笠井 潔、著、『薔薇の女』、悪霊と天使の交叉

 『薔薇の女』は、笠井潔さん作の推理小説で、矢吹駆連作の第3作め。

 『サマー・アポカリプス』で語られた“ロシュフォール家殺人事件”が決着してから半年ほど過ぎた年末。

 若い美女が殺害され、切断された体の一部が持ち去られた全裸屍体の遺棄が連続するパリ。血なまぐさい猟奇殺人事件の連続に市民は怯え、メディアは騒然としていた。第2の被害者が発見された後、“数多くの難事件を解決した名警察官として”名を知られていたモガール警視が、担当責任者に任命されたが。
 その頃、謎の日本人矢吹駆は、ナディア・モガールにも窺い知れぬ目的で、人知れず活発に動いているようだった。

 このレヴュー記事は、『薔薇の女』未読の人を想定した紹介文です。
 作品について、不必要なネタバレは極力避けます。

Cover image
(『薔薇の女』、創元推理文庫版書影)

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 犯行現場に遺される血文字の署名から<アンドロギュヌス>と呼ばれる猟奇犯は、11月24日火曜日の深夜に発見された若い美女の全裸屍体から、切断した頭部を持ち去っていた。

 海の泡から生まれたアフロディットのように、床の血の海に浮いた若い女の屍体だったが、完璧な彫像めいて美しい全裸体には、ミロのヴィーナスのように両腕ではなく、あるべき場所に首がなかったのだ。

 第2の犯行は、12月1日火曜日に犯されたと思われ、やはり自室から発見された女性の全裸屍体からは切断された両腕が持ち去られていた。
 第3の犯行は、1週間後の火曜日、またも自室から発見された全裸屍体からは両脚が持ち去られていた。

 新聞などがセンセーションを煽り、<アンドロギュヌス>は、屍体から持ち去った部位から人肉人形を作ろうとしている、と断定的に論じる内、4度めの火曜日、殺人事件は起きなかった。

 しかし、この火曜日<アンドロギュヌス>はとうとう現れなかった。翌朝の新聞に派手派手しく書き立てられていたのは、第四の切断屍体の記事ではなく、前夜起こったシャルル・ドゴール空港でのハイジャック事件の記事だった。
〔中略〕
 切断魔は、これで人々の前から永遠に立ち去ったと考えてよいのだろうか。そうではなく、彼の禍々しい事業は一時中断されただけなのだろうか。人々は不安のなかで執拗にこう自問した。しかし、その回答は、少しの忍耐で誰でも手に入れることができるはずのものだった。黙って次の火曜日、十二月二十二日を待てばいいのだ……。

 上の引用は、第一章「戦慄の血文字」から。

 『薔薇の女』は、大都市で連続する猟奇殺人事件を題材に、サイコ・サスペンスの要素も加味した謎解き推理小説。
 残念ながら、サイコ・サスペンスの要素は薄味だけど。

 創元文庫版で345頁の本文が、第一章~第四章と、序章、終章の6パートに構成されてる作品。

 序章で、最初の被害者の屍体が発見されるまでの様子が描かれ、第一章では、先に引用したパートを含む冒頭に続いて、第四の犯行に備えた非常警戒態勢を統括するモガール警視と相棒のバルベス警部の様子が描かれます。
 そして、第四の屍体は、23日の早朝5時に発見される。

 語り手キャラのナディア・モガールは、翌朝の新聞を読んで父親を気遣う。

〔前略〕むざむざと第四の犠牲者を出してしまった捜査当局の無能を告発し、その責任を手厳しく追及する声が新聞の至るところに溢れていた。またそれら、ほとんど怒号に近いほどの糾弾の矢面に立たされているのが、捜査当局の責任者である警視庁のルネ・モガール警視--つまりわたしのパパだった。
 困ったことだ。わたしにはあまりに感情的な新聞の論調に反感を覚え、パパの窮状に心から同情したけれども、残念なことに自分に何ひとつできないのはあまりにも明白だった。わたしだけではない。冬のラルース家事件、夏のロシュフォール家事件と、この一年のあいだに二回も驚嘆すべき推理の冴えで謎めいた難事件の真相を完璧に解き明かしてしまったあの奇妙な日本人--矢吹駆でさえ、もしその気になったとしても、今度ばかりはどうすることもできないはずだった。以前のように、事件が比較的狭い人間関係のなかで起こり、したがって犯人でありうる人間もごく少数に限定されているような場合ならばともかく、今回の連続切断魔事件は、いわば誰でもが犯人でありうる種類の社会的犯罪、通り魔型の犯行なのだ。犯人は狭く限られた数人の容疑者のなかにいるというわけではなく、都会に渦巻く膨大な群衆の波間深く身を沈めてしまっている。こうした種類の犯罪を解決しうるのは、多数の捜査員を動因することができ、公的な捜査権を保障されている完備された警察機構のみなのであり、推理能力しか武器を持たない素人探偵が割り込むような余地なでまるでありはしないはずだった。〔後略〕

 その頃、矢吹駆は、というと。ロシュフォール家殺人事件が決着し、南仏からパリに戻ってきた8月から、“何か人知れぬ目的を持って積極的な活動を始めた”ようにナディアには思えた。
 以前の駆には決してなかったことで。駆が屋根裏部屋を定宿にしている安ホテルの管理人の老婆も、急に不在がちになった駆に困惑気味。ナディアにまで、駆は“最近は、まるで勤め人のように、朝早くから夜遅くまで毎日出歩いているらしい”と語る。

〔前略〕この都会でわたし以外にはただの一人の友人さえ持とうとはせず、日に一度チェイルリー公園のあたりまで散歩に出て、その帰りに中世の修道僧的に貧しげな一日一回きりの食事の材料を買って戻る以外、他に何ひとつしないで、ただひたすら石の棺おけめいた陰気な屋根裏部屋に閉じ籠もっているのが、それまでわたしが知っていた矢吹駆という青年の普通の生活だった〔後略〕。

 実は、駆は、『サマー・アポカリプス』で、駆狙撃を仕組んだであろう<悪霊イリイチ>の手がかりを求め、パリの裏社会に探りを入れていたことが、やがてナディアにもわかります。
 ラルース家殺人事件の黒幕でもあったはずのイリイチ探索の助力を、バルベス警部にも頼んでみようか、と言うナディアの提案を、そっけなく退ける駆。

「判ったわ。あなた、ニコライ・イリイチのことを警察に知られたくないんでしょう。……でもいけないわ、そんなこと」
〔中略〕
 そもそも人間が決めた法律を尊重するような青年ではなかったから、本気でニコライ・イリイチを私刑で殺す決意なのかもしれなかった。こんな可能性がふと頭に浮かんだため、わたしは怯えた声でもう一度低く叫んでしまった。
「駄目よ、絶対に。あなた人殺しなんかしては絶対にいけないわ。
 しかし、横を歩く青年は無愛想に肩を竦めただけで無言だった。わたしはあらためて決意した。それまでは気紛れか、あるいはカケルと行動を共にしたいという願いからニコライ・イリイチの探索に協力するつもりだったのだが、これからは義務としてカケルの行動を見守らなければならない、と。どんな理由があっても、もしこの青年が罪を犯そうとするのなら、全力でそれをとめなければならない。

 そして、駆とナディアのイリイチ探査は、<アンドロギュヌス>事件の捜査に不思議な絡み方をしていく。
 果たして、<アンドロギュヌス>は、15年前、ブルターニュ半島の港街ブレストを脅かした、素性も知れない連続殺人魔の再来なのか??

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 『薔薇の女』は、矢吹駆連作、本編の内では短い方で、良くも悪くも軽めの作品です。
(例えば、頁数も、構成パートの数も、連作の内では少なめ)

 『バイバイ、エンジェル』で本格な謎解き推理が描かれ、『サマー・アポカリプス』では伝奇ミステリーが、謎解きとハイブリッドされてきた連作ですけど。第3作での都市型の連続猟奇事件と本格推理との融合には、ちょっと無理があった感じでしょうか(?)。

 単独作としても、充分楽しめる作品ですけど。
 サイコ・サスペンスの要素は、例えばトマス・ハリスD.L.リンジーの諸作に比べると薄味なのが残念。
 あるいは、匿名の猟奇犯罪に怯える都市群衆の不安感の描写を盛り込んでもらってもよかったかもしれません。けど、こちらは矢吹駆の異邦人性との兼ね合いが大変そうですね。

 『薔薇の女』の読みどころとして、アタシ(紹介者)は、まず、モガール警視、バルベス警部らの手堅い捜査を挙げたい。そして、<アンドロギュヌス>事件捜査に、まったく別の思惑から協力する矢吹駆の言動が絡んで織り成す物語の綾は、面白いです。
 元々、モガール警視って推理力も優れたキャラですけど。ことに『薔薇の女』では、凄く鋭い推理を随所で見せてます。
 後、物語に編みこまれた、現代フランスの社会史的な“地層”の描写も、読みがいがあります。

 それから、ズンズン駆にのめりこんでくナディアの恋心も読みどころですけど。こちらはむしろ、連作の1編としての面白みかもしれません。
 連作は、次の作品『哲学者の密室』では、多分、物語の長いフェーズがいったん収束すると思えるので。中継ぎ的に読むには軽めの物語もいいと思います。

 後、注意点が少し。
 『サマー・アポカリプス』ほどではないのですが。
 作中に、『バイバイ、エンジェル』、『サマー・アポカリプス』の内容の核心的な部分についての言及もあります。
 初読の際は、『バイバイ、エンジェル』、『サマー・アポカリプス』、と順番に読んでくるのがいいだろう、と思えます。

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書誌情報:
笠井 潔,『薔薇の女 ベランジュ家殺人事件』(創元推理文庫),東京創元社,Tokyo,1996.
4-488-41503-2

笠井 潔,『薔薇の女 <アンドロギュヌス>殺人事件』,角川書店,Tokyo,1983.
4-04-872357-X

笠井 潔,『薔薇の女 <アンドロギュヌス>殺人事件』(角川文庫),角川書店,Tokyo,1987.
4-04-156303-8

笠井 潔,『天使/黙示/薔薇 笠井潔探偵小説集』,作品社,Tokyo,1990
4-87893-158-2
矢吹駆連作の『バイバイ、エンジェル』、『サマー・アポカリプス』、『薔薇の女』の合本単行本)

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