『見えざる者達の物語』改稿版(3)
『見えざる者達の物語』改稿版(2)の続きで、『見えざる者達の物語』改稿版(3)21ページ です。
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そのあと入ってきた志乃に、隼人は体を洗われながら、
「理事長先生って?」
「お嬢さまは、ほとんど学校に行かれませんので。ときどき安藤学園のほうから、様子をうかがいにみえるのでございます」
その説明に納得した。
*****
風呂上がりに隼人が連れてこられたのは……。
「きしゃーっ!」
老人の声響き渡る、板張りの、道場のような薄暗い部屋。
「なっとらん! きさまは、まるでなっとらん!」
手にした竹刀を老人は、隼人に向けて振りあげる。
「なっ、なにが、なっとらんのですかっ!」
逃げ腰の隼人は、だが、坐禅を組んでいるので、とっさには動けない。両手を頭の上で交差させ、きわめて効果の少なそうな防御態勢を取る。
「ぶざまじゃ」
「ぶざま?」
「おまえさんは日本男児ではないのか。まったく情けない。そのように坐禅ひとつまともに組めぬ軟弱者であるがゆえ、おまえさんは、おのれの記憶すら取り戻すことができんのじゃ」
「日本男児であることと、記憶を取り戻すこととに、いったいなんの関係が……」
「やかましい!」
あの夜のにやけた顔はどこへやら。老人は竹刀を投げ捨てると、厳格な表情をみじんも崩さず、
「軟弱者のくせに、なぜこうも体が固い。一文字になるように、股を開け」
がつりと隼人の両膝をつかんだ。
「こ、これ以上は無理ですって」
「馬鹿者! 無理とはなんじゃ無理とは! 鳴かぬなら鳴かせてみせようホーホケキョ。ん? なんか変じゃが、まあええわい、どりゃーっ!」
「うぎゃああっ」
痛いどころの騒ぎではない。背を逸らせて煩悶すると、老人がぱっと手を離した。
「いかん。股が裂けたか」
裂けてたまるかっ!
隼人はもう泣きそうだった。いや、すでに目に涙がにじんでいる。
「ひいひい言うな、みっともない。よいか、坐禅とは、おのれの心中に向きあう行じゃ。森羅万象に我が身をゆだね、おのれの中の悪や嘘、欺瞞や卑しさから目をそらすことなくありのままの自分の姿を見据えることができたとき、人は天と交信可能な状態となる。さすれば広大なる宇宙の中で、おのれの存在がいかに小さく、はかないものかも見えてこよう。そのときはじめて、おのれの果たすべき役割が、その意義が、理解できるようになる。そのための瞑想であり思索であることを念頭に置いて坐禅を組めば、そのようにぶざまな形になろうはずもない。もちっと性根を入れて姿勢を正せ」
竹刀の先で突つかれて、隼人はしぶしぶ坐禅を組み直す。
「目を閉じれば宇宙が見える」
なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだと思いながらも、老人の話を、黙って聞かざるをえなかった。
「その深遠なる宇宙には、『智』と『恍惚』のエネルギーが満ちあふれておる。ここまでは、わかるか」
「なんとなく」
「おのれのなんたるかを知り、その運命を享受できる者のみが、万物からの祝福としての智を授かり、恍惚の極みに達するを許される。この明確にして完全なる天界の法則が、理解できるか」
「……あんまり」
「くぁーっつ!」
パシィィン!
竹刀が激しく床にしなる。
「わかれ。わからねば、封印されたクロムの記憶は二度とよみがえってはこぬじゃろう」
「あのう」
「なんじゃい」
「あなたは、その、誰なんですか」
「誰、とは。それはどういう意味で聞いておる?」
「いやその、安藤太一郎だってことは知ってるんだけど、その、なんて言ったらいいのか、中味が……」
「中味とな」
老人が、グイと顔を近づけてくる。
「おまえさんには、わしらの中味が見えるのか」
皮膚の奥にめり込んだ目が、なにかを探るように鋭く光る。
「見えはしないけど。あの少女もそうだけど、外見とは違うものが中に入っているような、そんなしらけた感じがする」
「ふむ」
老人が首をかしげる。
「そこまでわかるなら、わしらのことを思いだしてもよさそうなもんじゃが」
「人間じゃ、ないんでしょ」
「なんじゃと?」
「あの少女は、クロムのことを九十年もかけて探したと言っていた。それが本当なら、あの子も、その祖父であるあなたも、人間じゃないってことになる」
「なるほどのぅ」
「教えてください。クロムっていったい何者なのか、あの少女は、なぜクロムを探しているのか、そしてなぜ僕は──」
胸に手をあて、隼人はためらいがちに打ち明ける。
「あの少女について、なにかをかすかに覚えているのか……」
板張りの広い部屋に、隼人の声が吸いこまれていく。
「それは、おまえさんがクロムだからじゃ」
「違う。僕は御手洗隼人だ。そしてまだ、十四年しか生きてない」
「その前は? 御手洗隼人である前は? おまえさんはどこにいて、なにをしていた?」
「え……。それって、生まれ変わりとか、そういうこと?」
「転生とは、ちと違う。しかし今現在、おまえさんが御手洗隼人という中学生の皮をかぶって生活しておることには間違いはない。下界では今頃、神隠しにあったおまえさんをめぐって、大騒ぎになっておることじゃろう」
「……」
「家出か? 誘拐か? なにかの犯罪に巻きこまれたか、はたまた自殺か? 関係者はさぞ不安じゃろう、恐ろしかろう。その気持ちはよくわかる。わしらとて、おまえさんの家族や友人が眠れぬ夜を過ごす日々を、むやみに長引かせたくはない。しかしな、おまえさんは、すべてのことを自力で思いださねばならん。そうでなければ真実の重さに、きっと精神がいかれてしまう。わしゃぁ今まで、クロムに取り憑かれて気が触れてしまった人間を、山と見てきた」
「取り憑かれて? じゃあクロムの正体は幽霊かなにか──」
「幽霊とも、ちと違う。そうじゃな、今のところはお嬢から逃げまわって永遠のときを過ごす、いうなれば、地球の救世主とでもいったところか」
「救世主……」
急に話がでかくなった。
「と言ったところでわかるまい。わしだけが知っておる。おまえさんの未来、おまえさんの運命、そしておまえさんの、今、為すべきことを」
「じらさないで、教えてくださいったら」
「まあそう興奮するな。今言ったばかりであろう、自力で思いださねば、過去の重圧に耐えられぬと」
そこまで言われると、かえって余計に知りたくなるような、でもこのままなにも思いださないほうが、きっと幸せでいられるような、そんな複雑な気分になる。
「無間地獄という言葉を、おまえさんは知っておるか」
「聞いたことくらいは」
「ふむ。生きるということは、そもそもが艱難辛苦に満ちたものじゃ。賽の河原に石を積んでは崩されて泣くおさなごのごとく、人はいつ果てるともしれぬ徒労を休みなく日々ただ繰り返す。現実の世では苦労が報われることはまずもってありはせん。それでも人は生きようとする──なぜじゃと思う?」
「死にたくないから?」
「違うな。なにがしかの思いがあるからじゃ」
「思い?」
「クロムにはクロムの、お嬢にはお嬢の、それぞれに胸に秘めた思いがある。それはわしとて同じことじゃ。いい悪いは別として、人にはみな、自分でさえも気づいておらぬ強い思いを心の奥深くに秘めており、それが動機となって動いておる。じゃがのぅ、胸に秘めるのにも限界というものがあってのぅ」
板の間に坐禅を組んでいる隼人の前で、老人がすうっと竹刀で円弧を描く。長身の体をまっすぐに立て、摺り足をしながらビュッ、ビュッと二回、三回空気を切ると、くるりと隼人に向き直る。
一呼吸、置いて。
「とぅりゃあーーーっ!」
その突きこんできた竹刀の先が、ピタリと隼人の眉間に止まった。
隼人は。
今度はぶざまな姿はさらさず、まばたき一つせずに竹刀の向こうの老人を睨み据えた。
ふっと老人が、髭の中で、人なつこい笑みを漏らす。
「お嬢は無間地獄の中にいる」
言いながら、隼人の前であぐらをかいた。
「もう何世紀ものあいだ、クロムを探してこの地球上をさまよってきた。お嬢とクロムは、二人が誕生した瞬間に定められた、いわばいいなずけのようなもんじゃ。互いが成熟するのを待って、二人は永遠の契りを交わす。じゃがその日が訪れる直前に、クロムは突然お嬢の前から姿を消した。逃げまわるクロムを探し求め、お嬢は永い永いときをかけて、あらゆる土地を旅して回った。やっと見つけたと思ってもすぐに逃げられ、また探し、見つけ、また逃げられる。わしはそのすべてを見てきたが、その徒労たるや、無間地獄以外のなにものでもない。お嬢は知らぬ。なぜクロムがお嬢から逃げまわっているのか、その本当の理由をな」
「本当の理由? ただ単に、あの子のことが嫌いだからじゃ」
「反対じゃ馬鹿者。お嬢の身を案じてこそ、クロムはお嬢の前から姿を消した。そこには好き嫌いなどという感情からはかけ離れた、もっと深い理由がある。それがいかなる理由であるか。おまえさんがクロムであるとなしとに関わらず、我が身のこととして考えてみよ」
「現時点でクロムが地球の救世主っていうことは……クロムがあの少女と一緒になったら、地球が──滅びる?」
隼人の導き出した答えに、老人は満足そうにうなずいた。
「やはりわしが思ったとおり、おまえさんは理解が早い。そのとおり。お嬢とクロムが一つになれば、互いの組織が融合して爆発的な昇華が起こり、お嬢もクロムもふっとんでしまうどころか、瞬時に地球が滅んでしまうほどの大規模なエネルギーが発生する」
「……」
「どうした」
「あ、その、あまりに急な話だったので」
「自分で答えておきながら、なにをぬかしておるのやら。とにかくそれが、お嬢とクロムとが持って生まれた宿命じゃった。じゃがその事実を、当の本人のお嬢が知らぬ。純粋に、クロムと一緒になりたいと恋いこがれておるだけじゃ。ところがクロムは、偶然にもそのことを知ってしもうた。誰しも自分の命は惜しい。そして自分の命以上に、愛するお嬢の身を守りたい。その日からクロムの逃避行がはじまったわけなのじゃが、お嬢はあんな性質じゃ。クロムの気持ちなど知りもせず、わしがどんなに止めたとて聞く耳一つ持ちはせん。思いこんだら命がけでひたすらクロムを追い続けているうちに、いつの間にかクロムを追いかけることそのものが、お嬢の生き甲斐になってしもうた。おまえさんにはわかるまいが、追っても追っても逃げていくクロムを、それでもあくことなく追い求めるお嬢の姿は、あまりに哀れで見てはおれん。わしゃあなぁ、この美しい地球が、こっぱみじんになりゆくさまを、あまりこの目で見とうはない。じゃがそれと同時に、いつかはお嬢のゆいいつの望みを、叶えてやりたいとも思うんじゃ……」
「そんな無茶苦茶な。じゃあ、あの子に本当のことを話せばいいじゃないですか。事実を知れば、あの子はクロムのことをあきらめるかもしれないし」
「それはできぬ相談じゃ」
「なんで!」
「お嬢が悲しむ」
「え……」
老人の、あまりにしんみりとした口調に、隼人は意外な思いを抱く。
「お嬢はずっと、クロムだけを追い求めてきた。今になってクロムとのことをあきらたら、お嬢はきっと、魂が抜けたようになってしまう。わしゃあ、そんなお嬢を見とうはない」
その目尻に刻まれた深いしわに、
『もはや腐れ縁の仲なんだから』
と少女の言った、二人の過ごしてきたであろう長い長い年月を、すこしだけ、かいま見たような気が隼人はする。
だけど、それとこれとは話がべつだ。
「見とうはないって、ただそれだけの理由で地球を爆破されたら地球人はたまらないよ」
「では、ほかにどんな解決法があるというのじゃ? おまえさんは、たかがお嬢の色恋沙汰で、地球一つを犠牲にするなどとんでもないと思うておろうが、わしに言わせれば、たかが地球一つのために、お嬢が生きる屍となるのは、これほど許し難いことはない」
「価値観の違い、ってやつですか」
「さよう。この点において、わしらが人類と理解しあうことは、永久にない」
「……もしかして、あなた達は、宇宙人?」
「ふむ。まあ簡単に言えばそのようなもんじゃろう。ここで細かいことを言うたとて、人類の持つ概念では、到底理解不能な生命体じゃ。そしてそのことは、そうたいしたことではない。おまえさんがクロムであり、わしらの仲間であるという事実以上には、な」
隼人の頭を手のひらでポンと叩き。
老人は、ふっと目を濁らせた。
「どっちみち、おまえさんは殺される」
「……」
「今までに、すでに何十人も殺された」
「あの子に、ですか?」
「そしてクロムだけはお嬢に殺されかけたその瞬間、憑依した肉体から飛び出して、また他の誰かに憑依する。お嬢の繰り返す殺人を、誰も止めることなどできはせん。二人をめぐって地球上では数々の争いが巻き起こり、なんの関係もない大勢の命までが奪われてきた。そしてどれだけ多くの人間の命が失われても、誰も、なにも、報われることはない。人類にとって、これは不幸以外のなにものでもない。どうじゃろう、ここらでひとつ、おまえさんが、お嬢の茶番をおしまいにしてやってはくれんじゃろうか」
「でも、そんなの、どうやって」
「おまえさんは軟弱に見えて、これでなかなか芯が強いとわしは見ておる。そこを見込んで頼みがある。よいか、近い将来お嬢に殺されかけたとき……」
ゴクリ。
自分の唾を呑みこむ音が、隼人の耳に響いてくる。
「けして、気を失うな」
「……は?」
「気を失えばクロムは逃げる。それではまた、いつもと同じことの繰り返しじゃ。お嬢から、たとえどんなにひどい目に遭わされても気をしっかりと持ちこたえ、最後の瞬間まで正気を保つことができれば、クロムは無事、お嬢のもとへと明け渡される」
「非道いことを、そんなにさらっと言わないでくださいよっ」
「ほかに手がないんじゃから、しかたなかろう。さっきも言うたが、どっちみちおまえさんは死ぬんじゃからな。残る選択肢は、地球を道連れにするか否かという、その一点だけじゃ。考えてもみよ。もしこのまま地球という星が存続しても、ここでお嬢の愚行を止めなければ、人類にとっての脅威は永遠になくならんのじゃぞ。今おまえさんが感じている絶望や恐怖を、ほかの誰かにも味あわせたいか? おまえさんは、それを望むのか?」
「卑怯だ。そんな言いかた」
「卑怯でもなんでもええわい。わしはとにかく終わらせたい。それがわしの秘めたる思いじゃ。文句があるならかかってこい」
隼人は歯をギリギリと噛む。
「とにかくいやだ。僕にはできそうにない。地球がなくなるとわかっていて、あの子にクロムを引き渡すなんて」
だが、いまひとつ、言葉に力が入らない。こんなこと、たしかに隼人には荷が重すぎる。ここが安藤屋敷でなかったら、誰かに相談できるのに。
いや、安藤屋敷でなかったとしても──。
多分、誰にも、相談なんてできないだろう。
「お、しまった!」
いきなりの大声に顔をあげたら、老人がわざとらしく、おどけた表情で隼人を見ていた。
「すべてを自力で思いだせと言っておきながら、つい口が滑って、すべてをぶっちゃけてしもうたわい」
……つい口が、というような情報量じゃ、なかったと思う。
坊主頭をなでながら、はははと一人、とぼけまくる老人に、隼人はもう、なにも言う気になれなくなった。もうなにを言い、聞いたところで、自分が少女に殺される運命にあることは確定された未来なのだということが。
まだどこか他人ごとのようでいて、
実際には、他人ごとには受け止めきれない。
「まあ、そう悲しむな。地獄に仏の例えのように、なりゆきに身をまかせれば、運が開けることもある。迷ったときには坐禅を組め。答えは常におのれの内側から発生する。おのれが何者であるかを知れば、おのずと為すべきことは見えてこよう。それとな」
「まだ、なにかあるんですか」
「わしがこんなことを言うたのは、お嬢には内緒じゃぞ。心の隅に思ってもいかん。あれは人の心を読みおるでな」
「……それは、知ってる」
「ほう」
「あの子が自分で言っていた。僕の考えてることが、全部わかるって」
「ならば芝居は可能じゃな? お嬢はプライドのかたまりみたいなもんじゃから、ちょっとでも自分が同情されていると感じたら、手のつけようがないくらいに怒り狂うにきまっておる。あれを怒らせると、被害が拡がるだけじゃからな」
「被害が拡がる?」
「なんの関係もない人物まで、巻きこんでしまうということじゃ」
これを聞いて思いだしたのは、さっき風呂場で見た幻想。
逃げまわるクロムに腹を立てて、少女が村に火を放ったという──。
「わからない。あの子はなぜ、あんな残酷なことが……」
「しっ!」
隼人をさえぎり、老人が身構えた。
……ドタドタドタ。
屋敷の奥から、聞こえてくる。
ドタドタドタ……。
これは床を踏み鳴らす音。どんどん近くなってくる。
ドタドタドタドタドタ。
それにしても、なんて激しい──。
ダンッ!
飛びこむように床に着地したのは、
「この、くそ坊主っ!」
キラリと光る、刀を片手に持つ少女。
「わたしがいないところで、なにをこそこそ内緒話しているの」
なんだかよくわからないが、とにかくすごい迫力だ。
待てよ、と、坐禅を組んでいた足をほどきながら隼人は見つめる。
あれは──真剣か?
そう思った瞬間、隼人は体の動きを止めた。
だとしたら、これはちょっと、しゃれにならない。
少女を刺激しないように、ゆっくりと立ちあがった。
老人は、いたずらを見つけられた少年のような顔をして、例によってとぼけまくる。
「こやつに座禅を教えていただけじゃ」
「ふん、見え透いた嘘を。わたしの邪魔をしようとして、二人で密談してたんでしょ」
「言うに事欠いて。なんでわしがお嬢の邪魔をせにゃならん」
だが少女は老人の返事など聞いてはいない。真剣を手に、隼人をきっと睨んできた。
「こんなくそじじいと二人っきりになっちゃだめよ、クロム」
隼人は根性で恐怖を押し殺している最中だ。
「べつに、なにも内緒話なんかしてないよ」
「本当に?」
少女の疑わしい目つき。隼人の心を読もうとしている。
しずしずと、近寄ってきた。
もちろん、手に真剣を握りしめて。
「本当さ。ほら」
どこまでしらがきれるだろうと、胸を突き出して、僕の心を読んでいいよと言ったつもりだ。
果たして少女に通用するのか。
「見えないわ」
さらに近づいてきた少女は、刀の柄を握り返して隼人の首筋に押しあててきた。
冷たい。これは金属であるというだけの冷たさではない。皮膚に押しあてられた刃先は鋭く、どちらかがが少しでも動けば頸動脈からぶばっと血が噴き出しそうで、隼人は体を震わせることすらできない。
人に聞いた話だけれど、真剣って重たいんだぞ。こんな細っこい少女が、簡単に扱えるシロモノじゃあ、ないんだぞ……。
少女の瞳が暗く濁った。
「あんたの心が見えないクロム。あんなに透けて見えていたのに……」
隼人から離れようとして、シュッと無造作に刀を引いた。
──切れた。
少女のうしろ姿を目で追いながら、首筋に手をあててみる。
血だ。
まじかよ……。
だが少女は、首筋を斬られた隼人以上にショックを隠せない様子だ。隼人の心が読めないことが、ことのほか悔しいらしく、退散しようとしていた老人の首根っこは掴めないので上着の裾を引っ張った。
「クロムになにか仕込んだわね、フォルス」
フォルスとは老人の別名か。
上着を掴まれた老人は、少女に背中を見せたまま、のらりくらりと言葉をかわす。
「滅相もない。わしゃあいつでもお嬢の味方じゃ」
「だってこの子、さっきまでとなにかが違う」
「ふむ。座禅を組んで心を解き放ったからじゃろう」
「は、はーん」
「なんじゃなんじゃお嬢。わしの言うことを信じておらぬのか」
「なるほどね。今の今まで気づかなかったけど、わたしがことごとくクロムとの合体に失敗してきたのは、全部フォルスのせいだったのね。これでやっと納得がいったわ」
「なにを一人で納得しておる。このわしを裏切り者扱いするとは、お嬢も焼きが回ったもんじゃ」
「そういうことも視野に含めて、今度こそはクロムとの合体を成就させるって言いたいだけよ。文句ある?」
「好きにしませい」
「言われなくても好きにするわ」
一方、さっきから黙って聞いていた隼人は首から血を垂らしながら──。
合体?
クロムと少女とが、合体?
合体合体合体……。
「なにを考えているのクロム。合体って、そんな安易なものではないわ」
ひややかな目を隼人に向けると、少女はびゅんびゅん、むやみやたらに真剣を振りまわす。刀の斬った空気の余波が、頬に感じられるくらい近くに立っている隼人は、
ち。
つい油断して、あらぬ妄想を見られてしまった……。
一度斬られて度胸がついたか、妙なことばかり考えていた。
「失礼いたします」
女中が声をかけてきた。志乃ではない。縁側の向こう、玉砂利の敷き詰められた地面にひざまずいている。
「なあに」
振り返った少女が手を滑らせて、刀をあさっての方向に放り投げたものだから、それを見ていた女中の心中たるや、察するにあまりある。
刀はみごと、女中の膝もと、玉砂利の中に突き刺さっていた。
「……ご隠居さまに、お電話でございます」
「どこから?」
少女の目が意地悪く光る。
「はい、なんでも難しいお名前でして、サーティスファクショントレードコーポ……」
「みなまで言うな」
老人が止めた。
「みなまで言うと日が暮れる」
「なんなの、おじいさま」
「お前には無用のことじゃ」
女中の前では立派な祖父と孫娘を演じるのだからあきれてしまう。
「意地悪なのね、おじいさまったら」
演技を楽しんでいるとしか思えない少女の甘ったらしい声を無視して、老人は、砂利に突き刺さった刀を大事そうに引き抜いた。
あれも老人の趣味なのだ。
トラに金箔、お次は真剣。
この屋敷には、なにが隠されているか、わからない。
「まあ、クロム」
老人と女中が去った板張りの部屋に、隼人は少女と二人きりだ。
「首から血が出てるじゃない」
「……今、気づいたのかよ」
「いらっしゃい、わたしが手当てしてあげる」
*****
(この章21ページ・累計60ページ)
※この章での改稿のポイント
・第一稿よりわかりやすい説明をしようとして無駄に長くなってしまったかも……。
・なるべくたいくつさせないようにと気は遣ったけど、やはり長い。
・でも読めば確実に、前よりわかりやすくなっているとは思う。
・シリアスな恐怖とそれに比例した量の乾いた笑いをバランスよく入れようとした。
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