ライトノベルとSFの関係についてあれこれ:『グロリアスドーン 6』(庄司卓)あとがきを読んで

 『グロリアスドーン6 少女は最果てにいざなう』(庄司卓)を楽しんだあと、あとがきにおける『ライトノベルとSFの関係』という部分を読んであれこれ思うところがあったので、よしなごとを。

 6巻のあとがきで、庄司さんは、SFとライトノベルの相性がよくない部分について考察を述べられています。

 その考察の足場になっているのが、世界やギミックなど、SFに特有の設定説明に手間がかかるという点です。

 これはたいへん納得がいきます。
 小説は、読者の脳内にある知識や経験に大きく依存する部分があります。
 漫画やアニメ、映画などですと、読者が知らない、読者の中にないイメージであっても、作品側がある程度、押しつけることができます。私はこれを「納得力」が高いと呼びます。少々荒唐無稽であっても、絵で見せられたものであれば、人は納得してしまいます。百聞は一見にしかずというやつですね。
 ですが、小説はそうはいきません。文字媒体はそこまでイメージを押しつける能力がありません。同じ文章を読んでも、読者の脳内に描かれるイメージには大きな差があるのです。

 むろん、絵が使えれば万能というわけではありません。漫画においてもSF設定の説明はそれなりに手間がかかるということは、山本貴嗣さんが『超人日記』というSF漫画(ギャグSFの傑作です)で紹介されています。

「SFとはな、ずばり――セックスや!」

 と、SFをSEXにたとえて、どんな熟練した漫画家=テクニシャンであってもSF設定の説明=前戯にはそれなりのページ=時間がかかるものだと説明されています。
 実際、スターウォーズなどの映画、ドラえもんなどの漫画やアニメによってSF的なギミックがそれなりに普及するまでは、SFを描きたいという漫画家さんに「学園で番長とか部活とかそういう漫画を描け」みたいなことをアドバイスをされる編集さんが多かったとも聞きます。説明が難しい、読者がついていけない、などの理由ですね。

 これは私がSFのTRPGを始めたころ――『トラベラー』や『すぺおぺひーろーず』など――から感じていたことでもあります。SF設定の説明の伝達度合いは、最終的にはプレイヤー自身のSFに関する知識や経験に依存するのです。もちろん、そこで科学という「この世界の共通言語」を利用して説明を補足するという手もありますが、これはSFに関する知識や経験に頼る以上に、伝達度合いが悪いのではないかと最近は考えております。我が友人のばんゆう君曰くところの『SFは二酸化炭素』ってやつですな。

 しかも、SF設定の説明に手間暇をかけた分、楽しくなるかというと――小説にせよ、漫画にせよ、RPGにせよ――やや、疑問は残ります。
 もちろん、私はおおいに楽しいですし、SFファンも楽しいという人が多いでしょう。ですが、これは逆に言えば、楽しめる人間=SFファンの多くは説明を必要としないということです。そして、説明されないと困るタイプの読者は、その説明を楽しく感じないわけです。

 また、ライトノベルは読者を限定する傾向があります。ラブコメにせよ、超人バトルにせよ、セカイ系にせよ、「コレを楽しめる読者を楽しませる」ことに全力を尽くしてあります。それゆえに、楽しめない人間には、まったく楽しめない――それどころか、書いてあることが読めるのに、理解すら難しいということもしばしばです。

 最初に言ったように、小説は読者の知識や経験を必要とします。逆に言えば、読者がそれまで読んだ面白い小説や漫画、ドラマで培われた脳内のイメージをうまく利用できれば、面白さを何倍にもふくれ上がらせることができるのです。
 小説の面白さはその人の脳内の蓄積に依存するわけです。

 ライトノベルの多くは、その蓄積をうまく利用した書き方をしてあります。初期の代表的なライトノベルである『スレイヤーズ』(神坂一)が、コンピュータRPGを楽しんだ読者の蓄積を利用しているように。

 そうするとやはり、SF設定の説明がライトノベルと相性がよろしくないというのは分かる気がします。なぜなら、古株で忠誠心が高い、骨の髄――というか、DNAのトリプレックスコードに刻み込まれているようなSFファンをのぞけば、SF“だから”好きという読者はそうはいないせいです。

 タイムマシンが出たから、アンドロイドがいるから、映画『ターミネータ』が好きなわけではないのです。シュワルツネッガーの演技が実に笑えるとか、ターミネータすげえタフだとか、そういうドラマや演出を楽しかった記憶として読者は蓄積しているわけです。
 読者の中にある『ターミネータ』を利用してライトノベルをより楽しくするには、SF設定を必要としません。作品世界がファンタジーでも、オカルトやホラーでもそうした不死身の化け物がしつこく追いかけてくるという展開で『ターミネータ』の面白さの蓄積は十分に利用できます。

 SF設定は説明しないが面白い――この方向性のひとつとして、この春のディズニーアニメ、『ファイアボール』があるでしょう。これは実に素晴らしいものです。

 『グロリアスドーン』も、SF設定を(できるだけ)説明しないが面白い方向を目指した作品として私は楽しく、また感心しながら読んでいます。
 特に6巻における最果ての星で孤独の中に滅びた文明の哀しみの光景は、SF設定を説明するのではなく、感じさせる――この世界から自分がいたという証が消えるのは悲しい、自分のことを忘れられるのはいやだ――という、普遍的な思いに託してある名場面だと思います。

 SF“だから”楽しい、ではなく。
 SF“なればこそ”より楽しい、を目指していく。

 そんな風に、『グロリアスドーン』を私は読んでいます。

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