであいつは僕を追っかけてきたんだろうと思いながらも、俊は一目散に駅へと向かった。
少女はいた。
昨日と同じ服装で、昨日と同じ場所に、昨日と同じく桜の花びらにまみれながら、ポツンと一人で立っている。物陰から少女の様子を観察していた俊は、まわりの人々が、やはり昨日同様、少女がまるで存在しないかのような反応しかみせないことが、とにかく不思議でならなかった。それにしてもあの少女は、あそこで誰かを待っているのか。あの目は、なにかを期待しているようには、とても見えない。まるで駅から出てくる人物を、一人一人チェックしているような目だ。
背格好から、少女は俊と同年代だと思われるが、学校には行ってないのだろうか。まあ俊も、人のことは言えないけれど。かれこれ一ヶ月以上、俊は学校に行っていない。
ひとけが少なくなるのを待って、俊は少女に近づいた。
声をかけたら、少女はとてもびっくりした。
「あんた、わたしが見えるの?」
「み、見えるけど」
少女の浅黒い顔は、ほんの一瞬少女らしい明るさをその目に見せたが、次に出てきた憎まれ口は。
「なんで声なんか、かけるのよ」
「は?」
「バカじゃないの」
プイとそっぽを向く。むかっときた俊は、
「あったまきた」
大声で言ってしまって、すぐ横を通り過ぎようとしていた大人にジロリと睨まれ、うつむいた。うつむいたまま少女を睨み、小さな声で文句を言った。
「キミこそ、なんでこんなとこにボサーッと突っ立ってんのさ。バカじゃない」
「ふふ。わたしはね、あんたみたいなマヌケがくるのを待ってたのよ。まさか本当に現れるとは思ってもみなかったけどね」
……憎たらしい。
黙って立っているぶんには、少女は目つきが悪いながらも思わず助けてあげたくなるような、放ってはおけない痛々しさを感じたのに、口を開くとかわいげもくそもありゃしない。
「ちぇ」
「なによ」
「キミの言うとおりさ。僕って本当にバカだったよ。キミがなにか困ってるんじゃないかなって、心配になったから会いにきたのに」
「困ってないわけじゃないけど」
「でも、もう助ける気がなくなったから。じゃあ」
もう俊は、踵を返している。
「あ……」
俊の気の短さに、少女はたぶんあっけにとられている。だけど俊は完全に頭に血がのぼっていた。人の好意をムゲにされたようで、その人の良さをバカにされたようで。
俊の父親がそうだったから。誰にでも親身になって世話をやいて、頼まれごとをホイホイ引き受けて、そして母親から、さんざんバカにされてけなされて。挙げ句の果てに商売に失敗して母親はほかの男と遁走、借金いっぱいつくって父親もいなくなった。 俊にはなんの説明もなく。
そして俊はひとりになった。
そんな経緯をにがい思いで噛みしめながら、俊は、屋敷の門を走り抜けた。
ドン!
さっきの大男にぶつかった。小さな俊はいきおいよくぶっとんで、地面に尻もちをついてしまう。大男は悪くない。自分が下向いて走っていたから出会い頭にぶつかったんだとわかっている。わっかっちゃいるけど。
「いったいなあっ! もおっ!」
「……」
大男は、のぼーと突っ立ったまま俊を見おろしている。やがてのろのろと毛むくじゃらの手を差し伸べてきた。
「いいよ。自分で立てるから」
立ちあがり、性懲りもなくまた走りだす。
ダン!
また誰かにぶつかった。
「痛……」
「ちゃんと前を向いて歩かんか!」
見知らぬおっさんに怒鳴られた。
「うっせーなー。おじさんは誰なんだよ」
「それが目上に対する言葉か!」
おっさんは強かった。
俊がすっかり固まってしまうと、
「きみが行徳俊【ぎょうとくしゅん】くんだね」
「……そうですけど」
「電気工事は終わったよ」
「え」
「なんだ、裕子さんから、なにも聞いていないのか。昨夜の停電は、客間の壁を通っている電線が漏電したせいだった。それで漏電ブレーカーが落ちたんだ。そのように裕子さんに伝えといてくれ」
裕子さん裕子さんって、このおっさんは裕子さんのなんなんだ。とむかつきながらも、あの女性が裕子という名だということが、やっと俊にもわかってほっとした。やはり名無しは正体不明でキモチワルイ。
「おい坊主。聞いてるのか」
「はーい」
「はーいって、今言ったこと、正しく伝えられるんだろうな」
「伝えられるよ。簡単なことじゃない」
「そうか。じゃあもう一つ。請求書はあとで郵送する。そうも伝えといてくれ」
「はーい」
「本当にわかってんのか坊主」
「わかってるってば。うるさいなぁ」
「あとで裕子さんに確認するぞ」
「それくらいなら、最初から僕に頼まず自分で電話すればいいんじゃん」
「そうか、それもそうだな。きみは思ったよりも利口そうだな。わははは!」
おっさんは、なんか知らんが顔を真っ赤にさせて大声を放ちながら脚立を担いで出ていった。
変な大人ばっかりだ、この家に入ってくるのは。
そう思いながら大男のほうを見ると、大男はやはりのぼっと突っ立っていた。
「こっち見んな!」
捨てゼリフを残して家に入った俊は驚いた。
「無茶苦茶じゃん」
あの電気屋が、やりっぱなしに散らかしていったのだ。
「ちゃんと片付けて帰れよなっ!」
転がっている傘立てを蹴っ飛ばした。すると背後から少女の声が。
「あっきれた」
「うわっ!」
駅の少女が立っていた。
「あんたってホントに気が短いんだね」
「……いつの間にって、なんでここにいるんだよ!」
俊の質問に、少女はまるでべつのことを言う。
「この家の子になったんだ、あんた」
「だから、なんでここにいるんだよ」
「裕子さんの子供になったの?」
「知ってるの? あの女の人のこと」
「だから、あんたは、この家の子になったのかって聞いてんのよわたしは」
「この家の子って……まだ、そういうわけじゃ」
「じゃあ、どういうわけ」
「よくわかんない」
「なんで、わかんないのよ」
どうして僕がこいつに責められなくちゃなんないんだと思いながら、俊自身、この家での立場が定まらなくて、居心地が悪い真っ最中だ。
俊が黙ってしまったので、少女はさっと話題を替えた。
「まあいいか。とにかく片付けるわよ」
「片付けるって、なにを」
「見ればわかるでしょ、この惨状」
「ええー、僕が片付けるの?」
「ほかに誰が片付けるのよ」
「あの電気屋」
「言える? あんたに」
「……言えない」
そういうわけで、俊は少女と二人、もくもくと二時間ほども、掃除機をかけたり変なところに置いてある家具を壁際に動かしたりして働いた。
「なんで掃除機のある場所を知ってんの」
「ときどき遊びにくるから」
「遊ぶって、あの裕子さんって人と?」
「まさかでしょ、でしょでしょ」
なぜか少女は楽しそうだ。
そういえば。
「キミ、名前はなんていうの」
「知りたい?」
「べつに知りたかないよ!」
「あんたって……」
「なんだよ」
「見かけもそうだけど、ホント、気が短くて単純なのね」
「単純ってなんだよ単純って」
「辞書によれば、複雑でないこと、とある。きっと褒め言葉よ」
「褒められてる気がしない」
俊はげんなりとしてきた。知らない土地にやってきたから、会う人会う人初対面なのはしかたがない。しかたはないけど、会う人会う人理解に苦しむ人物ばかりだというのは、これはいったいどういうことか。
この屋敷のせいなのか。
「まあいいや。おなかすいた。ごはん食べよう」
「……」
少女が珍しく黙っている。なにか怪しいと思ったら、案の定、俊のためにとテーブルに用意されていた食事は、みごとに食べ尽くされていた。
「だって三日間、なにも食べてないんだもの」
「だからって勝手に人の家に入ってきて勝手に人んちのごはん食べたら犯罪だろー!」
「ついでに一つお願いがあるの」
「ついでじゃない、断じてついでじゃ」
「うるさい。いいから人の言うことを聞きなさい」
ぐぐっと顔を近づけてきた少女は、そういえばひどく臭い。
「お風呂に入りたいの。いい?」
「何日入ってないんだ」
恐る恐る聞いてみる俊。
「うふ、それは内緒」
くるりと背中を向けた少女は、ぼろ雑巾並みの服を抜ぎ捨てながら風呂場へと向かう。
俊の顔はひたすら赤い。
「はら減った……」
へなへなと床に座りこんだ。視線を感じて窓を見ると、外からあの大男が、俊の様子を覗きこんでいる。
「見るなーっ! 僕のことをそんな目で見るなー!」
頭がヘンになりそうだ。
風呂あがりの少女はそれはそれは美しかった。ボサボサだった髪は信じられないくらいサラサラの長髪によみがえり、一糸まとわぬその裸体は、裸体は、裸体はじつはまともに見ることができなかったから置いといて、もともとかわいいと思っていた顔は、垢が落ちて、ゆで卵のようにつるんとした肌になっていた。目がパッチリと大きくて、鼻がちっこくて。
女の子って、風呂入ったくらいで、なんでこんなに変わるんだろ。
少女はぼろ雑巾のような衣類をゴミ箱の中に突っこんで、俊が持ってきた服の中から一番お気に入りの、ワッペンをたくさん縫いつけたシャツと白い長ズボンを問答無用で取りあげて着た。なぜ俊がそれを阻止することができなかったかは言うまでもないだろうが一応説明しておくと、服を与えないと少女が裸でうろつくからだ。
ばっはっはーい!
と陽気な声を響かせて、少女は屋敷から出ていった。
「ばっはっはーいって……。どこの国の言葉なんだよ」
がっくりと疲れた俊は、しかし空腹には耐え難く、食べ物を探して屋敷内を物色した。昨夜はろくに屋敷の様子を見てなかったが、この屋敷は古いわりには綺麗だし、床がギシギシ鳴ったりぶかぶかへこんだりはしない。俊が前に住んでいた一軒家に比べると、つくりもガッチリ、見かけもきっちりとしている。部屋はあきれるくらいたくさんあって、はじめは一室一室あけて中をのぞいていた俊だったけど、みんな変わり映えのしない、へたをすれば調度品ひとつないような空き部屋ばかりだったので、ドアをあけることさえ面倒になってきた。
裕子さんって、なんでこんな広い屋敷に一人で住んでいるんだろう。あの人、ほんわか綺麗な顔をしてるけど、いったいいくつくらいなんだろう。こんな大きな屋敷に住んでるってことは、俊の両親と違ってお金持ちなんだろうか。
謎だ。
あの少女も謎だしあの大男も謎だ。
あまり謎めいてなかったのは、電気屋のおっさんくらいだ。
そんなふうに考え事をしていたら、自分が屋敷のどこらへんにいるのか、すっかりわからなくなった。いくら広いからって、まさか迷子になったわけでもなかろうが、実際、食堂に戻るにはどっちに進めばいいのかがわからない。とにかく階段を何度かあがってきたのだから、階段を探して下っていけばいいだろうと、手当たり次第に階段を降りた。すると空気が冷えてきて、なにやらカビくさくなってきた。地下か? 地下はいやだな。地下ってあれだよね、死体が壁に埋まってたり、棺の中から吸血鬼がよみがえってきたりする場所だよね。
ぎぎぎぎぎィ……。
待ってましたとばかりに都合よく鳴り響く、ドアが軋んで開く音。
「っぎゃ……」
叫ぼうとして、俊がそこで見たものは。
「俊くん?」
裕子さんじゃありませんか。
「こんなとこでなにしてるの?」
それはこっちの台詞です。
てっきり裕子さんは外に出かけたものと思いこんでいた俊は、なんだかだまし討ちにあったみたいで事情が読めない。寝ぼけまなこな裕子さんは、かきっ、ぽきっと首を鳴らせて、ううーんと両手を伸ばし、背伸びをしようとしてぐらりと上体が前後に揺れた。
危ない倒れる、と、俊は裕子さんの腰にしがみついた。
とても、いい匂いがした。大人の女の人の匂い。
俊にしがみつかれたまま、裕子さんはかすれた声で尋ねてきた。
「……今、何時?」
「あ、あ、えーとたぶん、二時くらいかな」
「二時……。ずいぶん早起きしちゃったな」
もう大丈夫だろうと俊が離れると、裕子さんはものすごく不機嫌な顔をしていて、
「でも、もう少し寝る」
扉をバタン! と閉めてしまった。
「あ、あ、あ」
僕をここに置き去りにしないで。という言葉は声にならない。俊はまた、登るべき階段を求めて走りだした。でも走っても走っても階段に行き着かない。
ドン! と頭をなにかにぶつけて、俊はそのまま気絶した。空腹と恐怖で身も心もぼろぼろだい。しかしかすみゆく意識の中で、ぶつかった相手があの大男だったことだけは、おぼろげにだが記憶に残った。
【ここまでプロットで16ページ。本文にすると20ページくらい】
2.
「ハンス、お湯をたっぷり沸かしてね」
裕子さんの声だ。
「う」
男の声。ハンスって、外国人か?
食堂横のリビングのソファに寝かされているらしい俊は、固く目を閉じたまま、裕子さんの会話を盗み聞きしていた。
「今日は、なにも変わったことはなかった?」
「う」
「用心してね。このごろ家の中が荒らされて困るのよ。いったい誰の仕業かしらね」
「う、う、う……」
「なあに? うん、うん、ああ! わかった、電気屋さんね。そうか、修理をお願いしてたの、すっかり忘れてた。そういえばちゃんと電気がついてるわね」
裕子さんのあまりのぼけっぷりに、俊はあきれることしきり。
「それにしても俊くんは、なんでこんなところで寝ているのかしら」
「ぅ……」
う。としか返事しない男。もしかして、ハンスってあの大男のことか? 大きいけれど、もの静かな男だと思ってたら、しゃべれないのかもしれない。
フンフンと、上機嫌で裕子さんが歌を歌いだす。なんの歌か知らないけど、ものすごく上手だ。狸寝入りをしながら俊はその歌声に聞き入っていたところ、ふいに歌声がやみ、
「ところで、いつ食べる?」
と、その声はなぜか俊のほうに向けられている。
なにを、食べるの裕子さん。
「もらいものだから、おいしいかどうかわからないけど」
もらいもの? それってやっぱり僕のこと?
「俊くんが起きるまで待ってられないわ。もう茹でちゃいましょうよハンス」
裕子さんの立ちあがる気配。そして俊のほうへと歩いてくる。
「シュンのものはシュンのうちに……」
「わあああっ!」
「俊くん?」
思いきりソファから飛びあがると、すごい勢いであとずさりしながら俊は叫んだ。
「僕はきっとおいしくないよっ!」
「そんなこと、ないと思うわ」
裕子さんの微笑みが怖ろしい。
近くのドアをあけようとしても、鍵がかかって開かない。俊はもう泣きそうだった。まさかとは思っていたが、こんなことなら昼間のうちに逃げだしておくべきだったと今後悔してもはじまらない。
「いいからこっちにいらっしゃい。いい具合にお湯も沸いたし」
「いやだ、絶対にいやだ!」
「俊くんったら、そんなにわがまま言わないの」
「茹でるのはやめて」
「じゃあ、どうやって食べればいいの?」
「いや、だから、煮ても焼いてもおいしくないって」
「そう? それなら……」
裕子さんが考えているあいだにも、俊は手当たりしだい、窓やドアをあけようとする。あせっているからなのか、とにかくドアは開かない。
「そうだ、唐揚げにしよう」
神さま仏さま……。
「ダメ! 煮ても焼いてもついでに揚げても、まずいものはまずいんだってば!」
俊はもう必死だ。
「しかたないわね」
裕子さんがくるりとハンスのほうに向き直った。
「俊くんがそんなに言うなら、刺身でいいわ。ハンス、タコは刺身に切ってちょうだい」
タコ。
僕じゃなくて、タコ。
タコの話──だったのか。
「近所の子供がね、海で穫ってきましたって、もってきてくれたのよ。おいしそうでしょ。でも俊くんがタコが嫌いだって知らなかったものだから。ね、刺身だったら、少しくらいは食べられるかもしれないわよ?」
タコなんか、ほとんど食べたことのない俊は、生でも食べられないことはないと思う。でも生は気持ち悪いから、できれば茹でて欲しいとかって、今さらそんなこと言えないよね。大男はもう、たぎらせたお湯を豪快に捨てちゃったあとだし。今はでっかい包丁で、タコの足をゴンゴンぶったぎってる最中だし。
タコの刺身は、うまくもまずくもなかった。朝からなにも食べていない俊は、ほかになにも食べる物がなかったから、くちゃくちゃと固いタコの身をガムのように噛み続けてあごがはずれそうになった。
「あのう……」
「なあに俊くん」
「昼間、電気屋さんがきて」
「うん、知ってるわよ。ほら、電気がつくようになってるじゃない」
「漏電してたんだって」
「やっぱり」
「で、請求書はあとで送りますからって」
「……請求書」
裕子さんの顔がとたんに曇った。
「もう三年分くらいたまってるの」
「請求書が?」
「ええ。電気屋さんだけじゃなくてね、ハンスのお給金も、屋根の修理代も、井戸水を汲み上げるポンプの代金も」
こんな大きなお屋敷に住んでいるというのに、裕子さんもどうやらお金がないらしい。だけどそんなことを言われても、俊にはどうすることもできない。
「そんなにお金がないなら、どうして僕を引き受けたりしたの?」
「……かわいかったから」
ずーん。
どういう経緯で裕子さんが俊を迎えにきたのか知らないけれど、養育する能力がないのに身元を引き受けられても困るよな、と、俊は思った。
「じゃあ僕、学校になんて行けないね」
「学校? 俊くんは学校なんかに行きたかったの?」
意外な裕子さんの反応だったが、そう問われれば、学校なんて、とくに行きたいとは思わない。もともと勉強など嫌いな俊だ。
「困ったな」
裕子さんは本当にとまどっている様子だ。
「もし本当に学校に行きたいなら、ご両親のところに戻るしかないんだけど」
それがおそらく不可能であることくらい俊にだってわかってる。
「や、いいんです。僕学校なんて全然行く気、ありませんから」
「勉強したければ、この屋敷には本だけはたくさんあるから。全部読めば多分誰よりも賢くなれるわ」
「僕、働こうかな」
「まあ、ダメよそんなこと。まだ子供なんだから。この屋敷で自由に暮らして、ときどきわたしの話相手になってくれればいいんだから」
裕子さんはかわいらしい大人だけど、言ってることが、かなりズレてる。
「あの、一つ聞いていい?」
「なんでもどうぞ」
「このタコ、もらいものだって言ったよね。もしかして、誰かになにかもらわないと、食料も買えないくらいお金がないの?」
なんでも聞いてと言ったくせに、裕子さんは微笑むばかりで返事をしない。ハンスはコソコソと部屋を出ていった。
とにかくこの家では、食べるものからどうにかしないといけないらしい。
「それじゃ、私は出かけてくるわね」
「どこ行くの」
「お仕事よ」
「なんのお仕事」
「ふふ。秘密」
なにか怪しい仕事らしい。
次の日がきた。
屋敷の南側の庭には畑が拡がっている。自給自足の精神が感じられる風景だ。土を盛りあげて作った畝が、五列くらい並んでいる。農業に無縁の俊にでも、よくできた畑だということが、ひとめでわかる。
土が黒くて。やわらかそうで。こんなところになら、たくさん作物が育ちそうだ。これはハンスの仕業だろうか。すごいぜ。
「サツマイモ?」
一本の畝に、そう書かれた立て札があって、まだ小さな苗が、いかにも植えたばっかりという様子で小さな葉を拡げていた。
ふーん、サツマイモって、畑に植えるものなんだ。てっきりリンゴやミカンなどのように、木になるものだと思っていた俊は、じゃあ、ジャガイモも畑で作るのかなと考えた。同じ芋だしね。多分、そう。でも俊は本当にはわかっていない。芋は土の中で育つものだということを。キャベツなどのように、畑の上で大きくなると思っている。理科の授業で、俊はなにを習ったのだろう。それはさておき。
「おーい」
あの少女だ。
「おーいったら、バーカ」
なにかと言えばバカバカと。俊は背中で、完全に少女を無視し続けた。
「行徳俊!」
「なんだよっ!」
しかし気が短いゆえ、無視も長くは続かない。振り返ったらそこには──。
昨日よりもさらに垢抜けた感じになっている少女がいた。なんでかというと、今日は髪を、赤いリボンで束ねている。俊のお気に入りの、ワッペンをたくさん貼りつけた服装に、その髪型がとてもよく似合っているのだ。にっこり笑う顔は、黙ってさえいれば、とてもかわいい。
「あんた、やっぱりこの家の子になったんだね」
「まだ、わかんないよ」
「みんな、そうだった」
「え?」
「ちょっとこっちにおいでよ」
なにやら大事な話がしたそうだ。
少女は木の上にいる。俊はひょいひょいと、少女の座る太い枝まで登っていった。
「運動神経はいいんだね」
「運動神経は、ってなんだよ。運動神経も、だよ。も」
「も?」
「僕は運動神経も、いいんだ」
「運動神経と、じゃあ、ほかには、なにがいいの?」
「えーと」
「考えないとわかんないの?」
「運は悪いかもしんない」
「わけわかんないし」
軽口を叩きあったあと、少女から聞いた話。
少女の名はリン。昔はちゃんとした姓名があったのだろうが、今やリンという音しか覚えていないという。リンも俊と同じ、親が蒸発して裕子さんに拾われた。理由も俊と同じ。かわいかったから。で、そういう子供は、この町にたくさんいるらしい。ただし裕子さんはお金がないから、みんな屋敷を出て、外で働いている。
「うっそだぁ~」
「嘘ついてなんの得になるっていうのよ」
「だって、みんな子供なんだろ? この町では子供は学校に行かないで仕事してもいいの?」
俊の問いに、リンはちょっと哀しそうな顔をした。
「そのへんの事情は、おいおいわかってくると思う。わたしが言いたいのは、あんただけは、裕子さんのそばにいてあげて欲しいってことなの。あんたは、もう立派に私達の仲間になったんだから」
「ええー」
「なによそのイヤそうな顔」
「やだもん」
「なら、とっととこの家を出ていけばいいじゃない」
「無理。ほかに行くとこないし」
「あんたも家族に捨てられたの?」
「捨てられたっていうか……。いいじゃん、そんなこと、どうでも」
「そうね。そんなことは、どうでもいい。わたしたちにできるのは、自分たちで稼いだお金を出しあって、一日も早く裕子さんの借金をチャラにすること。そして……」
「借金? 裕子さん借金してんの?」
「あたりまえじゃない」
「いや、あたりまえじゃないだろう。なんで借金なんか」
「騙されたのよ」
「誰に」
「……」
「あの電気屋か!」
「案外、勘がいいのね」
「運動神経と勘はいいんだ」
「裕子さんはあの男に言葉巧みに騙されて、この屋敷を買わされたのよ。こんな大きな古いお屋敷、ほかに買い手も見つからなくて、しかたなく住んでるだけなの、裕子さんは」
「裕子さん、騙されたのか。うちの母さんは、騙されるほうがバカなんだって、口癖のように言ってたけどなぁ」
「それは真理ね。あんたのお母さんは、その点においてはなんら間違ってない。だから裕子さんは、電気屋のことを恨んだりしてないわ。問題は、電気屋は、なんで裕子さんを騙したのかってことなの」
「ただ単に、金が欲しかったからじゃないの?」
「でもそれだったら、騙したあとまで、お屋敷に出入りする必要はないでしょう」
「まだまだ金蔓にできると思ってんじゃない?」
「まさか。さかさにしたって鼻血も出ないってのは、裕子さんのことを指すのよ」
「そういや電気工事の請求書が三年分たまってるって、裕子さんが昨夜言ってた」
「……あきれた、三年分も?」
「うん」
「わたし、思うんだけど……」
リンはまた真面目な顔になった。
「あの電気屋、裕子さんのことが好きなんじゃないかな」
「まさか。好きな人のこと、普通騙したりするか?」
「はー。ホントに単純なのね、あんたって。あのねェ……」
急に大人っぽい目つきをして、リンが俊に、ひそひそ声で耳うちしてくる。
「電気屋は、裕子さんを借金で手も足も出なくして、手込めにしようと企んでるに決まってるじゃない」
……手込めってなんだ。
なんか聞いたことはあるし、それとなく意味もわかるけどさ!
あの電気屋の下品な顔を思いだし、俊は気持ち悪くなった。
「でもわからない。大人って、わたしたちの知らない考え方で動くから。ふたを開けてみれば事態はもっと複雑で、あの電気屋の裏に、もう一枚上手の悪党が潜んでいるのかもしれないし。これはあくまでも、わたしたち鰐淵チルドレンの勝手な予想だけどね」
「鰐淵チルドレン?」
「鰐淵って裕子さんの苗字よ。鰐淵裕子。その裕子さんが住んでる屋敷が鰐淵屋敷で、裕子さんに拾われた子供達が鰐淵チルドレン」
「そういや裕子さんって、歳はいくつなの」
「歳は知らない。仲間たちに聞いても、誰もはっきりしたことを聞いた子はいない」
「じゃあ裕子さんの夜のお仕事って」
「あんたが正式にわたしたちの仲間になるっていうなら、教えてあげる」
「鰐淵チルドレンに? 僕、そういう名前、嫌いだなー」
「じゃあ教えてやんない」
「いいよ。自分で探るから」
「頑固で意地っ張りなのね」
「群れるのが、いやなだけだよ」
俊のこの台詞に対して。
「……ふうん」
リンは、皮肉めいたことはなにも言わなかった。
「あのね」
「なに」
「裕子さんが拾ってくるのは、なぜかみんな女の子ばっかりだったの。わたしは、ずっとずっと、男の子の味方が欲しかった」
「……」
「女の子だけでは、できないことが多すぎる」
時は夜。
今夜もお仕事だと言って、裕子さんは外出する。そのあとをつけていこうとして、俊はハンスに首根っこを掴みあげられた。
「わ、なんで邪魔すんだよ」
「う!」
そういうことが毎晩続いた。ハンスに見つからないようにと、どんなにこっそり出ていこうとしても無駄。俊は、昼間畑仕事を手伝うことで、ハンスの心証を良くする作戦に出た。
「ハンスは裕子さんを守りたいんだろ?」
首を横に振るハンス。
「じゃあ、なんのためにこの屋敷で暮らしてるのさ」
首をかしげるだけのハンス。
まさかとは思いながら、俊は一応聞いてみる。
「ハンスも裕子さんに拾われてきたの?」
首を激しく横に振るハンス。
「だよなぁ。僕だって、なんでここに連れてこられたのか、さっぱりわかんない」
するとハンスはしばらく考えたのち、
「プ、プ、プリティー」
と言った。
その顔は赤い。
「……ねえハンス」
「う」
「裕子さんが夜なにをして働いてるのか考えると、僕は夜も寝られないんだ。このままじゃ僕は頭がヘンになってしまう。だから一生のお願い。今夜だけでいいから、僕の外出を見逃してよ!」
「ううううう!」
ハンスは頭をかかえて畑の上にしゃがみこむ。そのまま夜になった。
「あら、ハンスはどうしたのかしら」
外出する用意を調えた裕子さんが、俊に聞いてくる。まさか昼からずっと畑でうずくまってるとも言えなくて、俊は適当に誤魔化した。
「頭が痛いから寝るって言ってたよ」
「まさかぁ。あのハンスが?」
かんらかんらと裕子さんは陽気に笑う。
「ハンスだって人間だもの。頭くらい痛くなることもあるんじゃない」
「うふふ。俊くん、ハンスはね、人間じゃないらしいのよ」
裕子さんの衝撃的発言。
「ににに、人間じゃないって、じゃあ」
「この屋敷の守護霊なんだって」
「守護霊……」
「昔、イギリス人がこのお屋敷を建てたころから住んでいる、この家の守り神なんだって。だから英語しかしゃべれない」
ああ、だから「う」しかいわないのか。いや待て、今日はたしかプリティーってゆった。プリティーって英語なのだろうか。ぐーるぐーると俊の頭が空回りする。
「でも考えてみれば守護霊だって頭痛くらい起きるかもしれない。たしか五年前に買った頭痛薬があったはず……えーと」
「ぼ、ぼ、僕がハンスに持っていってあげるよ! 裕子さんは早くしないとお仕事に送れちゃうんじゃない?」
「ハンスの部屋まで迷わずにいける?」
「いける」
「じゃあ頼んだわね。行ってきます」
「いってらっしゃーい」
五年前のだか十年前のだか知らないけれど、この貴重な頭痛薬は俊がいただくことにした。この屋敷に住んでいると、ときどき頭が変になりそうになるから、いつか薬が役に立つこともあるだろう。
そうして俊は、裕子さんのあとをつけた。
「なんでキミがここにいるんだ」
気がついたらリンが俊の横にいた。
「あんたが変なことをしでかさないように」
「余計なお世話だ」
だけど不慣れな夜の街で、リンがそばにいてくれると少しだけほっとする。
酔っぱらいにからまれそうになったり補導員に見つかりそうになったりする危機を乗り越えながら、二人はついに裕子さんの仕事場にたどり着いた。裕子さんが入っていったのは、酒場の裏口。いそいで表に回ってみると、裏口とは打って変わってきらびやかな店構えで、ネオンサインには、
『A-train』
と描かれている。
「あれ、なんて読むの」
「エートレイン」
「なんで読めるの」
「普通に読めるわよ、あれくらい」
普通かそれ。と思いながらも俊は、エートレインってどこかで聞いたことがあるとも思った。しかしそれよりも問題は、この店にどうやって忍びこむかだ。
「わたしにとっては簡単なことだけど」
「簡単? でもいったいどうやって」
「わたしたちの仲間になると宣言したら、とっておきの『技』を教えてあげる」
「またかい」
「いいかげんで観念しなさいよね。裕子さんがあんたをこの町に連れてきたのは、連れてきたのは……はっ!」
「?」
「もしかして、女の子と間違われたの?」
「知らないよ、そんなこと。最初から裕子さんは僕のこと俊くんって呼んでたし」
「とにかくあんたが電気屋の魔の手から、裕子さんを守るのよ!」
「しーっ! 声がでかいよ。わかった、仲間になればいいんだろ。なるなる。なるから、とっておきの技とやらを教えてくれよ」
「その台詞、嘘じゃないでしょうね。この技を一度使えば……」
「使えば?」
「あんたはもう、普通の人間には戻れない」
「おおげさだなあ」
「おおげさじゃないわよ、本当のことよ。覚悟はよくて?」
「した、した、覚悟した」
「あんたって、ここぞというとき軽いんだよね。まあいいか。じゃあ教えてあげる。わたしが良しと言うまで、息をしないで」
「息を? 死んじゃうよ」
「苦しいけど死なない。その苦しみに耐えられないなら、この技は使えないから。あきらめる?」
「耐えるよ。耐えたらどうなるんだよ」
「いいから、最初はわたしの言うとおりにしてればいいの!」
そして俊は言われるままに、息を殺して店の入り口から入っていった。入り口にはボーイがいて、すぐその横を通り抜けてもボーイはなにも気づかない。なんでだろう。息をしないことで気配が消せているんだろうか。とにかくリンの言うとおりについていくと、やがて酒場の、ホールの奥に、綺麗な衣装を着てスポットライトを浴びている裕子さんの姿が見えてきた。
裕子さん……綺麗だ。
思わず息を呑みそうになって、リンからほっぺをつねられる。
ステージに立つ裕子さんは、気持ちよさそうに歌をうたっている。英語の歌だから俊には全然意味がわからないけれど、軽快なリズムにあわせて、裕子さんは活き活きしている。屋敷でのとぼけた裕子さんとは別人みたいだ。
息をしない俊は、いいかげん苦しくなってきた。片手で口と鼻を塞ぎ、外に出ようとリンに合図を送ったときだ。裕子さんの歌声がやみ、楽器の音がジャン! と止まった。
「裕子さあーん!」
ファンの声援だろうか。野太い声に視線を送るとなんとそれは。
電気屋!
酔っぱらった電気屋は、人目も憚らずステージにあがりこんで裕子さんに抱きつこうとする。
あの野郎!
と思ったとき、俊はついつい大きく息を吸ってしまった。
「このバカ!」
リンまで大声をあげたので、まわりの大人にバレバレだ。さいわいステージで電気屋が騒ぎを起こしてくれていたので、店員につかまることはなかったけれど、二人はほうほうのていで店から逃げだした。
「裕子さんを! 裕子さんを助けにいく!」
「バカを通り越してあほ! そんなの無理にきまってるでしょ。心配しなくてもあの電気屋は店の人に取り押さえられるはずよ。さあ。これで裕子さんの仕事がどんなものかわかったでしょ、帰るわよ!」
ぶりぶり怒りながら俊の手を引っ張るリンは、だけど、どこか、元気がない。
【ここまでプロットで38ページ。本文にすると50ページくらい】
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