笠井 潔、著、『バイバイ、エンジェル』、「いつだって真実は見る人の前にある。しかし……」

 『バイバイ、エンジェル ラルース家殺人事件』は、笠井潔さんのデビュー作で、代表作矢吹駆連作の第1作。

 パリの高級住宅街のアパルトマンで、ブルジョワ有閑夫人が殺害される。屍体からは、切断された頭部が持ち去られていた。
 事件を予告するかのような手紙が、事前にラルース家へ送りつけられていたことは、被害者の甥アントワーヌの友人ナディア・モガールも知っていた。
 ナディアは、謎めいた東洋人、矢吹駆を引き込み、自分も探偵役を買って出るが。事件は、連続殺人に発展していく。

 このレヴュー記事では、矢吹駆が探偵役をはじめて演じる“ラルース家殺人事件”の物語を、未読の人を想定しながら紹介します。
 不必要なネタバレは、極力避けます。

Cover image
(『バイバイ、エンジェル』、創元推理文庫版書影)

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 最初の殺人事件が起きる前、ラルース家に送られてきていた復讐予告状には、思わせぶりな“I”の署名が記されていた。
 事件の予兆を察したナディア・モガールは、パリ警察の警視であるに相談したが、悪戯だろうと、とりあわれない。
 ナディアは、数ヵ月前から日本語の個人レッスンを受けてた矢吹駆にも相談するが。駆は、ナディアに、「いつだって真実は見る人の前にある。しかしこの場合は君が期待するような形では存在しない……」と語る。

 『バイバイ、エンジェル ラルース家殺人事件』は、創元文庫版で377頁の本文が、第一章~第六章と、序章、終章の8パートから構成されてます。

 35頁と、長めの序章「マドリッドからの手紙」では、語り手のナディアが、20歳になった春の視点から、19歳の冬以降に関わった一連の事件の回想を語りだす。

 春が来て、わたしは二十歳になった。
 しかそ透明な陽光と微風の五月のパリも、去年までのようにはわたしを楽しませない。わたしは少し大人び、以前のように気楽にはしゃぎまわったり、なにかを単純に決めつけたりはできなくなった気がする。ルシファーの冬の景観が、どこか深いところでわたしを変えてしまったのだ。
〔後略〕

 1979年に最初の単行本が刊行された『バイバイ、エンジェル』は、今では、年代モノのウィスキーみたいな感じで。クラシックだけど、じっくり舐めるように読んでも、味わい深くて美味しい小説。
 今だと創元文庫版が入手し易いはずです。

 主人公の名探偵、矢吹駆のスタイリッシュさや「現象学的本質直観推理」が有名だけど。
 忘れられがちなのが、ナディア・モガールが語り手キャラであること。
 『バイバイ、エンジェル』は、読み終わった後で、2度、3度と読み返すと、その都度、ナディアと駆の掛け合いなどから新しい意味を読みとれる、読み応えのある傑作です☆

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 序章「マドリッドからの手紙」は、先に引用した、ナディア20歳時点の冒頭の語りから、彼女が、マドリッドで投函されたラルース家宛ての復讐予告状を見せられた時の回想に移ります。
 このパートでは、事件に関わるナディアの友人関係が描写され、ラルース家の錯綜した人間関係もその一端が説明される。
 ナディアは、復讐予告状の件を、父のルネ・モガール警視とその相棒バルベス警部に相談。
 さらに、同じ年の秋の、ナディアと主人公役の矢吹駆との出会いの回想を挟んで、ナディアが復讐予告状の件を、駆にも相談する場面に続きます。

 駆がナディアに「いつだって真実は見る人の前にある」と、語るのは序章のラストでのこと。

 最初の殺人事件は、第一章「ヴィクトル・ユゴー街の首なし屍体」で発覚。
 持ち去られた首、壁に遺された血文字のA、何かを暗示しているらしい、小説本の1ページなどなど。犯行現場周辺に遺された数々の痕跡は、いったい、何を意味し、何を隠蔽しているのか??

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 主人公の矢吹駆は、『バイバイ、エンジェル』の時点では素性不明のキャラクターで。
 パリの下町のさらに裏路地にある屋根裏部屋で、中世の修道士のように孤独で質素な暮らしをおくりながら、ナディアが通ってるパリ大学ソルボンヌ校の哲学の講義に潜り込んでるようです。

 駆って、知性派、直観型の名探偵キャラなんだけど。
 目立つ特徴を一言で言うと、「世捨て人」とか「隠者」とか。
 実社会との関わりを、極限まで少なくしようと日夜努力してる。
 本当だったら、パリみたいな大都会にはいない方が、よくって。
 どこかの砂漠か、深山の奥で、1人瞑想に耽ってた方が、本人のためにも周囲のためにもいい(笑)。
 そんな駆が、なぜパリなんかにいるのかは、連作の先の方を読んでのお楽しみ。

〔前略〕「それにあの日本人は私らと同じで地下生活の経験がある。私には雰囲気でわかるんです。公安警察局の方に照会してみましょうか」
「いや、その必要はないだろう。もしも彼が<望ましからざる者>であったところで、国内でなにか事件を起こさん限り私らの仕事にはならんからな」
「私にはいいですがね、局長の前であんまりその手のことは言わんほうがいいですよ」バルベスは旧友にまた無益な忠告をした。〔後略〕

 引用は、第二章から。モガール警視とバルベス警部の会話です。

 第一章で最初の事件が発覚して、警察の捜査は始まっています。駆がナディアに引き出される形で探偵役を始める直前で。ナディアに伴われた駆が、モガール警視、バルベス警部と初めて顔を合わせたすぐ後のパートから。
 モガール警視とバルベス警部は、まだ若かった2次大戦中、対独レジスタンス組織に加わっていたって設定なので「私らと同じで地下生活の経験がある」って話になってます。
 ちなみに、『バイバイ、エンジェル』の物語内の時代は、特定する手がかりがあまりなく。極、大まかに、1970年代の初め頃と思われる。隣国スペインで、まだ独裁政権が営まれている時代、ってのが、物語の重要な背景になっています。
 モガール警視が言う<望ましからざる者>は、海外で反政府活動やテロ活動、あるいは組織犯罪に関わった経歴を持つ入国者のことでしょう。

 モガール警視とバルベス警部が作中でおこなう捜査と推理は、手堅いもので。駆の謎めいた直観推理、ナディアの推理マニア風の推理と併せて、3種類の推理が競い合うような趣向も『バイバイ、エンジェル』の読みどころの1つ。

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 さて、モガール警視とバルベス警部が、駆のことを話題にしてる頃、レストランで2人と別れたナディアは、駆が仮の宿として長期契約してる屋根裏部屋に押しかけています。

「パパたちがなんていおうと、わたしはこのオデット殺しが警察の常識的なやり方で解決できるものとは思わないの。去年の十二月に、二人で散歩した時にあなたと話したことは、今考えるとほんとうに暗示的だったわ。あの時あなたは、事件が始まっていない以上、それについて考えるのは無意味だというようなことをいったけれど、でも事件はほんとうに起こったのよ。それにオデットたちはなんといってもアントワーヌの叔母さんだし、わたしだってもう事件のなかに巻き込まれているんだわ。イヴォンらしい謎の男を最初に目撃したのはわたしなのよ。これは挑戦だと思うの。わたしはこの挑戦に応じるつもりだけど、あなたのいう現象学の社会問題への適用という主張をこの事件で確かめてみたい気がする。あなたもいっしょに、この挑戦に応じるべきだと思うわ。カケルの哲学が試される機会なんですもの。この機会を無駄にするようなら、これからはあなたの無駄口なんて一切信用しなくなるでしょうよ」

 ナディアが言ってる「イヴォン」と言うのは、復讐予告状の署名“I”の主かもしれない、と言われてる人物で、長く行方不明になってました。南仏出身のラルース家は、今はブルジョワだけど、元はイヴォンのデュ・ラブナン家の小作人だった家。

 カケルはかなり長いあいだ、黙って薄暗い天井を眺めていた。わたしは既に事件の真相に向かうための確かな推理の糸口を掴んでいた。仕事のことになると、わたしをまだ子供扱いするパパを驚かせるのは当然だけれど、ついでにこの得体の知れない日本人の鼻をあかしてやろうという思惑もあったのだ。捉えどころのない、なにものにたいしても超然とした印象を与えるこの日本人が、尻尾を出してあたふたするのを期待する少し意地悪な気持ちもあった。
「……いいだろう」カケルがようやく口を開いた。「この経験は<書かれるべき一冊の書物>のなかにある一章のために、たぶん貴重な資料を提供するだろうから」

 こうして駆は素人探偵として事件に関わることになりますが。
 申し出を引き受けるにあたって、ナディアに3つの事柄の了承を求めます。
 ちょっと文字数を圧縮するために、言い換えも交えて整理すると--。

 1つは、フランスの司法当局に積極的協力する気はないので、結果として協力する形になるかもしれないが、逆に警察を欺くこともあり得る。
 2つめは、「僕の関心はひとつの犯罪が現象としてどのように生成していくのかを始めから終わりまではっきりと見届けることにある」。だから、質問があった時に出来事の本質的な面についての意見は述べるが、具体的なこと(例えば、犯人は誰かなど)については、犯罪の生成が終わるまでは答えない。
 犯罪の進行過程では「知りえた事実を全部語るわけにはいかないのだ。もしもそんなことをすれば現象の固有のあり方が外部から恣意的に歪められてしまう危険性が生じる。そうなっては、犯罪の現象学的考察は不可能になるからね」。
 3つめは、事件が終局に達するまでのあいだ、駆は観察者に徹するので「なにか社会的な責任だとか人間的な反応だとか、そうした種類のものを期待しても無駄だ」。
 “いまだってそうじゃないの”と、ナディアは思うのですが(笑)。
 「横合から混乱した情緒的な反応を起こされると困ったことになりかねない。ナディアこの三点を君が受け入れるのならば……」「この事件を引き受けることにしよう」。

 駆が、「司法当局に積極的協力する気はないので、結果として協力する形になるかもしれないが、逆に警察を欺くこともあり得る」みたいに言うのは、要するに、自ら犯罪を起こすとかは限らないけど、必要と見なせばしないでもない、みたいなことです。
 犯罪者を告発して、当局に引き渡すとかに、積極的なわけではない、的宣言で。
 名探偵は名探偵なんだけど、変わってます。

「でも、そうだとしたら、あなたがほんとうに真相に到達したかどうかを誰が判断できるの」
「君さ。現象が展開を終え、事件の真相が完全に把握された段階で、少なくとも君にたいしてはその全部を隠さずに語ることを約束しよう。また、そのことによって得た事件の真相に関する知識をどう利用しようと、それは君の自由だ」

 こうして、矢吹駆は探偵役を引き受けるんですけど。

 ともかく、事件を防ごうとか、被害者を減らそうとか思わない探偵で。
 そこも変わってます。

 駆って、性格もかなり奇矯なんですけど。
 ちょっとお芝居がかったセリフ廻しとか、アタシは好き。
 普段は、もったいぶってるようにも思えて、言葉数、多くも無いんですけど。
 一端、興が乗ると、息の長いセリフを立て板に水と語りだす。
 犯罪者と直接対決するときとか、お芝居染みてる感はあるけど。そーゆー様式美と思うと、迫力あるしアタシ好きだわ♪
 対決シーンは、音読してみると面白いです☆

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 アタシ的には、『バイバイ、エンジェル』は、連作第2作の『サマー・アポカリプス ロシュフォール家殺人事件』と、立て続けに読むと、すっごく面白いだろう、と思います。

 でも、単独作としての読み応えも、もちろん充分♪
 お勧めの1冊です☆

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【参照メモ】
スペインの独裁政権=スペインでは、1936年~1939年の間内戦が戦われた。その後、第2次世界大戦期(1939年~1945年)を経て、1975年まで、独裁政権が続いた。
ちなみに、ナチによるパリ占領、ヴィシー政権成立は1940年~。ヴィシー政権倒壊、フランス解放、パリ解放は1944年。

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書誌情報:
笠井 潔,『バイバイ、エンジェル ラルース家殺人事件』(創元推理文庫),東京創元社,Tokyo,1995.
4-488-41501-6

笠井 潔,『バイバイ、エンジェル ラルース家殺人事件』,角川書店,Tokyo,1979.
4-04-872252-2

笠井 潔,『バイバイ、エンジェル ラルース家殺人事件』(角川文庫),角川書店,Tokyo,1984.
4-04-156301-1

笠井 潔,『天使/黙示/薔薇 笠井潔探偵小説集』,作品社,Tokyo,1990
4-87893-158-2
矢吹駆連作の『バイバイ、エンジェル』、『サマー・アポカリプス』、『薔薇の女』の合本単行本)

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