ケータイ小説をきっかけにした雑感
Drupal.cre.jpのBlogで、アタシは、昨年末の12月23日に「2008年、今年の読書とか、ふりかえり」ってのを書いたけど。
何の気なしに、見直してて、ふと、面白いことに気づいた。
実は、アタシ、昨年、生まれてはじめてケータイ小説を、1本通読。
面白いと思ったし、読んだ前後に、チャットでそのように“発言”したことも覚えてる。
けれど、「2008年、今年の読書とか、ふりかえり」を書いたとき、アタシは、まったく、その件を思い出さなかった。
一端思い出して、他の小説、書籍と比較検討して、「ふりかえるほどではないな」って考えて、書かなかったんじゃぁない。シンプルに思い出さなかったの。
これは、アタシにしては、特異な出来事。
元々、「2008年、今年の読書とか、ふりかえり」は、IRCチャットの#もの書き系チャンネルで出た話題に誘発されて書いたのね。#もの書きWikiには、バリエーションを2本書いたし。書いたのは、都合3本。短期間だったけど、それだけ書いて思い出さなかったのは、これって珍しい。
で、ちょっとアレコレ考えさせられた。
読んだケータイ小説のタイトルは、確か『アタシ、彼女』だったはず。今、考えてみても、作者の名前を思い出せない。
作品概要は辛うじて思い出せたけど。ディテールも、ほとんどまったく思い出せない。
思い出せるのは、「作中で、ハート形だか☆形だかのブレスレットが巧く使われてたな」って記憶と、「主要キャラが雪が積もった原っぱで戯れるシーンが、ほほえましかったな」って記憶くらい。
つまり、「読んだときのアタシ内の評価意識の記憶」はあっても、「作品経験自体」の記憶はないのね。セリフも含めた、具体的な表現、イメージなどが思い出せない。
これって、アタシの記憶内では、作品のテクストがゲシュタルトを形成しなかった、--つまり、アタシはテクストの認知に至らなかった、ってこと。
想像するに、今の世の中には、紙媒体で供給される小説は読まないけど、ケータイ小説は読むって人は、かなりいるはずで。
そのタイプの人たちにとっては、どうなんだろう? と思うと、よくわかんないし、不思議な感じ。
もしかしたら『アタシ、彼女』やケータイ小説にぞっこんな好きな人は、アタシが、『プライド』やら、『HUNTER×HAUNTER』やら、『青銅の悲劇 瀕死の王』やらの描写とか、セリフとかを長期記憶みたいに覚えてて、少し時間をかければ、芋づる式でも、かなり詳細めのプロットやらディテールまで思い出せるような感じで、『アタシ、彼女』のディテールを記憶に刻み込んでるのかしらん?
そーゆー愛読者がいるならいーのだ。いるといーな。
アタシがはじめてケータイ小説を読んだのは、『アタシ、彼女』って作品が、何かの賞を獲得した作品として紹介されたからで。
思うに、アタシの『アタシ、彼女』体験を指標にして、現状のケータイ小説の在り方を空想しても、まぁ許されるかもしれない? 断定する気はないから。
以降は、「雑感」らしく、極、大雑把な想像でしかない。
アタシが、ちょっと考えてみて、くらくらしたのは。
ケータイ小説って分野が、この後、A「読んだ人の記憶に刻まれるような作品にリードさせる」方向に育ってくのか? それとも、例えばCM画像や広告コピーみたいに、B「その時、その時に比較的少なくない人たちに共感される気分が盛り込まれてはいても、大勢としては忘れられていく物語にリードされる」方向に育っていくのか? みたいなこと。
何か、確定的な予想をしようってつもりはなくて。
多分、Bタイプの作品が多い内で、より、低い頻度でAタイプの作品も書かれる、みたいな感じになるのかな? とは思う。
「リード」ってゆーか、分野の基調を彩るのはBタイプの作品群になってく、みたいな感じなのでしょうか??
ケータイ小説って分野のことは、まったく知らないので。だから断定はしないんですけど。
アタシが見聞きしてる範囲で見られる、物語商品の消費動向のことを併せ考えると、そんなふうな想像も湧いてくる。
アタシが、想像してクラクラっと来たのは、こんなヴィジョン。
もし、「物語の消費」が、本当に、現在の産業主導型の消費社会の生活環境にマッチした生活形態(の一面)だとしたら、「その時、その時に比較的少なくない人たちに共感される“気分”が表されてはいても、大勢として忘れられていく物語」ってのは、物語が消費される、物語を消費してくってスタイルに、ほぼ最適化された形態であるはず。
例えば、物語性を確かに表現してるCM画像ってゆーのは、遅くとも、1980年代頃からは多種多用に供給されてきてて、それらは、その時、その時にそれなりにマッスの気分にシンクロしても、極、極、一部の専門家や研究者、好事家以外には忘れられてる。比喩的にいって、社会的には短期記憶にしか残んないで、消費されてるみたいな感じよね。
(「短期記憶」って、ホントはここで言ってる意味じゃぁ無いわよね。比喩だってば、比喩)
CM画像の訴求力の強いものが表す気分に、短期的にシンクロする視聴者のマッス的数量は、今のケータイ小説や普通の小説の比ではないと思う。多分、かろうじて競り合えるとしたら、マンガくらいかな。アニメについては、アタシは疑問もあって、判断保留。
「マンガ」って一言で言っても、商品ジャンルのバリエーションは多くて。比較的人数の多い読者たちの記憶に刻まれる作品のタイトル数は、例えば小説なんかに比べればずっと多い現状のはずだけど。
4コママンガの商品ジャンルでは、多分、完璧に消費されていく物語、完璧に消費していく消費者の数の方が圧倒的に多そう、って気もする。
アタシは、消費が悪いとか、物語の消費が悪いとか、さらさら思ってない。(時々チャットとかでも、そのように“発言”してるけど)
アタシだって、消費してる物語商品はある。ここでは使用規約があるから具体例は挙げないけど、ポルノ系の小説やマンガは、アタシにとって消費の対象で。ただ、その類の好き/嫌いについて論じたり考えたりすることに積極的でないだけ。
だって、そーじゃん。本当に物語のすべての価値を消費されることの度合い(消費され易さ)だけで計って構わないなら、いい/悪いを考える必要はまったくないよね。好き/嫌いだけですべてが棲むはず。消費ってのはそーゆーもんでしょ(?)。
アタシだって、CM画像は、完璧に消費してる。一時、楽しんで話題にしたりしなかったりすることはあっても、端から忘れてる。
アタシが、どうなるのか興味、関心があるのは、ケータイとか活字とか、書籍とかネットとかの媒体の種類を比較しての優劣じゃぁない。別にマンガとアニメの優劣とか、ストーリー・マンガと4コマ・マンガの優劣とかを言ってるわけでも、全然無い。
様々な媒体や表現形態を横断して、完璧に消費され、常に忘れ去られてく物語の生産が大勢になるのか? とか。
いや、今現在だって、すでに、物語消費のスタイルが大勢なんだ、って意見もある。
だとしたら、読者の記憶に刻まれてくような作品の創作が、生き延びてくのは、メディア環境や生活形態とのどんな関係でなのか? みたいなあたりがアタシ的興味や関心。
「読者の記憶に刻まれてくような作品の創作」が、完全に途絶えることはない、って確信はアタシにはあって。
他の人から見れば、何かの“信仰”みたいに聞こえるかもしれないけど。そうだとしても構わない。
アタシは、「完全に途絶えることはない」から万々歳なんて、全然思えなくって。
例えば、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』には、過去の文芸作品を口承で伝えている人々の一団が描かれてるけど。「途絶えることはない」ってのは、あんなふーなイメージで、カリカチュア表現されるような形態であっても、“途絶えることはない”はず、ってのがアタシ的確信であるにすぎない。
アタシは、極、狭い意味の物語--エヴァー・グリーンな物語作品には、それぞれに、社会が消費しようとしても消費しきれない核のようなものが分有されてる、みたいに思ってる。なんだかホントに信仰告白みたいだけど(苦笑)。
これから先、「消費しようとしても消費しきれないエヴァー・グリーンな物語の核のようなもの」が、どんな形態で表現されてくのか? アタシが気になるのは、これ。
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