作品の構成、と、テクストの構造(保守反動的テクスト論)改訂版

 譬えて言うなら、広い意味での文芸で、一般に「作品の構成」は、「宙空に吊るされたモビール細工のような在り方である」と言ってもいい。

 「作品の構成」は、作品を構成するパーツ間のバランスに応じて、綺麗に回ったり、揺らいだりする。まったく動かなければ、それは「モビール細工」とは呼べない。

 譬えに喩えを重ねるなら、「テクストの構造」の方は、「モビール細工のような作品の構成の動態(動き)」のようなもの、と言うこともできる。ただ、「なぜ動くのか?」が気になるけれど。

 文芸作品を典型に考えるが、一般にも「テクストの構造」とは「作品の構成(あるいは文章の構成)」をベースに含んで、より、広いレイヤーとも関わる動態構造だ。

----
 この文章「作品の構成、と、テクストの構造」は、筆者(鍼原神無)が考えている、「保守反動的テクスト論」の基本的立場表明と、現時点での基本テーゼ集とに至る、論考文です。
 筆者の今年の目標に、「しっかりした批評文を書く」があるため、基礎的な整理を試みたものです。

 2009-01-12 10:49に、初稿を公開しましたが、その後、irc.cre.jp#もの書き予備のチャンネルにて、多数の方にご意見をいただき、大規模な改訂を加えました。
 ご意見をくだすったみなさんに、感謝申し上げます。

====
【作品の構成】
 「作品の構成」と言って、「電池を直列に、直線状に並べるようなモデル」でイメージする場合もある。けれど、このモデル化されたイメージは、極、ベーシックな議論でだけ有効な概念ツールだ。このモデルだけで、あらゆる作品を理解しようとすると、読む主体読者)の読解行為が限定されすぎる弊害も生じる。

 「電池を直列に、直線状に並べるようなモデルでの作品構成」は、「人は文字列(文章)をリニアに読む」との、前提を重視した素朴なモデル。イメージ的な比喩として、「作品を構成する下位パーツ」が「電池(のような)ユニット」にイメージされる。

 しかし、読む主体の読解は、必ずしも、そのようなシンプルなモデルで作品構成を把握しているだけではない。たとえ、文字列がリニアであっても、作品の表現が巧妙である場合、読む主体の意識上では、構成はシンプルなリニア状に把握されるとは限らない。

 例えば、小説作品の類で「伏線」と呼ばれる仕掛けがある。
 「伏線の真相」が描かれたヵ所を読むとき、読む主体は、当該ヵ所の文字列を読みながらも、その意識の上では「伏線が仕組まれたヵ所」の記憶も想起する(想起されなければ“伏線”も「伏線」としての機能が作動しない)。

 また、ある1つの「伏線の真相が描かれるヵ所」に対応する「伏線が仕組まれたヵ所」の数は1つとは限らない。

 つまり、小説作品の準物質的形態である文字列はリニアな構成を持っていても、読解行為の際に、読む主体の意識の上で把握される構成は、シンプルな直線状(リニア状)とは限らない。

 読む主体が、「伏線の真相」が描かれたヵ所を読みながら「伏線が仕組まれたヵ所」の記憶を想起している場合、作品文字列上ではリニアに配列されたヵ所の間の距離は、比喩的に言って“縮んでいる”。

 読解行為に応じて、読む主体の意識内で“距離が縮む”のは、「伏線」のケースだけではない。例えば、「反復」のケースもあれば、「連想」のケースでも、“距離が縮む”ことはある。

----
 譬えて言うなら、文芸作品の「作品の構成」は、「宙空に吊るされたモビール細工のような在り方である」と言える。

 極、シンプル化したケースを考えてみよう。
 仮定する作品が構成上、N部構成とする。第1部にはN-A章があり、第2部にはN-B章があり、……第X部にはN-X章、という構成を持っているとする。「N-A」「N-B」……「N-X」などの数値は、一般に不一致だ(一致することもある)。

 次に、各章の下位には節が配置され、節の下位には文が配置され、文の下位には句が配置され、句の下位では語が句を構成している。

 「作品の構成」は、「宙空に吊るされたモビール細工のような在り方」である、と言う場合。各部のパートの下位に章のパートが、モビール細工のサブ・パーツとして吊るされているようにイメージされる。
 章のサブ・パートでは、下位に節のパートがモビール細工のサブ・パーツとして吊るされている、とイメージされ。さらに下位には、……と続く。

 「直列に、直線状に配置した電池」のようなモデルは、この重層的なモビール細工の最下層付近だけを抽出し、読む主体の意識上での動態を無視したようなモデルにすぎない。エントリー用の議論にはいいツールだろう。けれど、巧みな構成と表現を持った作品の分析には、不適当だ。

----
【テクストの構造】
 テクスト論の考え方では、「新たな意味産出性を担う、あるいは新たな意味の産出性が高い文章」が「テクスト」と呼ばれる。大雑把に言えば「読者による多用な解釈を許容する文章がテクスト」だ。
 担う意味が一義である、と社会的に期待される文章は、通例「テクストではない」とされる。

----
 譬えの上に喩えを重ねて言うなら、広い意味の文芸作品において、「テクストの構造」とは、「作品構成のモビール細工の『動態』」のようなもの、と言える。ただ、「なぜ動くのか?」が気になるけれど。

 モビール細工の比喩の場合、「動態」は、読む主体の読解行為に応じて、作品を構成するパート間の距離が、“縮んだり”“広がったり”する様子のイメージ化比喩になる。

 「作品の構成」のバランスが良ければ、モビール細工は綺麗に動き、バランスが良くなければ、よたよたと揺らめくだろう。まったくバランスが無視されていてれば、傾ききった細工は動かない。動かない細工はモビール細工とは呼べない。

 モビール細工に比喩される「作品の構成」のバランスは、下位層では、文の相と文を構成する句や語の表現の“重み”によって担われる。ここで言っている“重み”も「バランス」も、純然たる構成における文字量の配分のことではない。表現される内容の“重み”や「バランス」を言っている。

 しばしば「作品表現の質は細部に宿る」とも言われるが。細部の表現が効果を発揮するのは、重層的な構成の内の細部であるからだ。
 比喩的表現のレベルをイメージ的比喩の相から観念的比喩の相に移していけば、「作品の構成」は、「作品細部の表現が、重層的なバランスを持っている力学的な関係の構成」と、言える。

 「テクストは、読者による多用な解釈を許容する文章」。けれど、どんなテクストでも、あらゆる恣意的解釈を、無限に許容するわけではない。作品が潜在させている動態構造を無視する解釈は、硬直した評価や惰性的な解釈に至るだろう。

----
 テクスト論を踏まえて考えるなら、「テクストの構造」の「構造」とは、「意味を産出する言語記号の構造(意味産出の動態構造)」のことになる。
 広い意味での文芸作品においては、「作品の構成」をベースに含んだ構造態になる。
 「作品の構成」と「テクストの構造」は、イコールではない。「テクストの構造」は「作品の構成」をベースに含んだ、より広い構造態だ。あるいは、作品の意味産出の動態構造が「テクストの構造」だ。

----
【テクストの種々用法】
 ここで、「テクスト」の用法を、簡単に整理していこう。4種類の用法を概観してみる。
 a)日常語におけるテクスト、b)テクスト論におけるテクスト概略、c)テクスト論における基礎概念、d)文化記号論的テクスト、の4種類の用法だ。

a)日常語におけるテクスト
 日常語における「テクスト」は、「テキスト(英米語風の読み)」の「フランス語風の読み」でしかない。日常的な曖昧使用では、「テクスト」と「テキスト」は同じ概念を指す。

b)テクスト論におけるテクスト概略
 1960年代から、主にフランスで構築されたテクスト論を、現在の視点から振り返ると、概略、テクストとは「新たな意味産出性を担う、あるいは新たな意味の産出性が高いテキスト(文章)」と整理し得る。
 テクスト論の内容を検討しないで、「テクスト」の語を用いるなら、この定義で十分だし、この定義以上に拡張した用法で用いない方がいい。

 テクスト論は、種々の達成をなしたが、最も影響力が大きかった貢献の1つは、「作品の解釈とは、作者の真意を正しく理解すること」といった19世紀的な文芸イデオロギーを、理論的に否定したことだろう。
 今日、「作品は読者による多用な解釈を許容する」と、極、普通に言われ、そして、それは正しいのだが。この認識は理論上は、ベーシックな意味でのテクスト論に依拠している。

 「テクストとは新たな意味の産出性が高い文章だ」と言われる場合のポイントは、「あらゆるテキストが、テクストであるわけではない」ことになる。(ただし、テクスト論の発展系では「あらゆるテキストをテクストとしてみようとする」ような探求も試みられてはいる)

 フランスで構築されたテクスト論は、1970年代にはU.S.に、1980年代までには日本に、というふうに、ワールド・ワイドに広まり、共有された。
 が、「テクスト」と「テキスト」の区別が意識されるのは、特に日本語での事情であるはずだ。
 少なくとも、U.S.では、“text”の表記で、「日常的な意味のテキスト」と「理論的な意味でのテクスト」の双方に用いられる。おそらくU.K.でも事情は同じだろう。実は、フランスでも事情は同じで、「テクスト」は“text”と表記される。

c)テクスト論における基礎概念
 テクスト論で言われる「テクスト」は、「リニアな構成(1次元的な構成)に限定されない」と理解される。
 「意味が限定されるテキストは、テクスト構造の内のリニア構成の部分に拘束される度合いが極端に高いケース」とでも考えるといいはずだ。

 しばしば、「テクスト」は、「テクスチュアー(織物)」に比喩され、「統辞法に拘束されるリニアな構成」に対して「連辞法に由来する系」が織り成す編み物だ、と言われる。ただし、この言い方は、「テクスト」の概念を伝えるための比喩的表現にすぎない。
 「統辞法に拘束される文章のリニアな構成」とは、おおまかには「文章の表層」のことで。さしあたりは、「語の辞書的な意味が、文法に従って統辞され、まとまった意味を表すように配列された文字列」と考えるといい。
 「連辞法に由来する系」とは、文章を構成する語の1つ1つに付随する「示差的連想」の系を意味する。文章の表層である統辞論的構成に対し、文章が秘めている意味産出のポテンシャルは、連辞法に由来する系に潜在している、と考えるのが、テクスト論の考え方だ。

示差的連想とは:
 「示差的連想」とは、普通言われる連想「比喩的連想」とは異なる概念だ。
 概略、「比喩的連想」が「◎◎であるような☆☆である」のに対して、「示差的連想」とは「◎◎ではない☆☆」と考えると、概ね間違いではない。
(より細かくは「示差的連想が慣習化され、定形化されたものが比喩的連想の内の周知の類」とも考えられる)
 例えば「コンクリートのような現実」は比喩的連想を伴うとも言える表現で、「現実は理想とは違う」は示差的連想を踏まえたテクスト表層での説明になる。

 比喩的連想は、テクスト表層のレベルでも論じることができなくは無い。19世紀的な規範文法では、比喩的連想も細分分類が追及された。比喩表現の定形化が推し進められたとも言われる。この動向を、比喩がもたらす連想力を統語法による制御下におこうとした試みだった、とみなしても構わないだろう。

 テクスト論の構築とほぼ並行し、テクスト論の基礎論と相互影響しあったポスト構造主義言語論構造主義言語論の発展系)では、比喩的連想の意味産出力も、実は文章の深層に想定される示差的連想の影響下にある、と考えられる。この件は、インター・テクスチュアリティー間テクスト性)の理論と関連して重要ポイントになるが、ここでは追求しない。
 ただ「比喩的連想と示差的連想は、影響関係も考えられるが、性質が異なる」点をポイントとして押さえておく。

 さて。
 「テクスト」は、しばしば、「『統辞法に拘束されるリニアな構成』に対して『連辞法に由来する系』が織り成す織物だ」と、言われる。ただし、この言い方は、「テクスト」の概念を伝えるための比喩的表現にすぎない。
 特に、「テクストの構造はリニアではない」ことを強調するための言い方だ。

 極シンプルなケースとして、「黒い文章」という句で考えてみよう。
 「黒い文章」は、比喩的表現として、例えば「悪意のこもった文章」とも解せるし、あるいは、「句読点や改行が少なくギッシリとした印象の文章」とも解せる。他にも解し方はあるだろう。「どう解すことが最適かは、文脈から判定される」と考えるのが、一般的な考えだ。
 この場合、「文脈」とは、まず、「文章の統辞法や構成のレベル(テクストの表層)」から考えられ、次いで、文章全体の行為的な(パフォーマティヴな)意図を考え、状況依存の文脈で考えられる。
 例えば、同じ表現の句や文でも、小説の一部に用いられている場合と、論説文の一部で使われている場合、あるいは新聞、雑誌などの報道文の一部などで用いられる場合とでは、状況文脈に依存して、言語行為の“意味”は異なる。

 「比喩的連想」がは、狭い範囲の統辞法のレベルで把握しきれない場合でも、言語行為の状況依存的な“文法”(この“文法”は曖昧化された比喩的表現だ、「言語行為の社会的慣習」に近い)から把握されることは少なくない。
 ところで。
 「示差的連想」の系は、広い意味での「比喩的連想」とは、かなり異なる性質の系だ。
 「黒い文章」のケースでは、「黒」は、例えば「白ではない色」であり、「灰色でもない色」だ。
 例えば、示差的連想として「黒」を「青ではない色」などと考えることは、理論上や、特殊な文章構成下ではともかく、一般にはほとんど意味が無い。

 テクスト理論の概説書で、時として、テクストの概念を伝えるための図解として次のような概念図が示されることがある。
 横軸に統辞法のリニア状構成を描き、文章を構成する一語一語に、縦軸として示差的連想の系を描き、全体として「テクストとは織物である」と図解する絵解き(概念図)だ。
 しかし、この概念図も1種の比喩にしかすぎない。テクストの概念を把握するための、エントリー用と言ってもいい。

 テクストの実態においては、テクストの深層構造は、表層で配置された語(言語記号)のそれぞれが、示差的連想を誘発する未生の意味を随伴させている(正確に言えば、言語記号の半身であるところの「意味されること=シニフィエ」を随伴させている)。ある言語記号が潜在的に随伴させている、無数の「未生の意味」は、焦点になる言語記号に、様々な距離で隣接したり、近接したり、あるいは遠くに位置したり、放射状に潜在しつつ散在している。こんなふうにイメージ化した方がいい。この深層構造は、表層の構成とは別に潜在しながら、連動していく。正確には、読む主体の読解行為との相互作用を通じて、潜在様態から顕在化したりしなかったりする。

シニフィエ
 「シニフィエ」は、しばしば「意味されるもの」と訳される意味記号の1側面。本稿の論者は「意味されたこと」とした方がわかりがいい、としている。ただし、「意味されたこと」は、意味記号が顕在化しているときの様態なので、示唆的に意味が潜在している様態では「意味される(かもしれない)こと」と、可能態で考えるといい。つまりは「未生の意味」を潜在させているわけだ。

 例えば「黒(色)」を中心にした場合「白」はほぼ隣接して潜在、「灰色」は近接して潜在している。「青」や「緑」「紫」などは遠い距離に浮いていると思えばいい。特殊なケースを除いては、これら「遠くに浮かんで潜在している未生の意味」は無視しても構わないだろう。
 ところで、「赤」はどうだろう。例えば、フランスの近代小説に慣れ親しんでる人にとっては「黒」と「赤」の連想の強度はかなり強い(スタンダール赤と黒』)。あるいは、ルーレットに慣れ親しんでいる人にとっても近いはずだ。(「黒い文字」ならば、「赤字」との示差的連想を感知する人も多いだろう)
 さらに言えば、「赤」は、日本語では、一般に、連想上「黒」に隣接する「白」の方に隣接する連想強度を持つ。
 総じて「黒」と「赤」の連想距離(距離で比喩される連想強度)は、「青」や「緑」や「紫」よりは近い。そして、読む主体の言語感覚によっては、「白」や「灰色」と同程度に近くもなり得る。

 ここでのもんだいは、ある単語に付随する示差的連想の系は、ベーシックにも「縦軸」と比喩されるようなリニア構造に収まっていないことだ。
 なぜなら、「白」「灰色」「赤」といった諸意味の間には、それぞれに示差的な遠近関係(示差的連想の強弱関係)があるからだ。

 このように、テクストの表層を構成している諸語(諸記号)は、その1つ1つが、示差的連想を誘発する未生の意味を潜在的に無数に随伴させている。その構造様態をイメージ化しようとしたら、諸記号のそれぞれが、放射状に系を付随させている、とイメージした方が「織物」の図解よりは、実態に近い。
 あるいは、個々の言語記号が惑星であり、半実体である未生の意味を衛星や遊星であるかのように周回させている、とイメージしてもいい。
 もちろん、そんな図解を描いても、絵解きとしての機能が劣化するだけなので、誰もそんな図の作製には挑戦しないだけの話だろう。
 ここでの、ポイントは「テクストは織物だ」と言われる説明は、「テクストの構造様態を極シンプル化した、エントリー用の比喩説明にすぎない」と、いうことだ。

 より深い説明は、こうだ。
 「テクストの構造」は、文章の表層(文字列)に対して、「深層」とも呼ばれる。この場合の「深層」は、シンプルに言われる「意味の深層(含意の層)」ではない。「含意も含んで、新たな意味の産出力を潜在させている言語記号の深層」だ。
(保守反動的テクスト論では、「テクストの構造」を、「表層も含んだ構造」と考えたい。この場合「深層」は、「未生の意味を潜在させている層」のことになる。シンプルな「含意の層」にはならない点は、ベーシックなテクスト論本流と同様になる)

 「黒(い色)」と聞いて、例えば「悪意」の類を連想するのは、それを「文化的な伝統」に依拠していると解しても構わないが。それだけでは、19世紀的な文芸イデオロギーと大差ない考えに導かれていく。
 そうではなく、テクストの深層では、「白」や「灰色」「赤」といった、諸意味(未生の意味)との示差的連想関係が、文章の表層で意味を統御しようとする統辞との力学で、「黒」と言う言語記号を巡る新たな意味を産出させる(こともある)。このように考えるのが、テクスト理論の考え方になる。
 つまり、「比喩的連想」の文化的伝統も、より深層では「示差的連想」の影響下にある、あるいは、事実としての過去にも、現在とは異なる力学関係の影響下にあった、と考えられる。

d)文化記号論的テクスト
 日本語で「文化記号論」と総称される分野は、一応、テクスト論の発展系あるいは、応用系と言える分野に属すと言える。
 多くの場合、言語記号のシステム動態をモデルとして参照しつつ、様々な様態の「記号」の示差的関係や、意味産出構造が考えられている。
 「文化記号論」と総称される分野でも、様々なアプローチやレベルが見られるのだが。
 一般に、言語記号以外の記号(図像とか、仕草とか、ファッションとか)を扱う、“テクスト論”は、玉石混交であるのが、21世紀初頭の日本語空間の現状と言える。(おそらく、ワールド・ワイドに言っても同様だ、と考えて構わないだろうが、そちらを断定する資格は、本論の論者にはない)
 例えば、代表的テクスト論者の1人で、社会学者だったロラン・バルトは、1967年に『モードの体系』を著した。この著作は、「ファッション・モードを中心にした、広告コピーや、雑誌記事の言語記号論」に限定された、きっちりした論考で、意味生産的な著作になっている(それ自体がテクストだ)。モードやファッションというフィールドを扱ってはいるが、論じられているのは、それらに関連した言語表現に限定されているからだ。

 実は、日本語で「文化記号論」と総称される分野の「石」にあたる部分では、図像や、写真、ファッションや、仕草などを「文化記号」として、無限定に、言語記号とのアナロジーで処理している例がかなり見られる。
 こうした「文化記号論」の内で、特に「テクスト論」の看板で論じられたり、「テクスト」の語を用いて「景観のテクスト性」などを論じてる類だと、レベルの低い部分では、多く、「比喩的連想」と「示差的連想」の安直な混同が目立つ。
 こんなアプローチでは、「テクスト」の「意味産出構造」は記述も分析もできない。混濁した印象批評か、粉飾した似非理論で論じられるハッタリ理論にしかならない。
 このように甚だしい玉石混交状況があるので、文化記号論的な“テクスト論”は、まず、疑ってかかることをお勧めする。
 バルトの『モードの体系』のように、扱う対象の限定がなされている場合や、言語記号と視覚的記号の性質の違いなどが論考されている場合には、それらの論考は一考の価値がある「論」かもしれない。
 それ以外の類は、信頼性が極めて疑わしいのが現状だろう。

 例えば、レベルの低い俗流テクスト論では、「比喩的連想」について、統辞レベルで把握できる比喩解釈と、行為レベルでないと把握できない状況依存レベルでの比喩的解釈とが、安直に混同されている例すら見られる。
 しかも俗流テクスト論では、示差的連想については、ほとんどの場合、無視されている。意図的に無視されているのか、理解されていないだけなのかは、わからない(とゆーか、“論”に応じていろいろだ)が。ともかく、ほとんどの場合、無視されている。
 おそらく、俗流テクスト論の論者は、「テクスト」とは何か、考えたことがないのに「テクスト」って用語を使って「論」をたてようとしているかに想像される。

----
【保守反動的テクスト論】
 テクスト論も突き詰められると、「作品」という概念すら破棄されることもある。「作品は無い、あるのはテクストだけだ」と考える立場もある。

 アタシも若い頃は、こうした先鋭的な理論に熱中した時期があったけど。今は、ぐっと保守的な考えになってる。
 今のアタシの保守反動的な考えは、さしあたり、こんなふうだ。

保守反動的テクスト論の基本テーゼ集
 広い意味での文芸作品を中心にして、文字記号を用いた表現について考える。

 この場合、「テクスト」とは、作品を読む主体にとっての意味作用(意味の産出作用)を通じて見出される構造態だ(平たく言えば文章の「読解」、「解釈」、「評価」、などを通じて認知される構造態だ)。
 テクスト構造の準物質的な相には、構成された文字列がある。が、テクスト構造の総体は、文字列と読む主体(読者)とのインタラクションによって認知される。
 構造態としてのテクストは、当然、構造態としての言語システムに拘束されるが。その拘束の度合いは様々だ。少なくとも、初期構造主義の言語論で考えられたような、タイトな拘束は、文章の表層ですら、言えたり言えなかったりする程度のことでしかない。

 あらゆるテキスト(文字列)が「テクスト」なわけではない。新たな意味の産出作用が高いテキストが「テクスト」と呼ばれる。むしろ「諸テキストの内に、テクスト性(意味産出性)の高いものと低いものがある」と整理した方が、わかりがいい。
 「あらゆる、テクスト(テクスト性の高いテキスト)が、作品ではない」とは、言えない。
 「作品」でもあるような「テクスト」は社会的に存在するのであって。実は「作品」と「テクスト」は存在するレイヤーも存在様態も異なるはずだ。
 したがって、「ある作品のテクスト」とか「ある作品のテクスト性」といった表現も、許容できる。保守反動的と言われるかもしれないが、構わない。

 通例、「テクスト性の高い作品」では、「作品の構成」レベルの巧妙さが、文字列細部の表現と影響しあって、意味の産出作用を高めている。つまり、読者に応じた多様な解釈も許容する。
 ただし、「テクストは、読者による多用な解釈を許容する文章」と言っても、どんな恣意的な解釈でも、無限に許容されるわけではない。
 作品の構成を無視する解釈は、偏った評価を導き、作品が潜在させている動態構造(テクストの構造)を無視する解釈(つまり、作品表層だけを観ての解釈)は、硬直した評価や惰性的な解釈に至るだろう。
 テクスト論をベースに時として唱えられる「積極的誤読」は、おそらく、テクストの構造(作品が潜在させている動態構造)を、深く広く認知した場合に、成功に至る。動態構造の把握に失敗した積極的誤読は、突飛でキテレツな解釈を導くことだろう。

 作品の構成や、作品の細部、そして読む主体(読者)から完全に遊離して、テクストの構造があるわけではない。

 個別の文芸作家が、作品の作品性を解体するような、「作品ならざる作品」に挑戦している事例もある。
 例えば、先行諸作の“引用”からだけ構成されたコラージュ。
 あるいは、仮想の(創作された)先行諸作の“引用”からだけ構成された、文体混交の“作品”。
 さらに、社会的に実際が認知されている先行諸作からの“引用”と、仮想の先行諸作との“引用”を織り交ぜやコラージュ風の“作品”などなど。

 アタシが考えている保守反動的テクスト論は、こうした類の広い意味でのメタフィクションに含まれる諸作品を一概に否定するものではない。
 ただ、保守反動的(笑)なので、さしあたりは「作品テクスト」の特殊な構造様態、として考えていきたい。

====
【補論】
 本論の主旨とは直接関係しないが。
 「作品のテクスト性」って言い方を許容する立場からは、しばしば「物語の構造」と呼ばれる「作品構成のタイポロジー」と、「作品テクストの意味産出構造」との違いを整理しておく必要も生じる。
 実際「物語の構造」と言って、何が言われているのか、判定しがたいことはしばしばある。
 これは本論で言及した「文化記号論」分野での「テクスト」を巡る混乱とは、又、別の混乱だ。

 「物語の構造」といって、しばしば、ウラジミール・ブロップの『昔話の形態学』(1928年)を典拠にした“構造”が論じられることがある。
 「形態学」という書名から類推されるとおり、この考え方は、物語の表層構成のタイポロジー類型論)のアプローチだ。

 物語の表層構成をタイプ化したものは、抽象概念なので、諸タイプと個別物語との関連様態を、「物語の構造」と読んでも構わない。しかし、それは、「意味産出のテクスト構造」とは、全く別の“構造”だ。保守反動的テクスト論の立場では「物語構成の諸類型」とでも呼べばすむ。

 それとは別に、文化人類学者レヴィ=ストロースが実践した、「神話物語の構造」もある。このアプローチで解析抽出される「構造」もしばしば「物語の構造」と呼ばれるが。これは、本論で論考した「テクストの構造」にやや先行した同系の構造概念で、ブロップ式形態学に依拠する類型概念とは異質だ。

 もう1つ別の混乱として、「物語の構造」と言って「物語行為の行為論的構造」との混乱もある。「物語行為の行為論的構造」が、ブロップ的な「昔話の形態論」とは別種の議論であることは明らかだが。
 アタシの保守反動的テクスト論では、そこまで考えることは、いつか、ずっと先の話になるだろう。
 さしあたり、アタシの保守反動的テクスト論では、文字化された文芸作品のテクスト構造から考えていくからだ。
 物語り行為全般の状況依存性や行為論的な構造については、それこそ、社会学者や、民族学者、民俗学者、物語論者、文化記号論者などなどの諸氏が整理して論じてくださることを期待したいと思います。

この記事へのトラックバックURL:

http://drupal.cre.jp/trackback/2399


この記事をブックマーク

人気コンテンツ