教師は生徒を守るために死を賭すべきか

教師は生徒を守るために死を賭すべきか

【設例】
 Aはとある公立小学校の4年生を担任している教師である。ある日Aが授業をしていると、教室後方から暴漢が入り込み、手に持った包丁で座っている児童を刺した。2人目が刺された時点で教室がパニックとなったため、Aは「早く逃げなさい」と叫んで教室前方のドアを開くとともに、3人目を刺そうとした暴漢に向かって教科書等を投げつけた。暴漢がひるんだ隙に狙われた児童は逃げおおせたが、物を投げつけられたことに憤激した暴漢がAの方に包丁を構えて走ってきた。Aには武道の心得等はなく、他に武器となるようなものも無いので、逃げなければ刺されて死亡する可能性が相当高い。しかしなおも教室には恐怖のあまり座り込んで逃げられない児童が5人、退去しきれていない児童が5人いた。
 Aが児童を放置して逃走することは道徳的に非難されるべきか?

1.問題提起
「当然である」とするむきもあろう。「教師は生徒を命がけで守るべき責任がある」と。
しかし私は懐疑的にならざるをえない。それは、(1)そもそも設例のような状況で死を賭す人が大多数である、とは考えにくいこと、(2)道徳の機能上、それを維持するためのコストが生命の場合はその合理性に疑いがあること、(3)仮にそれが道徳だとしても、道徳を強制して人に死を強いる態度は道徳的なのか、ということの三点からである。

2.疑問の1
(1)さてまず、あなたが設例におけるAならば、その死を賭して暴漢に立ち向かうのであろうか。
 社会の構成員の大半が遵守しない道徳は、規範として成立しているか。「軽々しく救急車を呼んではいけない」という道徳があるとして、「なにがあるかはわからないのだから、気にせず呼ぶべきだと思う」という人が大半という状況においては、それは道徳規範として成立していないのではないか。
(2)そもそも道徳に従うことが「よい」とされているのは、「道徳に従わないと、万人の闘争状態になり社会が崩壊し、結局は自分が損をする」という点にある。この立場からは、道徳に反して自己の利益を追求する者に対しては、利己的だ、という非難はあたらず、非合理的だ、という非難が与えられることになる(道徳主義者もまた長期的な自己の利益のために道徳的に行動しているのだから)。
 ここで、道徳的とされる行為が「本当に」社会にとって利益なのかは論証できないことも多い。たとえば、エスカレータの右側を開けるか左側を開けるかは、それによって生じる社会的便益に差が出ることはないが、「右側(左側)を開けることが決まっている」状況が決まってしまえば、それに従うことが利益を生み出す。同様に、道徳も、なぜそう決まっているかは誰にも説明できないが、とにかく皆がそうやっているからやるべきだ、というものが多い。それが本質だとする見解もある。救急車の例にしてみても、なるほど、個々人が少しずつ我慢して救急医療体制に負担をかけないことで、社会的に利益である、ということもできよう。しかし、社会構成員の大多数が、「素人には医学的判断ができないのであるから、税金で救急体制を整備し、状況が発生すれば躊躇無く呼べるようにすべきだ」と考えたのであれば、現在日本を支配している(と思われる)「軽々しく救急車を呼ぶべきではない」というのは道徳ではなくなる。
(3)つまり、設例においても、我々の大多数が「もちろん私はたとえ死ぬとしてもその場に留まり、一人でも生徒を逃がそうとする。結果的に皆殺しになって犬死にするとしても、生徒の生命は教師の生命より大事なのだから、その救命可能性を上昇させる行為は社会的に有用であるし、あるいは機においてその死をもって生徒を守る教師の姿勢を示すことが教育上効果があるため、国民は誰でもそう行動すべきだ」と考えないのであれば、「教師は死を賭して生徒を守るべき」というのは道徳ではないと考えるのである。
(4)もちろん、「死を賭して生徒の命を守ろうとした教師」というのは美しい存在である。しかし、それは単なる英雄崇拝にすぎない。この国には他人に対し英雄になれと命ずる道徳規範があるのだろうか。朝日新聞的にしめるとすれば次のようになる。「そういえば『お国のために死ね』と万歳三唱して特攻隊を送り出したのはかつての我々であった。」

3.疑問の2
(1)「教師は生徒のために死を賭すべき」という道徳には、もう一つの欠陥がある。2(2)で述べたような道徳の機能からは、個人の生命を捨てさせることにより、その個人は今後社会からの便益を享受できないことになる。つまり、命を捨ててまで道徳を守る合理性を欠くのである。
(2)これに対し、「いや、あなたが子どもを別の学校に預けていた場合に得をすることもあるし、教師に対する信頼性を保持できるのだから、その意味で社会からの便益を享受しているといえる」と反論することも可能であろう。しかし、そのために「悪魔のくじ」を引かせることが正しいのか。散文的に言い直そう。公益のために人の生命を使うことができるのか。社会全体のインフルエンザ罹患者を減らすために、幾人かの子どもが副作用で死亡したとしても、それは社会のためになるから、集団予防接種は存続すべきだったということになるのではないか。
 上記の再反論に対して、「教師は特別な立場だ」という点を強調するのは失当である。教師という狭い範囲の人間にのみくじを引かせ、その恩恵を社会全体が得ようとするのであるから、社会全体でくじを引かせるより悪辣といえるからだ。確かに、教師自らが望んでその地位に就いたのであろうが、生け贄候補であることを了承して教師になる者がどれほどいるか疑問であろう。

4.疑問の3
 さらに、「教師は子どもを守るために死を賭すべきだ」との道徳が存在するとして、それを他人に強制することが道徳的か。もちろん、道徳的な行為を広めることは道徳的だ、と論理的には言えてしまうのかも知れない。しかし、社会の大多数が「死ぬべきだ」と思っていたらその対象たる少数者は死ぬべきなのか。
 多数派の意思でも、法律なら議会や裁判で争う余地もあるが、「道徳」を持ち出されたら抵抗できない(「空気」とも似ている)。社会の多数者に形成される共通の感情ないし主義主張のために、教師は死ぬべき(あるいは逃げて後ろ指を差されながら恥に満ちた生を送るべき)なのか。
 私にはそれが道徳的態度だとは思えないのだが、これを根拠づける言葉を持たない。

5.むすびにかえて
(1)本稿は、道徳について社会契約的・功利主義的立場を前提に(誤りがあるかも知れないが)述べた。これに対し、道徳的行為はそれ自体に価値があり、効用等を考慮に入れるべきではないというむきもあろう。しかしこの立場に対しては反論はたやすい。すなわち、道徳的行為自体に価値があるのであれば、その価値に共鳴する者のみがこれを行い、幸せになればよいのであり、価値観の異なる者に対してそれを強制し、または糾弾する理由がないのである。
(2)ただこれは、合理的な反論ではあるが力を持たない。道徳は理屈無く尊いのだ、お前も道徳的に生きろ、さもなくば一人で生きていけ、と「大多数」に言われた場合には、大変である。いま仮定的に表現したが、現実問題として非道徳的な者を排除する社会的圧力がある(この社会的圧力の存在自体も、道徳的行動に合理性があるという説明にすらなってしまう)。
 道徳を無視して利己的に振る舞い、かつ圧力をはねのけて自己の幸福を実現できるのであれば、道徳を無視した方がよい。しかしそれは、魔法の指輪を持っているレベルでの超人的能力が必要となる。「非道徳者よ、君の正義が世の中に潰される前に、君が正義であることを世の中に発信したまえ」という忠言の皮をかぶった恫喝は、それが達成可能であれば正しいし、「まあそう思っていてもいいが羊のふりをしておけ」という意味においてもやはり忠言なのである。
(3)6月10日、秋葉原通り魔事件の被疑者の両親が謝罪した、というニュースがあった。両親は警察に事情聴取されて帰ってきたところ、100人の報道陣に出迎えられ記者会見を強要され、謝罪し、「事件を防げなかったのか」「(親としての)社会的責任をどう考えるのか」などと質問されたようである。ニュース視聴者の「子のしたことは親の責任」という道徳観を満足させるためのものであろう。私の道徳観は、こうした報道姿勢やそういう道徳観を強要する「世間」のほうにこそ嫌悪感を抱くのである。
(了)

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道徳のように言われるのは、好きではないです。

 みぶろさんの投稿の表題は、「教師は生徒を守るために死を賭すべきか」ですけど。これ、アタシには一言では答えづらい設問になっています。

 まず「教師だったら、非常事態に際しても、生徒たちの安全を優先的に考えるべき」と思います。そうでなかったら困ると思います。

 次に、生徒の親御さんや家族たちが「教師は生徒を守るために死を賭すべき」と言うとしたら、その感情はアタシにも理解はできます。

 ただ、みぶろさんも触れてるように、道徳のようにして、メディアや一般社会で「教師は生徒を守るために死を賭すべき」と言われるとしたら、それは「(道徳として)言われるべきではない」と、思います。

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 アタシが思うに、教職者が道徳的に「死を賭すべき」と言われるがちなのは、根っこのとこに「親や家族は子供を学校に預けている」って理解が社会的にも共有されているからではないでしょうか(?)。

 「親ならば、子供を守るために命もかける」って感情は、かなり共有され得ると思います。これが社会通念の形をとると「親ならば、子供を守るために命もかけるべきだ」って道徳になるのでしょう。

 で、こうした感情や通念に「親や家族は子供を学校に預けている」って理解が関わると「教師は生徒を守るために死を賭すべき」って「べき論」も生まれるんだろうと思えます。

 そう考えると、生徒の親御さんや家族たちが言うことだとしたら、「教師は生徒を守るために死を賭すべき」も、感情面は理解できるわけです。

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 アタシも「教師だったら、非常事態に際しても、生徒たちの安全を優先的に考えるべき」とは思ってるわけで。たとえば、地震でも火事でも、学校災害に際して、教師は「生徒たちの安全を優先的に考え」て振舞うべきだと思います。

 でも「死を賭すべきか」と問われれば、飛躍も感じますし。賭すべき状況もあれば、賭すべきではない状況もあり得ますよね。例えば、火災でも、地震でも「多数の生徒の安全を優先して、少数を取り残さざるを得ない」とか、そうした出来事も、さほど無理なく想定できるでしょう。

 みぶろさんの【設例】を踏まえて考えてみると。仮想事例の教師Aの振る舞いは、自分のできる範囲での選択をしたと思えるので、その点、立派だと思います。

 けど、「そうした選択や振る舞いをあらゆる教師に道徳として期待すること」これは、又別の話です。この点、アタシはアタシなりにみぶろさんが書かれていることを、理解できてるつもりでいます。

 アタシとしては、表題の「教師は生徒を守るために死を賭すべきか」に、Yesと答えるにしてもNoと答えるにしても道徳や「べき論」のお話を主軸にすると、あまり現実的な展開を期待できなそうな気がて、気になっています。

 火事や地震のケースなら、教師や生徒がどうすべきか、学校では、シミュレーションもして、かなりの対応策マニュアルもできているはずですよね。みぶろさんの【設例】のようなケースで、現実的な対応策マニュアルをもっている学校って、今のところ、日本ではあまり無いんじゃなぁいかなぁ?
(私立の学校なんかだと、公立学校とはまた違った警備体制整えているところもあるかもですけど。詳しくは知りません)

 アタシが思うには「教師は生徒を守るために死を賭すべき」って、道徳的な「べき論」を焦点にして話題がやりとりされると、往々にして、現実的な対策に話が進まなそうな気がするんですね。これは、設問にYesと答える人にも、Noと答える人にも不本意でしょう。

 例えば、教壇の近くに非常ベルが設置してあれば、教師Aは暴漢に物を投げつけたりしないで、教室に踏みとどまって、暴漢を牽制しようとはできたかもしれない。ここでアタシが「現実的」と言ってるのはそうした方向での話題展開です。

 みぶろさんやアタシが利用しているもの書きのチャットで、時々聞くような言い方を真似てみると、一般論として「(現場メンバーが)頑張りすぎると、制度的な対処が遅れたり歪んだりする」と思えます。「教師は生徒を守るために死を賭すべき」って通念は、同様の期待を個々の教師に寄せるものと思えるので。「現実的ではない」と思います。

 ぶっちゃけ、私見を書くと、教師は数十名の生徒を「預かって」たりするわけなので、「それぞれの親と『同じように』受け持ち生徒の全員に命をかける」みたいな期待は、これはアタシは、無茶だし、過剰な期待だろうと思います。親や家族が期待しちゃうのは、これは感情面は理解はできますけれど、それでも過剰な期待だと思うわけです。

 直接のかかわりが無いメディアなどが「道徳」のようにして言うとしたら、それはアタシもみぶろさん同様、好きではないです。

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 もちろんアタシも、【設例】のような出来事もあり得ること(現実的)なのは理解しています。

 じゃぁ、どうしたらいいか? と言うと、学校って機構で教師を支援するなり、それでも追いつかない部分は地域社会が学校に協力する「べき」だ。と、こちらは、アタシは「べき」だと思います。たとえば、登下校の生徒の安全を確保するために、地域社会やボランティア団体が学校と協力体制築いていたりは普通にありますよね。

 そうしたバック・アップが無かったり、希薄だったりする分野で「教師は生徒を守るために死を賭すべき」って道徳が言われるとしたら、感情面は理解できるケースでも、過剰な期待を個々の教師に寄せることになるだろう、と、思えます。

エントリの趣旨が非建設的なもので

 コメントありがとうございます。
 内容的には、返信をそれほど期待しておられないのかな、と思いましたのでとりあえずお礼のみ。最初から道徳問題のみを扱う趣旨で書いているため、たとえば「暴漢への対処と職務の限界」や「学校における防災・防犯」という現実的かつ建設的な議論へは発展しにくいかと思います。この点で期待を裏切ったとすれば申し訳ない(笑)


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