何故「優しいドラマ」が私は嫌いなのか

 えー先日来IRCで話題になっちゃってたことについて。
 ざっとまとめますと、先日見た冊子で高校生によるエイズフォーラムというのがあり、その中のシナリオが
これはあかんだろうと私が思ったのです。

 シナリオもかいつまんでいうと、高校生のカップルがいて、性的関係を持っている。
 で、男のほうがキャリアであると女の子にカミングアウトして、女の子がエイズ検査をしてみたら陽性反応が
でちゃい、もう絶望して自暴自棄になるのだけど、家族や周囲の理解、男も君を守るよ、といってくれて
この支えがある限りずっと私は大丈夫だ、そう思う。という締めくくりになります。

 この話をして私は「優しいドラマ」であるといい、まあはっきりいっちゃえば嫌いなんですが、何故嫌いであるか&それが
どういう根拠に基づくのか、を理屈こねまわしてみようということを以下に書いていきます。

 IRCでも出していた例なので続けさせてもらうと、たとえば幼稚園児がいたとします。その子が、「戦争って何であるんだろう」
「エイズにかかったらどうしたらいいんだろう」と考えたとする。でも、結果的に行き着くのは「戦争はよくない、やめよう」とか
「エイズにかかっても優しさや思いやりをもって接しよう」とか、そういうことになるのではないかと思います。そこから先、たとえば
「戦争をとめるのにはどうすればいいか」とか「エイズ患者の人にあってみよう」とか、そういう展開にはおそらく、ならないだろうと思います。そのほうが楽だし、そこから先のことを考える力は多くの幼稚園児は持っていない、とおもいます。

 さて、長い例になりましたが、私は先ほどの高校生のシナリオ、「優しいドラマ」とはようするに「戦争はよくない、やめよう」「皆が優しさを
持とう」というのと同じものだと思います。
 つまり、「優しいドラマ」というのは、自己完結的な、一側面(それは性善説や幸福希求に基づくのだろう)をクローズアップした、他の側面を
感じない「閉じきった夢想」なのです。「優しさやおもいやりを持てば、戦争はなくなるしエイズになってものりこえられる」という考え方は、甘い共感を呼ぶことはあっても、そこでとまってしまいます。現実に起きてる戦争やエイズについて、何ら意味のないものではないかと思えるのです。

 なぜならば、戦争もエイズも、それ以外の世界中にある様々な問題も、「優しいドラマ」に基づく一側面ではなく、それ以外の他の考え方、他者や社会と関わるなかでしか、進んでいくことはないだろうからです。「優しいドラマ」はそうではなく、自己完結することによる幸福な結末を「閉じた世界で夢想」するだけに過ぎません。であるならば、「優しいドラマ」は「閉じた優しさに共感するグループのなかでカタルシスを味あわせるためのもの」
になるはずです(余談ですが、私がエンターテイメントや技術に素直になれない理由もここにあります。それはつまり、「閉じた優しさに共感するグループ」の輪を広げるためのものだという認識があるからでしょう)

 かといって、それが無意味なものであるとは思いません。「優しいドラマ」は何といっても甘い幸福や共感、感動を呼びますし、それは物語の大きな役割のひとつであると思います。ただ、その感動は、「閉じて」いる「一面的」な世界のものであり、現実はそうではないということは、少なくとも物書きとしての自分は、忘れてはいけないものだと思うのです。
 現実は、戦争やエイズ、そんなおおげさなものでなくても日常の様々な問題や、それを解決するのは、他の側面を知り他者と関わりあうというものすごくしんどくて徒労のように思われる作業をこなしていくしかありません。当然、そのことによって心身的に疲労し、癒されたいと願う時、「優しいドラマ」は大きな効果を発揮します。それはきっと大変重要で必要なことなのでしょう。「優しいドラマ」が氾濫する現状をみるたび、そんなふうに思います。また、私自身それで感動することもよくあるのです。けれども、感動して泣きながら別の側面で「でもこれは夢物語だな」と感じている、自惚れなのかもしれませんが、その態度は必要なことだと思っているのです。

 ふさわしいたとえかどうかはわかりませんが、「宗教は民衆の麻薬である」という言葉があります。本来の意味や使われ方はさておき、私はこの言葉の中の「宗教」を「優しいドラマ」に変えてもいいのではないか、と思います。(特に現在の日本における宗教の立場を考えると)
 それは必要で甘く、楽しいこと。でもそれに依存してはいけないもの、というような私が抱くイメージは、わかっていただけるのではないでしょうか。

 
 予想外に長くなって用事が出来たので、一度きります。「優しいドラマ」に対する自分の認識についてはとりあえず、こんな感じです。次は、
「依存してはいけない」ことについて理屈をこねてみたいと思います。

 

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活動を広めるという視点で話を考えてみると

誤解を招くと思いますが、世の中割と馬鹿が多いです。思考が短絡したり、似て非なるものをごっちゃにしたり、自分の考えやすい意見に(十分吟味せずに)賛同したり。逆に、いわゆる活動家(といっても過激派のことではありませんよ)といわれる人たちにとっては、それはそれで利用できるんです。例えば、自然保護活動でよく使われる、「動物がかわいそう」もそういうものの一つだと思ってます。一つの系として守る必要があると言っても関心を持つ人はわずかなんですが、特定の動物、例えば、「ムツゴロウ」とかそういうものを持ち出すことでちょっとだけ気になるという人が一気に増える。
それでも、シンボリックな何かであったり、単純化した受け入れられやすい理屈だけでは進んでいかない。結局はパワーポリティクスというか、力バランスというか、動的な何かを動かすためには、説得力のある理屈や何か「力」が必要になるんです。その「力」の一つが、多くの人の関心になるわけです。ちょっと関心がある人が増えると、実際動く人もその中から出てくる。おそらく、何万人に一人というくらいのレベルですが。
なので、活動家的な視点で言えば、一面的なことで関心を持たせるのは当然だと思うんですね。特定の問題について、本当に活動を広げたいと思ったなら、扇動的な表現は必要悪だと私は思っています。同時に、見えにくい部分について洗っていく必要は当然あるので、そういったものに光を当てていくというのも、また、必要になってくるとは思っています。そして、もの書きさんであっても、どちらの視点で書かれている人が居ても、それはそれ、スタンスの違いでしかないのではないかと思ったりもします。

難しいことを難しく書くのなら、論文でも評論でもいいと思うんです。それだと一部の人にしか広がらないし、そのことにそれなりの関心を持っている人にしか伝わらない。本当に書く技術があるのなら、面白い文章を書きながら、詳細を読み込むと複雑な面が見えてくるという話も書けると思いたいです。

HIVキャリアーが題材に選ばれた物語、の関連で

 dainさんは「『優しいドラマ』が嫌い」(「何故『優しいドラマ』が私は嫌いなのか」)って書いてますけど。
 多分、「優しささえあれば、何事にも耐えていける」かのような、そんなふうなメッセージが濃厚なタイプのお話について、嫌いってことなんだろう、と思います。

 例えば、次のようなヵ所などから、そう思える。

「優しさやおもいやりを持てば、戦争はなくなるしエイズになってものりこえられる」という考え方は、甘い共感を呼ぶことはあっても、そこでとまってしまいます。

 「何故『優しいドラマ』が私は嫌いなのか」に書かれてることの大筋を、アタシなりに要約してみると。「優しいだけの物語は、社会にとっては必要なんだろうけど、受け手の方が依存するのはよくない」て筋だと思ってます。

 別に、「何故『優しいドラマ』が私は嫌いなのか」では、フィクションの全否定みたいなことは言われていないと思うんですね。この理解の線で、アタシなりに思うことを書いてみます。

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 「高校生によるエイズフォーラム」というのがあるそうで。dainさんの文章では、そのフォーラムの冊子に載ってたシナリオが、「優しい物語」の例として紹介されてます。

 アタシは、このシナリオ、読んでないわけですけど。
 HIVキャリアーや、エイズを題材に扱ったフィクションで、「不治の病」みたいな面ばかり強調して、お涙頂戴の出汁として扱ってるようなフィクションて、アタシにも思い当たる例はあります。TVドラマとか、レディス・コミックとか、そーゆーアレコレまで含めて、ですけど。
 その類のお話を思い起こすと、アタシも「優しさばかりのお話は嫌」って気持ち、想像できる気がします。

 例示に挙げられたシナリオは、別に、お涙頂戴式のお話ではないみたいですが。

 紹介されたシナリオとは別に、「優しさをアピールするために、キャラを悲劇的にしよう」、「そこでエイズですよ」みたいな意図が見え透いてるようなフィクションも、世の中にはあります。アタシは嫌いですね、そーゆーの。

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 で、例示のシナリオの方については、紹介された荒筋から想像するに、HIV陽性の検査結果が出た女学生が「絶望して自暴自棄になる」て展開。これは、アタシ的には、アリかな、と思いました。

 シナリオの女学生、多分「エイズは潜伏期間が長い病気で、普通は、発症までに時間がかかる」とか、「発症抑制剤の服用を続けれれば、かなりの期間、発症を抑えることができる」とかの知識が薄いんで、それで、自暴自棄になった、そういう設定のキャラなのではないかなー? と、これは、あくまでアタシの想像だけど、思うんですね。

 想像がハズレてたら、悪いけど。高校生の設定だったら、「そんなにいろいろ知らないので、検査結果が陽性だと聞いて、ショックを受けて、自暴自棄に」って展開だとしても、そう無理とは思わない。

 で、想像に想像を重ねざるを得ないんですけど。

 シナリオの出来、不出来は、例えば、「家族や周囲の理解」の「理解」の中身(の表現)に左右されるだろうと、思います。

 何をどう理解してるのか。それから「家族や周囲が理解してること(中身)」が、どんなやりとりで、自暴自棄になった女学生に受け入れられるのか。この辺、重要なはずと思います。

 男も「君を守るよ」と、言うそうなんですけど。こちらも、「どう守るというのか、その覚悟の中身(の表現)」や。やっぱり、それが「自暴自棄」になった女学生にどのように受け入れられるのかが、重要なはず。

 で、仮定のお話ですけど。
 HIV陽性の検査結果で「自暴自棄になった女学生」が、一言、二言の優し気なセリフを聞くだけで、“大丈夫だ”とか持ち直すようなお話があったとしたら。アタシはそれは「つまらない」と思います。
 例示紹介されたシナリオのお話が、そこまでシンプルかどうかは、わかりませんけど。

 そこまでシンプルなお話があるとしたら。「いい/悪い」以前に、おもしろいか、つまらないか、で言っても、アタシは、つまらないと思う。

 だって、HIV陽性と聞いて、将来に渡る自分の可能性みたいなものを信じられなくなって、自暴自棄になってたりするんだと思うんですね。
 そんな状態の人に届く優しさというのも、あるはずだけど。一言、二言の優し気なセリフで表現を済まされたら、それはつまらないと思うな。

 男の方について考えてみましょう。
 「君を守るよ」って言うのが、「ボクが仕事して、バリバリ稼いで、発症抑制剤途切れさせないよ」とか。まー、その手の野暮な表現ではないにしても。そんなふうな覚悟の中身が、作中に表現されてるとしたら。
 こっちは、アタシは、「悪くはない」んじゃあないかな、と思います。

 こっちは、いい/悪いで。
 いいかどうかは、判断保留だけど、「悪くはない」んじゃぁないかな、とは思う。

 つまりは、必要条件みたいな感じで。
 この条件が満たされたからと言って、「いい作品」になる保障はないけど。現在の日本を舞台にして、エイズやHIVキャリアーを題材に扱うなら、それくらいは作中に収めてほしいな、と思うのです。

 もちろん、男の方には、もっといろいろ気になるとこがあります。
 彼がHIVキャリアーになった経緯とか、自分がキャリアーと知らずにガール・フレンドと安全でないセックスしたのか? とか。
 知って感染させたなら、許し難いものありますけど。物語としては、あえてそういう設定をして、男のキャラの後悔とか、葛藤まで描く、って路線もアリですよね。

 あれこれ想定してみると、「君を守るよ」とか言うセリフも、作中のもっていきかた次第で、結構、いい気な感じのセリフになっちゃうかもしれないですよね。
 この辺は、もう、シナリオ読まないと、評価できない領域ですが。

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 結局、紹介された荒筋だけからだと、あれこれ想像はしても、シナリオの出来不出来、ちゃんとした評価はできない。

 それでも、「優しささえあればなんとかなる」みたいなイメージは、マズい。これは、HIVキャリアーやエイズを題材として扱う物語については、アタシも同感。

 例えば、「自暴自棄」になっちゃったキャリアーがいて、周囲の人が根気よく「優しさを持ち続ける」のって、結構たいへんなはずですよね。
 キャリアーの人が、自暴自棄を脱しても、何かのきっかけで、再度崩れることだって、あるかもしれない。

 あるいは、「優しさ」だけではなくて、知識も大事で。
 発症抑制剤の服用とか、セーフ・セックスとか、生活習慣とか、いろいろ健康維持のために必要なことは、非キャリアーより多い。キャリアーは、そうした知識を持つべきだし、周囲の人も、少なくとも理解しないとマズい。

 そういう事柄が、例示に挙げられたシナリオで、どこまでどう処理されてたのか、あるいは、処理されてなかったのか。
 その辺によって、シナリオの出来、不出来の評価は、変わってくるだろうと思います。

 もちろん、シナリオとして出来不出来は、最終的には、「処理の仕方」で決まるはずです。
 念のために書くけど。
 先に挙げた「セーフ・セックス」やら、「生活習慣」やらを、「なにもかにも、全部盛り込まないとダメ」なんてことはアタシも考えていません。

 けれど。
 まったく知らないことにしたり、無い事にしてお話が作られたら、それはよくないと思う。

 その辺の盛り付け方も、作者の腕ですよね。
 もう1度、紹介された荒筋に戻って、考えてみると。

 「ボーイ・フレンドからHIVを感染された(のでしょう多分)女子高生が、陽性の検査結果を知って自暴自棄になる。けれど、周囲の理解や励ましで、自暴自棄からは立ち直る」

 こんな大筋のフィクションが、現在の日本を舞台にしてるとします。

 この場合、発症抑制剤の存在を作中で無視したり、あるいは、HIVを女子に感染させた男子の方の、セーフ・セックスの責任について考えるようなやりとりが描写されていなかったり、そのくせ「優しさは大事」ってことだけがアピールされてる作品があるとしたら、それは、いい/悪いで言って、よくない作品だと思います。

 ここで「よくない」と言うのは、作者が、自己選択したはずの、題材についての扱いがいーかげんでよくない、と思うんですね。

 紹介されたシナリオが、そこまでいーかげんかどうかは、わからないですよ。

 それでも、そんな可能性だってゼロではないと思うので。「優しさばかりのお話は嫌」ってことなら、言いたくなる気持ちは、アタシもわかる気はするわけです。

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 と、ゆーようなことを思うアタシとしては。

 「何故『優しいドラマ』が私は嫌いなのか」では、別に「フィクションの全否定」みたいな意見は書かれていないと思えます。

 それどころか、「優しいドラマ」全部ダメとも、書いてあるわけではないかもしれない?
 この辺は、判断しきれない部分もあって。今回、言及避けたけど、戦争を題材にする物語だと、題材の処理法も種々あり得るし、裾野も広い。なので、エイズ、HIVキャリアーを題材にして、現在の日本を舞台にしたたケースに限って考えてみました。

 それから「優しいドラマ」に「依存」するかどうか。これは作品と受け手(読者)の関係でも、受け手の方に重心が移る話題と思います。

 「依存するのがよくない」かどうか。これは、今のとこの親記事読んだだけではわかりません。

 アタシだって、なんかの物語に依存してる、と言われるかもしれないですよね(笑)。だから依存がいいか悪いかは、判断保留にしておくことにします。

 とりあえず、以上です。

「優しい物語」の何が悪いのだろうか?

風邪を引いたんであまり長くは書けないんだけど、「優しい物語」の何が悪いんだろうかと思う。
そういう需要はあるのは確かだし、そういう人向けに書かれた「優しい物語」がフィクションであるというのは、多くの人々が分かりきっているので、それの何が悪いのかと思う。

「『閉じた世界での夢想』の、何が悪いというのかね! 君は! それが売り物になって買ってくれる人がいる(あるいは価値がある)からいいんじゃないのぉ!?」

と富野監督みたいなことを言い残して寝ますノシ

#このdainの発言、紅玉いづきさんの作品全否定だよなぁ……。

いいのもあれば、よくないのもある

 「優しい物語」にも、いいのもあれば、よくないのもある、ってだけの話だと思うな。

 エイズについては、今でも「不治の病」で「感染したらすぐ死ぬ」みたいな誤解が、世間にはある。公共広告とかでうたれてるエイズについての啓蒙広告とか見てると、誤解してる人、結構多いんだろうな、とも想像される。

 HIVに感染しても、今は発症抑制剤を服用すれば、普通何年間も病気にはならないし、発症しても進行を遅らせられる。けど誤解は、まだある。

 そんななかで、誤解を助長するような物語は、よくはないと思う。需要があろうとなかろうと、アタシには、いいと思えない。

 もちろん、「優しい物語」だろうとなかろうと、よくはないって話になるんだけど。例えば、エイズ題材の「優しい物語」には、目立つような気はしてます。

 実は、そう簡単に、割り切れる話題でもないけど。エイズを題材に創作しようとする人がいたら、考えてみた方がいいことではあると思います。

 「作者の方が、どれだけ配慮したとしても、誤解する人は出る」みたいなことは、アタシも言えると思います。それでも、創作者には考慮を期待したいです。

 「需要があれば、(法規に反さない限り)何を売ってもいい」てのは、1つの原則だけど。そうして売られるものが全部「いいものか?」と言えば、そんなことはない。消費者の方だって、いろいろ評価して取捨選択するわけじゃん。もちろん評価の尺度も人それぞれだけどね。

 仮定の話、創作者の人が、考えた上で、「ドラマチックな悲劇」をどうしても描きたいみたいな意欲があって、発症抑制剤が開発される前の時代を舞台にして、エイズ患者を主役急にした物語を創作する、とかがあるとしたら。
 「優しい物語」だろうと、そうでなかろうと、その創作自体を他人が止めることはできないし。公表をとめることができるとしたら、例えば、出版社とか、編集さんとか、関係者の人だよね。
 刊行されたものが、あまりにひどいと思った消費者が、刊行後に講義や批判を加えたり、不買運動みたいのをするのも、こっちもアリだと思う。

 個人的には、そういう作者に「非難されても描きたい、公表したい」くらいの覚悟があるなら、それは1つの選択として尊重はしたい、とも思ってます。作品に対する、支持/不支持は、もちろん、作品次第だけど、作者の姿勢を尊重はしたい。

 ただ、創作者は、需要があるならどんな作品でも公表して構わないんだ、みたいなことは、アタシは、原則の1つでしかないと、思います。つまり、あらゆる場合に、無条件に言えることではない、と思う。(創作自体は、もちろん、まったくの自由ね)

 繰り返すけど「非難も覚悟で公表」みたい姿勢は、アタシ個人は割りと好き。
 逆に「需要があれば構わないのだ」みたいなのは、かっこ悪い開き直りと思うのが、アタシ個人のセンス。
 作者の姿勢のよしあしと、作品のよしあしも、又、別だけどね。

このエントリを読んで浮かんだ疑問その1

 話は続くようなので、とりあえず、このエントリを読んで浮かんだ疑問点について挙げたいと思います。回答を頂ければ幸いです。

 まず、幼稚園児の例ですが、前後の話とつながらない気がするのは私だけでしょうか? 何故なら、私にはこの例だけで話が完結しているように思えるからです。一つの話題に似ているようで少し違う話題を挿入したような違和感を感じたのです。dainさんには、ここでこの例を出した理由や必然性についてお答え頂ければと思います。

 ほかに幾つか疑問はあるのですが、文章にするには時間がかかる気がするので、まずはこのくらいで。


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