『機動戦士ガンダム00』のSFネタ解説その25:ダブルオーライザー

 機動戦士ガンダム00に出てくるギミックや台詞を元に妄想をたくましくしていくSFネタ解説シリーズの25回目。

 『宇宙(そら)でまってる』でのダブルオーライザーによる“量子化”の演出をみて、ひっくり返った人は多かろう。

 敵の攻撃に貫かれた“後”で、機体を量子化して別の場所に瞬間的に移動。
 トランザム限定とはいえ、ロボット兵器としてはすぎた性能である。

 今回はこのダブルオーライザーをネタに、あることないことを語っていきたい。
 いつものように真面目七分に法螺三分、大嘘ついても小嘘はつくなの三割精神でいく。最後までおつきあいいただければ、幸いである。

 初期の人型巨大ロボットの代表である、マジンガーZ
 このマジンガーZの最大の強みは、超合金Zによる桁外れの防御力であった。マジンガーZが決定的な敗北を被ったのがその超合金Zの防御力を奪う敵との戦いであり、そしてそこで登場したのが、超合金ニューZというさらなる防御力を備えたグレートマジンガーであったことも見逃せない。

 いかなる攻撃も防ぐ、堅牢なる鉄(くろがね)の城。マジンガーZが後のロボット兵器たちと比べてサイズ的にはさほど大きくはないのに、今なおスパロボなどで堅牢さを売りにしているのは、この超合金ZおよびニューZの防御力とその演出にある。

 しかし、どのような演出にもはやりすたりはある。超合金Zという演出が通用したのは、やはりそれが昭和の時代であり、鉄鋼産業が日本を支える巨大なビジネスであったからという側面は、むろんある。昭和30年代ころの、エコとか地球に優しいという言葉など誰も使わなかった時代には、小学生の作文で「ぼくの町の誇りは、工場です。工場の煙突からはもくもく、黒い煙が毎日でます」というのが違和感なく使われていたのだ。

 しかし、光化学スモッグなど公害による被害が広く知られるようになると、もはや工場の煙突はそれほど素晴らしいものではなく、超合金という言葉も魔力を失う。自慢の装甲で何でも跳ね返すスーパーロボットの時代は、超合金の言葉と共に失われたのである。
 その過渡期にあたる、企画的にはスーパーロボットとして誕生した最初の機動戦士ガンダムでも、オデッサの戦いの頃までは、ガンダムの強さ演出はザクの主武装であるザクマシンガンを跳ね返すその防御力の高さであった。
 これが再び宇宙に上がった後になると、アムロがニュータイプとして覚醒したため、ガンダムの強さ演出は、敵の攻撃をことごとく避けることで示される。

 スーパーロボットは、敵の攻撃を受けてなお平然とする強さで。
 リアルロボット(量産兵器としてのロボット)は、敵の攻撃を回避してのける強さで。

 それぞれ、キャラとしての特徴を出しているという分類は、おおざっぱな意味では正しい。
 これは、ロボットが敵の攻撃を受けて平然としていることへの理論武装が難しくなったせいもある。攻撃が通用しないロボットが工場で量産できるならば敵も味方もそうすればいい、ということになってしまうからだ。

 そして、ロボット兵器のための新たな防御力として脚光を浴びるようになったのが、バリア、フィールド、シールド、とにかくまあ、そういう不可視の障壁である。エヴァンゲリオンATフィールドはつとに有名だが、1940年代のスペースオペラ『レンズマン』の時代から、エネルギーによる不可視の障壁はSFでは定番ガジェットのひとつである。

 とにかく攻撃が防がれてしまうわけだから、ロボットのデザインは華奢でもかまわない。バリアーの演出さえあれば、エヴァンゲリオンや使徒、あるいは高町なのはといった細っこいロボットであっても、強力な攻撃を防ぐことができるのである。宇宙世紀ガンダムではIフィールドがこれに相当する。

 その後のガンダムにおいて、すべてが避ける、あるいはIフィールドのような不可視障壁を用いるようになったわけではない。ガンダムWで登場するウィングガンダムたちは、きわめて堅牢な構造になっていて、序盤では敵の攻撃のほとんどを受けた上で耐えていた。

 00ガンダムにおいても、GN装甲のようにGNドライブを用いた防御力と、GNフィールドというこれまたGNドライブを用いた不可視障壁を組み合わせている。しかし、敵も疑似GNドライブを用いるようになり、そこにイノベイターらヴェーダとリンクして高い技術を誇る連中が加わると、従来のGN装甲やGNフィールドは神通力を失ってきた。
 ティエリアのメタボガンダムことヴァーチェ/セラヴィーは特に防御力を重視した設計になっていたが、それでも2ndシーズンになってからは、敵の猛攻に苦戦をしている。

 そこへ新たに登場したのが、ダブルオーライザーの、“量子化”である。

 SF的には、機体をシュレディンガーの猫的に曖昧な状態にしてしまい、「攻撃を受けた場所」にいた存在を非実在にして、「攻撃を受けなかった場所」に移し替えてしまうというものだ。
 ゲーム的には、敵の攻撃判定で命中が決まった後でそれをキャンセルする、無効化の能力だと思えばよろしい。
 ロボットの技というよりは、忍者の技である。変わり身とか分身の術のバリエーションだ。

 “量子化”あるいは“平行宇宙転移”はたまた“時間軸移動”などは、無効化の理論武装としてしばしば使われる。
 “量子化”はその中では、制約が多い方だ。なんといっても、あくまで存在した場所をずらす、というだけであり。どこかには存在する。完全に姿を消すというわけではないのだ。範囲攻撃には弱い。
 “平行宇宙転移”は、もう少し応用がきく。たとえば、“平行宇宙”にいる自分を召還して黒の剣(エルリック)よろしく次元同窓会を開き、無数の自分で敵をタコ殴りにするという攻撃技としても使用可能だ。
 “時間軸移動”は使い方しだいで最強の技となる。攻撃を無効化するどころか、過去改変によって、敵の存在を抹消したり、そこまではいかないにしても敵の移動先という未来情報を読み取ってそこへ攻撃を仕掛け、回避不能な一撃を与えることもできるからだ。同じ時間軸に複数の機体を存在させることで、“平行宇宙転移”の次元同窓会同様に、過去や未来の自分たちによる一斉攻撃も可能だ。

 ダブルオーライザーは、一応はこの中の“量子化”を実現しているようだが、“時間軸移動”の可能性もあり、さらなるパワーアップも考えられる。
 うまくやれば、ガンダム史上ではナノマシンによる月光蝶を操るターンAに匹敵する、無敵(インチキ)ガンダムの栄冠に輝けるやも知れない。ダブルオーライザーにはそれほどの可能性が秘められているのだ。

 しかし、SF的に見ると、コトは、強い弱いの次元の問題ではない可能性もある。それは、ダブルオーライザーが発動した時にみせた、人と人との心の触れあい(別名、裸祭り)である。かつてのアムロとララァが戦いの中でみせたニュータイプの発動のように、ダブルオーライザーの真の能力とは、エヴァンゲリオンの人類補完計画のような人の精神を統合させることかもしれないのだ。

 人間の精神が融合し、ひとつの存在になってしまえば、確かに戦争は根絶される。が、同時に戦争どころか、人類文明そのものが消滅、あるいは営々と築き上げた蓄積が無意味になってしまう。ソレスタルビーイングが目指すべき未来が『生物都市』(諸星大二郎)とか『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)のような人類の新たなステージというのは、ちょっと首肯しかねる。

 しかし、完全な精神統合が目的ではなくて手段であったならば、どうだろう?
 00ガンダムの世界を滅びへと誘う“歪み”の正体が、これまでもココで考察してきたエッドール人(『レンズマン』E.E.スミス)とかアスタータ50の惑星開発委員会(『百億の昼と千億の夜光瀬龍)、あるいは神(『神狩り山田正紀)であれば、いかに量子化ができたところで、ガンダムで戦える存在ではない。

 それゆえにイオリアはツインドライブのトランザムにより人類のすべての精神を統合させ、生まれた超知性体の精神力を利用して、“歪み”を倒そうとしたとも考えられる。『ヴァレロンのスカイラーク』(E.E.スミス)でシートンたちが、それまで敵であったデュケーヌ博士らと精神統合して戦ったように。

 もしそうなら、リボンズが語った世界を連邦によって統一し、アロウズによって意志を束ね、自分たちが世界をリードするというイノベイターの計画は、本来はこのツインドライブ+トランザムによる人類統合がうまくいかなかった時のための予備の計画であったことになる。
 計画の遂行こそが存在理由であるリボンズにとってダブルオーの存在があれほどにショックだったのは、量子化という戦闘能力ではなく、その先にある人類精神の統合が、自らを無用の存在にしてしまうという恐怖からではないか。

 ならばガンダム00の最終回は、正体を見せた“歪み”対ツインドライブ+トランザムで地球圏を包み込んだGN粒子の中で誕生した人類統合超知性の、人智を超えたコズミックホラー決戦(しかも全人類裸祭り)だろうか。
 これまた、田中ロミオさんの『最果てのイマ』(※18禁)を彷彿とさせる、わくわくの超展開である。

 いずれにせよ、ダブルオーライザーと、ツインドライブ+トランザムの真の力はこんなものではない。そして、その力は、アロウズやイノベイターではなく、その裏に潜む“歪み”と戦うための力なのだ……ということに、今回はしておこう。

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裸祭りはある意味ホラー

裸祭り現象はシリアスなシーンなのでキャラクター達に失礼だとは思うのですが、彼らが真剣であればあるほど視聴者には素っ裸に見えていることを意にも介していない(当然ですが)様子に何度見ても慣れず笑い出してしまいます。

庄司卓さんはブログでもしあの場にジニン大尉がいたらと(((;゚д゚)))ガクガクブルブルしておられ、私も裸の描写が、あくまで遮るものなく他者とコミュニケート出来るという含みを持っていて、その事を視聴者に伝えるだけの比喩表現であるのを願いたいところです。(あれが当事者同士素っ裸の状態を認識されそれが人類レベルに拡大するのはホラーだと思うのです)

11-12話を見て私が思い出したのはクラーク&バクスターの『過ぎ去りし日々の光』で、この作品には安価で携帯できるワームホール発生装置ワームカムがでてきます。原理的に妨害や干渉を受けずあらゆる場所、そして時間(過去限定)をリアルタイムに覗き見れるこの発明で作中ではプライバシーや歴史が赤裸々に暴かれてゆき、さらにはワームカムを脳に埋め込んで感覚や感情さえも共有していく人類が描かれていましたが、個々のアイデンテティの消失には至らず、お互いが完璧な存在ではない事を認識することで人類が変わり得たというストーリーでした。

クラークらしい楽観で『幼年期への終わり』へのアンチテーゼも含まれているように思われるのですが、この『過ぎ去りし~』のようにやや表層的な感覚・精神の共有のみをダブルオーライザーが引き起こし、人類が新しいステップを踏み出していくというのも、ご都合主義ではありますが個人的に見てみたい気がします。

書いてるうちに明けてしました。明けましておめでとうございます。m(_ _)m

心がつながった裸祭りでも、後ろは見えない(意味:人間はブルー族にはなれない)

comingsさんへ

 ツインドライブ+トランザムの裸祭りにおいて、私が感動したのは、裸よりも、やはり、後ろが見えない(っぽい)演出でした。
 心がつながろうが、互いを感じることができるようになろうが、人には自分の後ろが見えないのです。
 進化の段階を次のステップに進もうが、神のごとき力を手にしようが、人はあくまで人でしかない。人にしかなれない。後ろを見ようとすれば、振り返るしかない。人間はブルー族にはなれないのです。

 それが証拠に、心をつないだはずの裸祭りで、ルイスはサジについて決定的な誤解をしてしまいます。
 ふたりがやるべきは、使い慣れていない心をつなぐ技術ではなく、ちゃんと会って、きちんと話をすることでしょう。
 人は、まず何より人がずっと使い続け、磨き続けてきた、言葉という技術を使うべきなのです。ニュータイプも、裸祭りも、そりゃあったらあったで便利でしょうが、我々が何千年、何万年と使い続けた言語と文字という技術の価値は、決してそれらに劣るものではないはずです。

 ぶるまほげろーさんが『私立ガンダム学園』のクライマックスで描いた、ウッソがシャクティ(宇宙世紀三大悪女候補のひとり)を説得する時にニュータイプの力ではなく、言葉の力を使ったように。
 サジもまた、ルイスに向かって、語るべきでしょう。

 「好きだ」と。「愛している」と。「また会えて、うれしい」と。

 陳腐であろうが、言葉にはまだまだ無限の力が秘められていると、そういう風に私は裸祭りのエピソードを解釈しているのです。

 そういうわけで、改めまして。

 あけましておめでとうございます。本年もよろしく。

 comingsさんだけでなく、これを読むすべての人にとって、この一年が辛くも苦しくもあっても、それなりに充実した、良い一年でありますように。


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