ライトノベルとSFの関係についてあれこれ、その2:『グロリアスドーン 6』(庄司卓)あとがきを読んで
『グロリアスドーン6 少女は最果てにいざなう』(庄司卓)を楽しんだあと、あとがきにおける『ライトノベルとSFの関係』という部分を読んであれこれ思うところがあったので、よしなごとを。その2。
『グロリアスドーン6』のあとがきでは、海外のSF作家の言葉として次の言葉が紹介されていました。
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ファンタジーでは、世界に異変が起き日常が脅かされると、主人公は仲間と共にこれに立ち向かい、異変の原因を解明して、やがて世界に日常が取り戻される。
それに対してSFでは、世界に異変が起き日常が脅かされても、主人公とその仲間は単なる傍観者に過ぎず、異変の原因を解明した所でどうする事も出来ず、世界は日常を取り戻せぬまま、大きく変容してしまう。
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この言葉は私も記憶にあります。アーシュラ・K・ル=グィンだったかな?
世界の変容、という点ではおおむねこの言葉でさほど間違いはありません。つまり、一度変革した場合、SFではすべてが元に戻るのではなく、日常が取り戻されたとしてもそれは、新しい変化した日常ということになります。
しかし、それ以外の部分では、あらゆる原則同様に、この言葉にも例外があります。主人公たちは世界の異変や危機に対して、傍観者とは限らないわけです。
たとえば『二十億の針』(ハル・クレメント)では、主人公の少年は自分の身体に潜り込んだ宇宙人刑事と組んで、宇宙人の犯罪者を追いかけます。宇宙人の存在という異変は、少年の日常を大きく変容させ、少年の住む島を含めた世界の危機になります。この危機と対決し、解決するのは他ならぬ主人公の少年に課せられた使命です。
他にも、『レダ』(栗本薫)、あるいはダーコーヴァ年代記の『はるかなる地球帝国』(マリオン・ジマ・ブラッドリー)のように、少年が主人公となるSFにおいては、しばしば世界の異変、日常の危機に立ち向かう役割を主人公とその仲間たちが担います。
これらの主人公が世界を救うSFの物語構造は、ライトノベルにリスペクトするのもさほど難しくはありません。『二十億の針』は漫画『鉄腕バーディー』(ゆうきまさみ)にも大きな影響を与えています。たぶん。
なぜSFであるにもかかわらず、これらの作品で主人公は世界とその変容に対して無力ではないのでしょうか。
それは、彼らに特別な力、あるいは立場が与えられているからです。
『二十億の針』では、宇宙人刑事と合体することで、少年はいくばくかの力と知識、そして立場を得ます。特に「宇宙人犯罪者を特定し、捕まえるには自分が頑張らないといけない」という立場は、少年を強力に後押しします。
『レダ』の主人公の少年もまた、作品初期の自己分析や周囲の評価とは異なり、かなり特別な、いわゆる先祖返り的な存在です。彼はレダという恋人を通して自分の置かれた未来社会の異常さに気が付き、それを変革していきます。
『はるかなる地球帝国』は、主人公は読者と同じように科学的教育を受けています。野蛮なダーコーヴァ世界では科学についての知識はほとんどなく、主人公が学校で学んだ科学の知識は、大きな力となります。
こうして考えると、SFではなくファンタジーであっても、特別な力や立場を与えられないキャラクターであれば、主人公は世界とその変容に対して無力だろうとの推測が成り立ちます。
あとがきに引用されたル=グィン(かな?)の言葉は、いわゆる「よくある」ファンタジーとSFの違いについて語られたものと推測されますが、ではなぜそれらが「よくある」ようになったかはなかなかに興味深い部分です。
おそらくそれは、SFとファンタジーの、キャラクターの違いではなく、世界の違いだと考えられるからです。
ファンタジー世界は、その原型を「過去」から引っ張り出しています。「現在」の世界はさまざまな変化、特に科学技術による変化の果てに存在しています。その変化を逆回しして生み出されたファンタジー世界は、「過去」であるがゆえに変化にきわめて脆く弱い存在です。
科学技術だけではありません。民主主義や奴隷解放、信仰の自由、市場経済、それらの社会的変革を注意深く取り除いたところにあるファンタジー世界は、邪神や呪いなどを持ち出すまでもなく、ちょっとした不注意による「現在」の侵略によって簡単に崩壊してしまいます。
SFはむしろその逆で、その世界は「現在」ないし「未来」を指向しています。SFの世界は「過去」から「現在」まで我々の世界を変容させたさまざまな変化と無縁ではいられません。
世界は変化するものです。日常もまた変化します。携帯電話が普及する前の世界と、普及した後の世界は小さくとも、確実に変化しています。
そうした違いゆえに、「よくある」ファンタジーでは、世界の異変、日常を脅かすものに拒否的な反応が出ます。剣と魔法の世界に、銃やら内燃機関やらの変化は来てもらっては困るのです。それらを排除した世界をわざわざ用意したのですから。
「よくある」SFは、世界の異変や日常を脅かすものに対して寛容です。それらによって変化することは、むしろSFで描き出したいことのひとつです。タイムマシンが存在する世界は、果たしてどのように変化するか? テレポートの力を人々が身につけたら、それは社会をどのように変革するか? こうした思考実験こそ、SFの望むところだからです。
この違いは、どちらが正しいとか良いではありません。ただ、演繹的に世界の変化を考えるのは頭の体操としての側面を持ちますから、考えるのも付き合うのも疲れるという部分はあるでしょう。
日常や人生に疲れ、勉強や仕事に疲れ、めんどくさいこと、難しいことを考えたくないという気分の時には、SFのそうした側面はあまり魅力的に見えないということはあるかもしれません。
そういう気分の時に魅力的に見えるのは何でしょうか。
すでに過ぎ去った「過去」、決して変化しない強固な「世界」。
勇者の子供は勇者であり、血筋や神の加護によって特別な力が宿る。お姫様は金髪で縦ロールであり、男装の騎士は麗しい令嬢で実は主人公に惚れている。可愛い幼なじみは毎朝起こしにやってくるし、両親は海外出張で長期に家を空ける。
なぜと問う必要はなく、そうであるがゆえに、そうであることが当然な法則に守られた社会。
そういうファンタジーな世界こそが魅力的であると考えられなくもないのです。
そして、ライトノベルとSFが相性がよくないとすれば、それはライトノベルの読者が、変化を歓迎しない、日常的に疲れた精神状態にあるから、と結論づけてしまうのは。
一種の思考停止であり、安易にロジックを弄んでいる感じがしてSF魂を持つ私は実に落ち着かないのですが、落ち着かない気分もまた趣がありますゆえ、今回の与太話はここまでといたしましょう。
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