笠井 潔、著、『哲学者の密室』、30年を挟む2つの密室事件の謎
『哲学者の密室』は、笠井潔さん作の本格推理小説で、矢吹駆連作の第4作め。
連作中「最高傑作」って言われることが多い作品。
このレヴューを書く前に、久方ぶりに読み直したアタシ(紹介者)も、やっぱり「今のとこの最高作よね」って、思ってます。
『薔薇の女』で語られた“<アンドロギュヌス>殺人事件”が決着してから、5ヵ月ほど後。
“パリでもっとも美しい月、五月”と言われる月。ナディア・モガールは、3ヵ月ぶりに矢吹駆と再会する。
消息を絶っていた駆は、陰謀家<悪霊ニコライ>の素性をたどりブラジルに渡っていた、と言う。ナディアに問われ、イリイチは、あるいは2次大戦中にナチに属したウクライナ人傭兵の息子であるかもしれない、と示唆する駆。
このレヴュー記事は、『哲学者の密室』未読の人を想定した紹介文です。
作品について、不必要なネタバレは極力避けます。

(『哲学者の密室』上、光文社文庫版書影)
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“パリでもっとも美しい月、五月”
(オ・ル・ド・ジョリ・モワ・ドゥ・メ・ァ・パリ)
ナディアにとって、忘れ難い思い出の重なる月。
けれど、その年の5月は、末から陰気な長雨に見舞われる。
長雨が続くある日の夜、連作の語り手ナディアの父、パリ警視庁のモガール警視は、深夜の自宅で、警視総監じきじきの電話に起こされる。新興のヴェトナム・マフィアが絡んだ大量射殺事件で、やっと主犯逮捕にこぎつけ、自宅に戻って寝床に横たわったばかりだった。
「パリ市長の親友で、経済問題の相談役を務めている」富豪のフランソワ・ダッソーの屋敷まで、急行してもらいたい、との要請だ。警視総監も、5分ほど前、ダッソー本人からの電話で、「事故で、滞在中の客が死んだ」ので、「信頼できる捜査官を派遣してほしい」と注文された、とのことだ。「門前で地区署の警察官が騒いでいるが、警視総監からじかに派遣された捜査官が到着するまでは、現場保存のため家には入れない」とも。
「総監。私には判らないんですが、どうして地区署の警官は、ダッソー家で人命事故が発生したことを掴んだのですか」
「知らんよ、そんなことは。とにかく、現場には君に急行して貰いたい。局長に電話すれば点数稼ぎで、ブローニュの森屋敷まで駆けつけかねないからな。あの男は優秀な警察官僚だが、現場の捜査官じゃない。屍体を前にして、何ができるものか。それで君に、じかに電話したんだ。司法警察の看板であるモガール警視が、じきじきに現場に急行したとなれば、フランソワ・ダッソーでも市長に不平は洩らすまいよ」
パリ市街地の西で、ブローニュの森の、まるでガリア時代から続くような樹林を敷地内に画していることから「森屋敷」と呼ばれる富豪の館に急行するモガール警視は、屋敷の前で地区署の警官たちに迎えられる。
「どうして、この邸で、人命にかかわる事故が起きたことを知ったのか」と尋ねる警視に、警官たちは、素性を語らぬ女の声で地区署に通報が入り「ダッソー邸で殺人事件が起きた」と告げると一方的に切れた、と語る。
ただ1人、屋敷に迎え入れられるモガール警視は、富豪のダッソーが事故死と唱える屍体が、他殺によるものだ、と明確に示す。
モガール警視の心証では、フランソワ・ダッソー自身は、警視に証拠を示されるまで、本心から事故死だったと信じていた様子なのだが。それにしても、現場には不審点が多い。
捜査が進むにつれ、明らかになっていく現場の様相は、異様な3重密室だった。ボリビア人の男が死んだと思われる時刻、森屋敷を出入りした人物はいそうにない。そして、屋敷自体も施錠され出入りは無さそうだ。さらに、ボリビア人ルイス・ロンカルも、施錠された室内で殺されていた。
夜行症に悩んでいた本人に、居室に鍵をかけてくれと頼まれていた、と称すダッソーの証言を、警視は信じないが、証言を崩すために捜査を重ねていく。
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難航する捜査に、モガール警視の相棒、バルベス警部は、矢吹駆に助言を求めようと提案するが。
バルベスの発想にも理はある。冬のアンドロギュヌス事件の時、もしもヤブキに忠告を求めていたなら、第三の娼婦殺しは阻止できたかもしれないのだ。森屋敷の密室事件について、ヤブキに相談しようと思わないできたのは、あるいはナディアの存在と関係があるのかもしれない。父親なるものは娘の心を奪った男のことを、あまり考えたくないものらしい。
「しかし嬢ちゃん、旨くやってるんだろうか。カケルさんっていうのは、なかなかの難物だし。納まるところに納まるなら、似合いのカップルになるんですけどね。カケルさんは少年王ツタンカーメンみたいに綺麗な顔だし、あれはオリエントの古代文明の貴公子ってとこですぜ。警視にはなんですけど、嬢ちゃんも母親似で美人の方だ。美男美女でぴったりじゃないですか」
難物以上だと、モガールは思う。ナディアとヤブキが、バルベスが期待するように似合いのカップルになるとは、どうしても信じられないのだ。日本人を義理の息子にしたくないという、人種的偏見のせいではない。〔後略〕
若い頃、反ナチス、反ヴィシー政権の地下組織に加わっていたモガールは、矢吹駆の振る舞いから、どうしても地下組織のリーダーだったルベール少佐のことを思い起こさずにはいれないのだった。
しかし、あの日本人は、あまりにしばしばルベール少佐のことを思い出させる。ヤブキが、よい家庭人になりうるとは、どうしても思えないのだ。それ以上に、あの青年は心底で「自由、平等、友愛」の理念を唾棄しているのではないかとさえ、ふと感じられる時もある。
解放後、完璧な愛国者としてド・ゴールからさえも賞賛されたルベール少佐が、やはりそんな印象の人物だった。彼らのような人物は、平凡な人生を送る普通人のことになど、どんな関心もない。彼らに関心があるのは、人間ではなしに、人間よりも偉大なものなのだろう。
捜査が進むにつれ、事件に関わる背後の状況は、さらに謎めいていく。
結局、バルベス警部の発案を受け入れるような形で、モガール警視は、バルベスが矢吹駆に捜査協力を要請することを、承認する。
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『哲学者の密室』は、ともかく分厚い作品で、読み応えタップリ♪
でも、分厚さにたじろぐ必要はありません。
この作品は、前篇「ノートウィングの魔剣」、中篇「ワルキューレの悲鳴」、後篇「ジークフリートの死」の3部から構成されてます。
前篇は、モガール警視らの捜査がたっぷり描かれてて。警視の優秀さも、じっくり読めます。にもかかわらず、錯綜していく事件の背景。そこで、矢吹に捜査協力と助言とが求められるのですが。
前篇のラストで語られる矢吹駆の推理には、これまでのような自信が感じられません。これは、モガール警視だけでなく、ナディアやバルベス警部まで、駆の推理を直接聞いた3人の作中人物が共通に感じた心証。
さて、真相は? と後篇に続きます。
そうです。解決篇は後篇なのです。
中篇「ワルキューレの悲鳴」では、第2次大戦末期、前篇、後篇の「物語内の今」から30年ほど前に、ナチの強制収容所内で起きた、もう1つの3重密室殺人事件が描かれます。
「ワルキューレの悲鳴」の密室殺人は、「ノートウィングの魔剣」の密室殺人の背景に連なっていくのですが……。
分量的には2作分とゆーか、2.5作分とゆーかな感じ。内容の緊密さはすごいので、ちゃんと1作になってますけど。
で、初読の時は、「ワルキューレの悲鳴」は、ほとんど、単独作であるかのように読めます。
つまり。
「ノートウィングの魔剣」では、捜査と共に深まる謎と錯綜する背景事情が楽しめ。
「ワルキューレの悲鳴」では、30年前のもう1つのミステリーが楽しめ。
「ジークフリートの死」では、30年の時を置いた、2つの事件の真相が解き明かされる、高密度の物語が楽しめます。
さらにここに、「矢吹駆に惹かれている気持ちは恋愛感情ではない」と思いつめてるナディアの悩み、「娘の恋愛感情が愛情まで深まってるようだ」と思ってても何も言えない、父、モガール警視、潜伏していたナチ戦犯、強制収容所を生き延びたユダヤ人とその子弟、イスラエルのナチ・ハンターや、ニコライ・イリイチの陰などが絡んで。
もう、豪華満点のフルコース料理♪
だけど、普通の文庫本が3冊分と思えば、分厚さにたじろぐ必要はないです。
きっちり、前篇、中篇、後篇に構成されてるから、楽勝☆
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ここで、連作を通した関連について、少し言及する必要が生じます。
『哲学者の密室』では、矢吹駆が『バイバイ、エンジェル』を決着させた時の振る舞いについてが、語り手のナディアとの間で、なんどか語り合われます。
「哲学者」以前の連作の内容について、断片的ではあっても、かなり重要な言及もあるのですが。
この言及は、矢吹駆が、なぜ、ニコライ・イリイチと戦おうと思いつめているか、って動機と関連して、避けられないやりとりと思えます。
なので、推理小説の熱心なファンの方なら、きっと、連作の第1作から順番に読んできた方がいいと思います。
もし、あなたが、それほど推理小説マニアって感じでもなかったら、この際『哲学者の密室』から読み始めてもいいかもしれない?
『哲学者の密室』では、ブラジルで風土病にかかって、死線をさまよい、しばらく病院に入ってた、って駆が、その体験をきっかけに、それまでの思想を自己否定します。
この関連も読みどころ♪
そうに決まってる。カケルはブラジル旅行で、なにか決定的な体験をしたのだ。旅行から戻ったばかりの日本人を、はじめてリュクサンブール公園で見たときに、わたしはカケルの魂の変貌をどこかで感じていた。そんな気がする。〔中略〕
「なにを見つけたの」
「死が、それ以前とは違って見えはじめたような気もする」
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『哲学者の密室』は、今だと、創元推理文庫版が手に入れ易いはずですけど。
上下巻の光文社文庫版も、この紹介文を公開する時点では、まだ入手可能であるようです。
ちなみに、創元文庫版は、本編、およそ、1150頁。光文社文庫版上巻は、本編653頁ほど、下巻本編は、496頁ほど。上巻に前篇と中篇が、下巻に後篇が採録されてます。
創元推理文庫版なんか、サイコロみたいな印象の本(笑)ってゆーと言いすぎですけど。マンガ雑誌の「コロコロコミック」みたいなヴォリューム感の本です♪
アタシは、どっちかって言うと、光文社文庫版お勧め。(別に東京創元社に含むものはないけど)
だって、上巻にも下巻にも、ダッソー邸の見取り図と、「ワルキューレの悲鳴」の密室事件のキーになる小屋の錠前の図解が採録されてるんだもん。
でも、創元文庫の方には、めったに自作に「あとがき」の類を書かない、作家笠井潔の珍しい「あとがき」が採録されています。
(評論家の笠井潔は、たいてい「あとがき」書くけど。作家の笠井潔は、めったに書かないのだ)
後、個人的、好き嫌いで言うと、アタシは、光文社文庫版の装丁好きだなー。
ヒエロニムス・ボッシュの地獄絵の1部を使ってるんですけど。特に「ワルキューレの悲鳴」とのマッチングがいいと思う。
「ワルキューレの悲鳴」は、このパート単独でも、これまで発表されてる笠井小説の内で、1、2を争う傑作と思います。
ナチの強制収容所って異様な空間での、異様が日常になってしまってる異様さのリアリティーを、迫真力をもって描いてて。引き込まれます。
読んで、迫力を堪能してください☆
(「ワルキューレの悲鳴」の物語内世界を、グロテスク・リアリズムって呼んでいいかどうかは、微妙なもんだい。アタシは、グロテスク・リアリズムって呼ばない方がいいような気がしてるけど。考え中)
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書誌情報:
笠井 潔,『哲学者の密室』上(光文社文庫),光文社,Tokyo,1999.
4-334-72778-6
笠井 潔,『哲学者の密室』下(光文社文庫),光文社,Tokyo,1999.
4-334-72779-4
笠井 潔,『哲学者の密室』(創元推理文庫),東京創元社,Tokyo,2002.
4-488-41504-0
笠井 潔,『哲学者の密室』,光文社,Tokyo,1992.
4-334-92209-0
笠井 潔,『哲学者の密室』上(カッパ・ノベルス),光文社,Tokyo,1996.
4-334-07197-X
笠井 潔,『哲学者の密室』下(カッパ・ノベルス),光文社,Tokyo,1996.
4-334-07198-8

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