GA文庫テーマ大賞後期用短編小説:星の海のミッキーとマウス その2/三番倉庫
2)第三倉庫
大騒ぎではじまった培養槽の掃除は、三十分もしないうちに終わった。掃除をはじめたとたん、四人ともふざける余裕を失ったのだ。
「表面のやつは、まだですが」
「底にこびりついているのは、かなり分解が進んでいるわね」
「……臭い」
リンリンが言う通り、ものすごく臭い。鼻が曲がりそうだ。
「運が悪かったね。分解がはじまってるんだ」
僕はそう言った。培養槽の中にある緑色の粘液は現代の遺伝子技術の極致である。どんな汚物であろうが分解し、きれいな空気と水を作り出す。しかし、どんな汚物でも分解できるということは、生きている人間だって分解できるということだ。生きている緑色の粘液は、バクテリアレベルのピラニアか軍隊アリの群のようなものだ。もし生きている緑色の粘液でいっぱいの培養槽に入れば、骨まで分解されるのに一時間とかからない。らしい。
地球の自然の中に放出されることがあれば、空気も水も浄化されるが、人間はおろか地上の動物と植物は全部、緑色の粘液に食い尽くされることになる。ゴキブリですら、絶滅できるんじゃないかとの試算もある。
そうならないように、培養槽の中にいる緑色の粘液には、二重三重の安全策がとられている。緑色の粘液は培養槽の壁から放射される特殊な電磁波がなければ活動できないし、三ヶ月たてば必ず壊死するように致死遺伝子がセットされている。僕たちがこうして中に入るのは、電磁波を止め、致死遺伝子が発現し、緑色の粘液が全部死んだことを確認した後だ。前に掃除した時に服に付着した緑色の粘液を学校の顕微鏡でのぞいてみたが、細胞核はすべて溶解しており、染色体のかけらも見ることはできなかった。
「確かこれって、分解が始まると早いのよね」
「ええ。前の――といっても、私が眠りについた三年前はそうでした」
「……ここからが、本当の地獄だ」
僕たちは互いにうなずきあう。もはや騒いだりふざけている場合ではない。時間たてば、その分、分解が進んで臭気が増す。一分一秒たりとも無駄にはできない。
力を合わせて掃除をしたおかげで、一時間の予定であったのが半分以下の、二十分ちょいで終わった。人間、やればできるものだ。
しかし、力任せにブラシを使えば、周囲に飛沫が飛び散ってしまうのは避けられない。終わってみると、全員が緑色の粘液を浴びてドロドロになっていた。
「航太! 水よ、水っ! 全開でぶちまけてっ!」
委員長に言われるまでもない。僕がホースを腰だめに構えると、リンリンが元栓をひねる。ホースが蛇のように暴れて手の中から逃げようとするのを必死にこらえる。
どんっ。
水がホースの先端から噴出した。広い培養槽の反対側の壁まで届き、飛沫と一緒に残っていた緑色の粘液を吹き飛ばす。反動でひっくり返りそうになる僕の背中を、委員長が両手で支える。
どどどどどどっ。
非力な僕では手だけでホースの向きを変えることはできない。身体ごとホースの向きを変え、培養槽の壁や床を洗い流す。消防隊員になって火事を消火している気分だ。
ブラシで浮かされ、水流で弾かれた緑色の粘液が排水溝へと渦を描いて流れ落ちていく。
「よし、全部洗い流したな。リンリン、止めていいよ」
「……その前に、身体についたのを流す」
そう言ってリンリンが僕の前に回る。
「だめだよ、リンリン。水の勢いが強いから危ないよ」
「……元栓を半分閉めたから大丈夫。それに水着だし」
確かに、ホースを持つ手に伝わる反動は小さくなった。でも、シャワーがわりに使うにはまだまだ水の勢いがありすぎる。
「じゃあ、やるけど。痛かったら言ってね」
僕はおそるおそる、リンリンの足下にホースを向けた。リンリンの長靴の汚れがあっという間に消えた。
少しずつ、ホースを持ち上げた。リンリンの白い太ももに貼り付いていた緑色の粘液が飛び散る。
「大丈夫? 痛くない?」
「……平気。ここにも、かけて」
リンリンが自分の下腹部を指で撫でる。スクール水着にはりついた緑色の粘液がリンリンの指に絡まって糸を引いた。
ごくり。
なぜか喉の奥が干上がり、僕は生唾を呑み込んでしまう。
「行くよ?」
「……うん、航太。思いっきり、私のココに浴びせて」
そんな風に言われてしまえば、僕だって男の子だ。はりきってしまう。
どばばばばばばっ。
腰だめに構えたホースの先端からほとばしる水流が、リンリンのなめらかな腹部に直撃する。
「……んっ!」
覚悟していたよりも衝撃が強かったのだろう。リンリンが反射的に身体を丸めて、水の勢いから逃れようとする。本当なら止めるべきなのに、僕の中にむくむくと意地悪な気持ちがわきあがった。
「逃げたらだめだよ、リンリン」
「……でも」
少し怯えの色を見せるリンリンがなんだか新鮮で、僕はどんどん意地悪になってしまう。
「ほら、足を開いて」
「……うん」
どばばばばばばっ。
「……んんっ。航太、強すぎ」
「我慢して、リンリン」
でも、女の子のお腹に放水を直接かけて冷やすのはよくない――気がする。
「じゃあ、リンリン。そこに四つんばいになって」
「……こう?」
僕はリンリンの背中から水をかけた。アイディアは悪くなかったが、角度が悪くてうまく緑色の粘液が落ちない。
「もうちょっと、お尻を高く持ち上げて」
「……なんだか、恥ずかしい」
「大丈夫だよ、リンリン。これは恥ずかしいことなんかじゃない。人が生きていくための大事な営みなんだ」
衛生的な意味で。
「……航太の顔が見えないと怖い」
「じゃあ、手を握ってあげるよ」
水圧が低くなってきたので、片手でもホースを動かせそうだ。僕は四つんばいになっているリンリンに近付いて、右手を伸ばした。
ぐわしっ。
「痛い痛い痛い痛い痛いっ」
「な~~に~~を~~し~~て~~い~~る~~」
僕の右手は委員長にひねりあげられていた。取り落としたホースが跳ね回り、周囲に水をまきちらす。
「ふたりともシャワー室に来ないから、怪しいと思って戻ってみればっ!」
「あ、そういえばシャワーあったんだ――痛い痛い痛い痛いっ」
そこへやってきた一宮さんが腰に手をあてて、ぷんすかと怒る。
「だめですよ、航太くん。そういうエッチなことをまだ小学生の女の子にやっては犯罪です」
「もちろん犯罪だよ。でも、これはエッチなことでは――なきゅるふぇーっ」
「そんなコトを言うのはこの口か、この口かっ。たとえ合意の上でも、犯罪は犯罪よ!」
「……ふたりとも。ツッコムのはそこではないはず」
リンリンが何か不満そうに言っているが、誰も聞いてない。一宮さんがもじもじと、むっちりした太ももをこすり合わせて腰をくねらせる。
「でも、航太くんが、どうしてもああいうプレイがしたいなら。それなら、私が。ほら、来年はもう、戸籍上は一八才になりますし」
同級生の一宮さんは、事故でこの三年間、ずっと眠り続けていた。春の事件で目覚めてから、僕たちの同級生になっているのはそのためだ。眠っていても胸は成長するのか、あるいは眠っていたから胸が成長するのか、クラスメイト女子ではダントツの『脅威の胸囲』(オテシン談)を誇る。
腰をくねらせるだけで、水着に包まれた胸がぷるぷると揺れ動くのを見て、僕は身体の痛みを忘れた。そして何か神秘的な、厳粛な気持ちに――
「痛い痛い痛い痛いっ!」
視線に気づいた委員長が僕の腕を後ろ手にねじあげた。頭が下がり、床しか見えなくなる。
「この状況であんなものをじっと見ていられるって、どういう神経してるのよ!」
「苦痛からの逃避だよ! 心理的な補正予算だってば!」
だめだ、幸せなものが見えなくなったせいで、苦痛に耐えられなくなる。
「委員長、ギブ! ギブ!」
「ギブギブって、私に何をくれるの? 命? なら、ふたつ頂戴」
ウルトラマンよりも強欲だ!
「そんなにおっぱいがいいなら、私がさっきから押しつけてるのに」
委員長が小さな聞き取りにくい声でナニやらぼそぼそとつぶやく。「このまま緑色の粘液と一緒に排水溝に流してしまおう」とかそんなコトを言っているに違いない。
「……水責め」
この騒動は、リンリンが床に落ちていたホースを拾って僕たちに水をぶっかけるまで続いた。
その後で僕たちは交代でシャワーを使い、汚れた服を着替えた。
「前回はシャワー使えなかったのに」
「ほら、前回までの当番用IDカードだと、培養槽のある部屋と、そこにつながる通路しか通ることができなかったでしょ。シャワー室には入れなかったのよ」
「……おかげで、家まで臭いままだった」
「このIDカードですと、今日の二四時まで、セキュリティがグリーンの場所には全部入ることができるみたいですね」
委員長から借りたIDカードをかかげた一宮さんが、そんなことを言う。カードの表面には手書きで今日の日付けと『掃除当番用』の文字が書いてあるだけなのに、どうして分かるのだろう?
「なら、掃除も早く終わったし。ミッキーを捜してみる?」
委員長が提案した。メールで確認したところ、棚卸し作業をしている茂樹たちの班はまだ一時間以上かかりそうだ。
「そうだね。僕たちが入れないセキュリティの高い場所にミッキーが逃げ込んでるかもしれないけど」
「いくら猫でも、そういうところにほいほい入ることはできないでしょ」
そこまで言ったところで、僕はふと、掃除の時の一宮さんの言葉を思い出した。
「そういえば、さっき一宮さんが第三倉庫にいるんじゃないかって言ってたけど」
「倉庫に? 茂樹たちの棚卸しは、今日は倉庫でなくて事務室のはずだけど。ミッキーったらどうやって入ったのよ」
「誰か間違えて、倉庫に入ったんじゃないかな。いつもは倉庫でやるから」
「分かったわ。とりあえず、行ってみましょう」
IDカードを持った委員長を先頭に、僕とリンリン、一宮さんは第三倉庫に向かう。途中にあった第一倉庫、第二倉庫の扉はとりあえず素通りする。
倉庫にはこれまでも当番で何度か入っているから、中の様子は分かっている。また、棚と棚の間は、運搬用のカートが通れるように広くなっているから見通しもいい。ミッキーがいたら、すぐに分かるはずだ。
「ニャア」
第三倉庫の扉を開けるなり、ミッキーが目の前にいた。
「ありゃ」
「いきなり当たりね」
「……入ってわずか一秒」
「おいで、ミッキー」
一宮さんが両手を伸ばすと、ミッキーがその中に飛び込んでいった。胸の谷間に顔をうずめてごろごろと喉を鳴らす。うん、ミッキー。同じ男の子としてその気持ちはよくわかるよ。
「うーん。拍子抜けね。ちょっとは探険気分になるかと思ったんだけど」
委員長が未練ありそうな様子で倉庫の中をのぞきこむ。
「でも何も――」
ぴたりと。
委員長の言葉が止まった。動きが止まった。
「どうした、委員長?」
「誰か、倒れてる」
委員長の言葉に、皆がぎょっとした。委員長の視線の先を見る。
誰もいない――いや、いた。運搬用のカートの上に人が仰向けに倒れている。
「大丈夫ですかっ!」
委員長が駆けだした。僕たちも後に続く。
近付くうちに、倒れている人が作業服を着ていること。男性なことが分かった。そして何より大事なことは。
「しっかりしてください」
「だめだよ、委員長。触っちゃだめだ」
カートのところで追いついた僕は自分でも驚くほど強く、委員長の肩を掴んだ。彼女がそれ以上近寄らないように。彼女がそれに触れることがないように。
「でもっ。怪我をしているなら、手当てしないと」
「必要ない。この人は死んでいる」
「!!」
仰向けに倒れ、少し横を向いた男性の後頭部はぱっくりと割れていた。何かが男性の頭蓋骨を砕き、中に入っていた神経細胞の幾ばくかと共に男性の命を運び去ったのだ。
「そんな……」
ぺたり、と委員長が床に座り込む。一宮さんがしゃがみこんで委員長を抱きしめた。
「リンリン、病院に電話して。僕は警察に」
僕は携帯電話を取り出した。開く。起動画面に浮かぶ赤い警告マーク。
“情報ネットワークに接続できません”
すべてが人工物であるトウキョウ・ステーションの中では本来見るはずのない警告。
これを前に見たのは四月の事件の時だった。
「……つながらない」
リンリンの声も、わずかに震えている。彼女もあの時のことを思い出したのだろう。
僕は携帯電話を指が白くなるまで握りしめたまま、男性の死体を見た。この男性がなぜ、どうしてここで死んでいるのか。
そもそも、この男性は誰なのか。
着ている作業服に縫いつけられたロゴは、トウキョウ・ステーションで環境メンテナンスを管理している企業のものだ。そして胸にはIDカード。
そこには男性の顔写真と共に、名前が書いてあった。
『西村満(nishimura mituru)』
「ニシムラ……ミツルさんか」
顔写真を見る限りでは、まだ若い感じだ。二十代か? 顔に見覚えはない。人口わずか千人のトウキョウ・ステーションであるから、一年も暮らしていれば地域の催しものなどで半数近くとは顔見知りになる。
僕がニシムラさんを見たことがないということは、最近になってトウキョウ・ステーション勤務になったか、あるいは仕事の関係で外に出ることがほとんどない人なのか。
もう一度だけ、携帯電話をうらめしく見る。警告マークはそのままだ。これではニシムラさんの名前で検索することもかなわない。
ニシムラさんの死と、突然の情報断絶。
このふたつは偶然なのか、それとも、どこかでつながっているのか。
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「間に合ったか」
男は作業の手を休めると、額ににじんだ汗をぬぐった。
施設内にはさまざまな機密情報がある。外部への流出を避けるため、登録されていない携帯端末を情報ネットワークから切断することも可能だ。
「まさか子供たちが第三倉庫に入るとは」
掃除や棚卸しの当番でやってくる子供たちに渡されるIDカードでは、許可されない限りどこにも入ることができないと高をくくっていた。
「死体は……見つかったろうな。さて、どうする?」
即座に逃げる――却下。現時点ではトウキョウ・ステーションから外に出る移動手段がない。どこかに隠れて潜むのも不可。高度に情報化されたトウキョウ・ステーションの中で隠れることはできない。
ドックに係留されているタグボートを盗んで逃走するのも、ダメだ。盗んで逃げるまでは不可能ではないが、高度一万キロメートルという高軌道からでは、どこに逃げても逃げた先に官憲が待ちかまえている。
「やはり、予定通りに旅客としてここを離れる他ないな」
客船の出港は六時間後。それまでは、事件の発覚を防ぐ必要がある。
そのためには、どうすればいい?
このまま子供たちを死体と一緒に第三倉庫に閉じこめておくか? グリニッジ標準時間ですでに一四時。六時間後の二〇時になっても子供が帰って来なければ、そして携帯電話もつながらないようであれば、誰かが不審に思うのではないか? それとも、大丈夫なのか?
「いや、ダメだ。出港までの時間を稼ぐだけでは。最悪でもタカマガハラ・コロニーに到着するまでは」
男がそれまで意識の表層にあえて出さなかった結論が、ゆるゆると浮かび上がってくる。
「あのー、すいません」
結論が言語化される直前。
眼鏡をかけた少年が、男に声をかけた。
「棚卸し作業、終わりました。確認をお願いします――えと、ニシムラ、さん」
少年は男の胸のIDカードを見てそう呼びかけた。
「分かりました」
男――西村満――は、にっこりと微笑むと立ち上がった。
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(つづく)
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