石田衣良、作、『伝説の星』(『反自殺クラブ』池袋ウエストゲートパークV所収)

 『伝説の星』は、石田衣良さんによる「池袋ウエストゲートパーク」(I.W.G.P.)シリーズ、本編の1作。本編5冊目の作品集『反自殺クラブ』に収められた4作の内、2番めに採録されてる。

 “ヒートアイランドの街に冬はなくなった”と、言われた“コートもいらない陽気”の池袋の正月。
 西一番街の果物屋に、デカい50年代のアメ車を乗りつけてきたのは、主人公のマコト(真島誠)がまだ生まれる前に“空をかけたヒーロー”。一曲だけミリオン・ヒットを飛ばした元ミュージシャンだった。

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 おれがこの冬池袋の街で会ったのは、おれが生まれるまえに空をかけたヒーローだった。二十五年たってとうに灰になっていたかと思ったら、やつは池袋大橋のわきの空き地でいきなりあたりの水分をすべて蒸気に代えるような熱と光を放ったのだ。しぶといよな、あの世代のオヤジって。
 おれがやつから学んだのは、いくつになっても無理してカッコをつけなきゃいけないってこと。〔後略〕

 『伝説の星』は、軽く流して読む分には楽しいお話。
 ストーリーはシンプル。
 だけど、I.W.G.P.の一篇としては喰い足り無い。
 シリーズを読んで来てない人が単独作として読んだら、「物足りない」までいく人もきっといると思う。

 例えば、先に引用した冒頭部分で、語り手のマコトが“いきなりあたりの水分をすべて蒸気に代えるような熱と光を放ったのだ”って回想してる場面。池袋大橋わきの空き地でのギグの場面だけど、あまりうまくいってない。

〔前略〕挨拶もなにもなく、ドラマーがスティックを打ちあわせてカウントを四つ刻み、いきなり『涙のインターチェンジ』のイントロが始まった。おふくろがおれの耳元で叫んでいる。
「タカさーん」
 おれはうんざりして、周囲を見まわした。誰でもが知っているヒット曲には、特別な力があるものだ。静かだった客がうねるように動きだし、三百人近いガキがまえかがみになっていく。すぐに手拍子が始まった。
 神宮寺はざらりと耳に残る声でうたい始めた。もう何千回となくうたっている歌なのだろう。だいぶゆとりがある。だが、一生に一曲できるかどうかという音楽なのは十分に伝わってくる。なんというか、すべてがきちんとはまっているのだ。〔後略〕

 例えば、『骨音』で、描かれたライブのシーンと比べると、全然迫力が無い。
 “特別な力がある”ヒット曲なのに、マコトの方にもゆとりがあって、音楽を聴きながら周囲を見回すような余裕がある。
 それは、構わないかもしれない。
 だって、ここで歌われるのは“誰でもが知っているヒット曲”で、マコトも何度も聞いたことのあるナンバーだから。

 でも、このギグのクライマックスにあたるシーン、元ミュージシャンの神宮寺貴信が、「久々の新曲」をうたうシーンは、納得いかない。

 なにもかも捨てて、おれはいくよ。空と海の境のないところに、おれはいくよ。液晶画面のないところに、おれはいくよ。子どもは子どもで、男は男で、女は女である場所に、おれはいくよ。
 六O年代フォークのようなレゲエバラードを神宮寺は全力でうたっていた。それはきく者に自分自身の未来を考えさせずにおかない歌だった。おれは横をむいて、タカシを見た。この池袋のギャングの王様の未来になにがあるんだろうか。果物屋の店番兼無名ライターのおれには、どんな将来が待っているんだろう。目があうとタカシはゆっくりとおれにうなずき返した。
 どちらにしても、神宮寺のようにまえに進む意思がある限り、そいつは決して悪くはならないだろう。そう思わせてくれる歌だった。〔後略〕

 『西口ミッドサマー狂乱』のレイヴの描写と比べると、「久々の新曲」の場面は、描写にもなっていないただの説明だ。
 この断章“おれは百万枚を売ったという『涙のインターチェンジ』よりも、新曲の方が断然気にいった”って締めくくられるんだけど。読者的には納得いかない。マコトが音楽に惹き込まれてる描写が見当たらないからだ。
 読めるのは、マコトの意識上で整理された説明で、描写ではない。

 「久々の新曲」の場面のちょっと前には、『涙のインターチェンジ』を聴きながら、マコトのおふくろさんが涙ぐんでるとこがあって。涙ぐみながらステージに手を振ってるおふくろさんのを見て、マコトは“おれが生まれるまえにおやじとおふくろは、この曲でどんな思い出をつくったのだろうか”とか思う。このカットとかは、誰でもが知っているヒット曲の“特別な力”の描写として納得がいく。
 それと比べても、マコトがなんで、神宮寺の「久々の新曲」の方を“断然気に入った”のかが、納得いかない。

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 『伝説の星』では、神宮寺の新曲の歌詞「なにもかも捨てて、おれはいくよ」は、実は、物語内容のキー・フレーズにもなってて。
 巻き込まれたトラブルから、マコトによって救われる神宮寺は、最後にマコトと別れるとき「元気でな、マコト。おれたちは案外似てるのかもしれないな。おれには無理だったが、おまえはうんと遠くまでいってくれ」と言い残す。
 さらに、物語のラスト近くでも、神宮寺からマコトに送られてきた葉書には“おれには『涙のインターチェンジ』で精いっぱいだったんだろう。おまえは、おれよりもっと遠くまでいってくれ”と書かれてる。

 もし、神宮寺貴信のギグのシーン、ことに「久々の新曲」の場面が、『骨音』のライブや、『西口ミッドサマー狂乱』のレイブに劣らないような描写で描かれていたら。『伝説の星』は、もっともっと、味わいのある1篇になってただろう、と思える。

 もう1つ書くと、冒頭でのマコトの語り“おれがやつから学んだのは、いくつになっても無理してカッコをつけなきゃいけないってこと”も、アタシ(紹介者)は、今イチぴんと来ませんでした。
 こっちの件については、神宮寺のやせ我慢とか、まったく描写が無いわけでもないんだけど。どっちかって言うと、ヘラヘラしてる印象の方が前面に押し出されてて。
 やっぱり、この関連についても、ギグ場面が、シリーズの他の作品並みの描写で描かれていれば、もっと効果的にメリハリが利いてきたんじゃぁないかしら? と思ってます。

 はじめに書いたように、『伝説の星』のストーリーはシンプルで、楽に楽しめる。
 ストリート雑誌のライター兼、池袋のトラブル・シューターをやってるマコトは、最初、簡単な依頼を神宮寺から受け、ストリート・ギャングのGボーイズを紹介。
 その後、神宮寺が以前から巻き込まれてたトラブルを解決してく。
 後味も悪いとも思わない。ちょっと気が抜けた炭酸飲料みたいだけど、それはそれで、味わいかもしれない。
 もともとチープな味わいも、I.W.G.P.の持ち味の要素だった気がするから。

 ただ、ここまでの連作で読みどころだった、マコトの鋭敏な感覚の感覚描写が見当たらないのは、ファンとして残念としか言いようがない。
 もしかしたら、シリーズで、少し前の作品から、チラホラ兆しは見えてたマコトのオヤジ化みたいな変化が、いよいよ本格化しだすみたいな、そんな一篇にあたるのかもしれない。

 上に書いた「マコトのオヤジ化疑惑」については、もう少しストーリーの結構をネタバレさせないと、ちゃんとした検討ができない。だから、ここでは、「もしかしたら」つきの疑問形コメントに留めておきます。

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 この作品は、文庫版で57頁ほど。雑誌「オール讀物」の2004年2月号に掲載された。

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書誌情報:
石田 衣良,『反自殺クラブ』(池袋ウエストゲートパーク5),文芸春秋,Tokyo,2005.
ISBN 4-16-323770-4

石田 衣良,『反自殺クラブ 池袋ウエストゲートパークV』(文春文庫),文芸春秋,Tokyo,2007.
ISBN 978-4-16-717412-5

備考:
物語内の今=物語で語られる主要な出来事は、ある年の正月。“ヒートアイランドの街に冬はなくなった”と、言われた“コートもいらない陽気”の頃。
作中で、マコトがはじめてタカシに電話をかけた時「新年明けましておめでとうございます」と言ってるので。出だしは、少なくとも上旬と思える(2日かもしれないが定かではない)。
池袋大橋わきの空き地でのギグの場面は、タカシに電話をかけた日からみて「次の土曜日」。
トラブルは、次の月曜日までには大方解決される。主要な出来事は、長くても1週間前後の間に起きたのだろう。
ちょっとしたサプライズが、トラブルが一応解決された次の週にマコトが知る事柄として語られ、さらに2週間後と、2月にはいって最初の土曜日にも、エピローグ的な出来事も語られる。
連作間の前後関係を、直接特定する手がかりは作中には見当たらない。中篇『スカウトマンズ・ブルース』で語られた出来事の翌年正月(2004年)の出来事、と思っておくのが素直な読み方だろう。
特記事項=神宮寺貴信が『涙の涙のインターチェンジ』でヒットを飛ばしたのは、「物語内の今」から25年前。その年、マコトはまだ生まれていなかった。
語り手の今=語り手の今は、エピローグ相当パートで語られた出来事が起きた時点よりは後。
冒頭の断章での語りは、メインの物語で語られた出来事が終わった後。つまりある年の2月最初の土曜日よりも後だけど。どれくらい後の語りかは定かでない。
ただ、まだ冬と呼べる季節の間ではあるようだ。

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