『ハチワンダイバー』柴田ヨクサル “勝ち”を目指す意志の先にある,対戦相手への“理解”
原爆が投下された広島には平和公園がある。
観光に来たという人でなくとも、中四国の小学生中学生なら、修学旅行とかで来たことも多いだろう。
彼らが見る今の平和公園、花見のシーズンをのぞけば観光客以外は鳩しか飛ばない平和公園であるが、昭和も50年ころまでは、日曜日になるとあちこちにござが敷かれて、そこで将棋を指すおっちゃんたちが大勢いたものである。
まだ子供だった私は、おっちゃんたちが、背中まるめて額をつきあわせるようにのぞき込む将棋盤に何を見ていたのか、とても気になったものだ。
九マス×九マス。
わずか81マスのバトルフィールドに、いったい、何を。
さて、今でも実は将棋は指せない(コマの動きの理解も怪しい)私だが、柴田ヨクサルさんの『ハチワンダイバー』は大好きである。
特に1巻から2巻、“ハチワンダイバー”が誕生するくだりと、乳揉み勝負に、ゲーマーとしての何か重要な要素を見る思いがする。
1巻の回想場面で、奨励会時代の主人公が師匠にこう諭される。
「お前の将棋は浅いんだよ」
「でも師匠、僕の将棋は“勝つ”将棋です」
強いゲーマーとは、当然ながら“勝ち”にいくものだ。
実はこの段階で、半数以上の人間が勝利から脱落する。彼らはそこまで“勝ち”にいけない。手間暇をかけ、気力を消耗させてまで“勝つ”ことにそこまでの快楽が得られない。
“勝ち”に“価値”を見いだせないのである。(presented by脳内OTE回路)
強くなる人間は、勝利がうれしい、あるいは敗北が悔しいものだ。
1巻冒頭の主人公は、この基本を再発見している。
奨励会で結局芽が出ずに終わり、プロ棋士になれなかった主人公は、将棋の勝ちにも負けにも心が動かない状態になっている。
その摩耗した心が、ヒロインであるアキバの受け師との勝負での敗北によって動き出す。負けが悔しく、勝ちを求めるようになる。
だが、それだけでは、やはりダメなのだ。
単純に“勝ち”を目指すだけでは強くなれない。
単純に“勝ち”を目指すだけでは、その指し手はオモテも裏もない最善手になるからだ。そこには勝ちたいという欲望が素直に現れる。欲望が思考を制御し、指し手となって現れる。
どんなゲームであってもそうだが、同じように勝利への欲望を持ち、それなりに技量を持つ相手が対戦者であれば、思考を、作戦を、先の展開を読まれることは敗北を意味する。
将棋のように、互いが互角のリソースを持っての勝負であればなおのことだ。
それが師匠の言うところの浅いという表現になる。
ではどうすればいいか――というと。
実は、ここが難しい。
その先は、実のところ自分で見つけるしかないのだ。
受け師との勝負で敗北し、有り金を巻き上げられた主人公は、金を稼ぐために相手を油断させるべくわざと負けることを繰り返し、その先を見つけることになる。
真剣師のマムシと呼ばれる男との戦いで、9×9の81のマスの中にダイブするという形で“その先”が顕現する。
ハチワンダイバーの誕生である。
先の展開を読むというこのダイブに必要なものは、相手への“理解”というものだと私は考えている。
当たり前だが、見ず知らずの相手をいきなり理解はできない。だから、この技は序盤から使えるようなシロモノではない。勝負の中で、相手がどんな指し手をとってきたかの蓄積があってはじめて発動できる。
年齢も性別も知識も嗜好も何もかも違う、そんな相手を将棋盤の81マスの世界に限定して“理解”する。
1巻の中盤でメイドさんな格好のアキバの受け師と、ろくに会話を交わすことができないまま、目隠し将棋(盲将棋)を指すことによって主人公は彼女を“理解”する。この時点で主人公は彼女の名前も知らない、どんな人間なのかも知らないが、それでも81マスの世界であれば“理解”できる。通じ合える。
勝負には相手がいる。
こちらが勝ちたいなら、あちらも勝ちたい。
互いに勝ちを目指すからには、相手の対応できない攻撃でもって突き崩すしかない。
戦術の基本が“奇襲”にあるのはそのためだ。
しかし、すべてが見える将棋の世界において、互いの力量が互角であれば物理的な意味での奇襲は不可能に近い。
ならば、残されたのは心理的な奇襲であり、そのために主人公が見つけたのがダイブという形での相手への“理解”であるというのは。
なんとも、柴田ヨクサルさんの作品らしいと思ってしまうのだ。
そんな『ハチワンダイバー』の視点で、昭和40年代の平和公園でのゴザ将棋の記憶を脳内で変換してみると……ううむ、ディープな世界がそこに広がっておるわい。


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