『黎明の星』ジェイムズ・P・ホーガン ソ連・東欧のSFで描かれた未来社会を思わせる、クロニア人の世界

 『黎明の星』(原題 THE ANGUISHED DAWN)は『揺籃の星』の続編であり、前作で地球文明が崩壊した後の再建をあつかった作品である。

 土星に残った唯一の地球外植民地にして文明を継承しているクロニア人のコロニーが、地球を再建する過程で発生した旧文明との確執を扱った、冒険小説風の展開になっている。

 敵はむろん、旧文明からの生き残りである。経済力と軍事力で権力を握り、社会を牛耳ってきた“悪”が再び蘇ろうとするのを、主人公とクロニア人たちは防ぐことができるか……というものだ。

 クロニア人の社会は社会を構成するメンバーが互いに助け合い、社会や他人へどれだけの貢献ができるかで評価が決まるシステムとなっている。私有財産の概念はほとんどなく、通貨は使用されない。
 果たしてコレで社会がうまくいくものだろうかとは、会社や社会で人事のお仕事に関わった人間であれば誰もが感じる疑問であろう。
 人事における評価、目標に対する達成の度合い――つまりは、社会であれ会社であれ、その人の能力や業績に対する評価ほど、難しいものはない。
 クロニア人のシステムがそこをどのようにやっているかについての具体的な描写は、むろん、本書にはない。
 主人公はクロニア人ではなく地球人であり、そのあたりはよく知らないのだ。

「自分にはよく理解できないが、結果としてうまくいっている」

 という印象描写がいくつかあるだけである。
 このへんは、ヴェリコフスキー理論で惑星サイズの物体が木星から突然吹き出ることに何ら説明がなかった前作と同じだと考えればいい。

 さて、本書におけるクロニア人の社会を読んでいて私の脳内に「あれ、なんか読んだことがあるぞ」という既視感が浮かんだ。
 中学、高校時代に図書館に入り浸って読みふけったソ連・東欧のSF――共産主義的な思想を色濃く残すSF――が描き出すユートピアな未来社会に、驚くほど似ているのである。

 それらの社会では、労働者は労働に満足しきっている。自分たちの仕事を決して怠けることがなく、全力をもって取り組んでいる。そして、その結果として社会から高い評価を得ている。むろん、生活に困窮することはない。キツイ、汚い、危険な職場には、そこで働くことによって社会的な評価を得ようという若者が常に殺到している。

 まったくもって、共産主義的な理想に満ち満ちたユートピアである。
 私はもちろん、高校生であった当時ですら、そのような未来社会について嘘くさい印象を抱いていた。その一方で社会主義的な調和のとれたユートピアには少なからぬ憧れを抱いていたことも事実である。
 だから、クロニア人のような未来社会を私は切って捨てるつもりにはなれない。

 そこで、クロニア人の社会は、ソ連東欧SFのようなユートピアは、どうやれば誕生し維持できるか、考えてみたい。

 何よりもまず重要なのは、社会を構成する人間である。
 社会のシステムが目指すものが、その構成員の目指すものと合わなければいかに端から見てうまく機能しているようでも、すぐに破綻する。
 クロニア人の社会に危機が訪れたのも、クロニア人の社会システムと個人的に目的が合わない人々が大勢、地球滅亡にともなって流入したからだ。

 長期的にこれを実現する役目は、教育システムにある。
 『無伴奏ソナタ』(オースン・スコット・カード)に代表される、生まれた時から社会の構成員ひとりひとりを深層心理にいたるまで分析し、評価し、各自の資質や嗜好が歪まないように育て上げるような教育システムを作り上げるのだ。そうした教育システムはきわめて高コストだ。『へびつかい座ホットライン』(ジョン・ヴァーリィ)のように、ひとりの子供を育て上げるのに、ひとりの専属教師がマンツーマンで十年も十五年も一緒に暮らすような、そんな未来社会である。

 しかも、コレでうまくいくとも限らない。
 竹宮恵子さんの『地球へ…』で描かれた特殊統治体制(Superior Dominance)なども、そのシステムが持つ矛盾や破綻が描かれている。もっとも、これは本来、ミュウという新人類選抜システムや、さらにえげつないことを言えば、ミュウも人間もその精神を地球に依存させることで壮大な実験をしようというかなりマッドな思想の元に作られた、崩壊前提のシステム(原作版)であるあたり、単純に比較するのは難しい。

 システムで不足する部分は、どうすればいいだろうか。
 どんな教育、評価システムであったとしても、完璧ではない。無理はあるし、歪みは生じる。
 そもそも自分の社会的な地位や業績や能力が「正しく評価された」社会など、能力よりも欲望が大きい人間――つまりはほぼすべての人間――にとって、悪夢以外の何ものでもない。社会やシステムが、「自分を正しく評価していない」からこそ、我々は最後の一線で、絶望せずに生きられるのである。
 もしも自分が正しく評価されていて、その評価に満足や納得ができないようであれば、自殺するか、その社会を破壊するかのどちらかしか残されないことになる。

 そこで人々を何とかして説得する力が必要になる。
 たとえば、神の存在は役に立つ。インシャラー、神の御心のままにという信仰心を使うことができれば、教育、評価システムへの不満をねじ伏せることができる。人には分からぬはかりしれぬ神のお考えなのだ。
 『レンズマン』のアリシア人のような、精神に作用する能力はその面で役に立つ。心を修正(婉曲的表現)して危険な思想や社会の害となる妄想がそもそも脳内に浮かばないようにできれば、世の中は清く正しく動き続けることが可能だろう。そこまでいかなくても、社会の中にテレパシー能力者が増加すれば、『分解された男』(アルフレッド・ベスター)よろしく、頭の中で殺人事件をたててナイフ持って道を歩くだけで、「通報しました」となって逮捕されるわけである。

 ……なんだか、ユートピアの建設とは違う方向に向かっているような気がしてきた。すべての人が正しく生きる理想的な社会に、私の居場所がないような、そんな感じである。

 そして、それこそが結論だろうと思う。

 理想的な社会の実現には、理想的な人間が必要なのだ。人類がこれまで考えてきた理想的な社会の代表は極楽とか天国とかいう死後の世界になる。これはいくつかの例外をのぞけば、「善人だけ」を集めた社会である。死ぬ時までに善行を積み、天国にふさわしいと判断された人間だけを集めた理想社会だ。

 あるいは失楽園のエピソードだ。アダムとイヴは楽園で神の恩寵を受けて幸せに暮らしていたが、彼らは知恵の実を食べたことで理想的な人間である資格を失い、理想郷から追放される。

 理想社会にふさわしくない人間は排除する――
 それこそが、それのみが。ユートピアを作り、維持できるのだとしたら。

 “理想社会”というものは。
 何とも“生きにくい社会”のようである。

Cover image
Cover image

この記事へのトラックバックURL:

http://drupal.cre.jp/trackback/1969


この記事をブックマーク

人気コンテンツ