石田衣良、作、『死に至る玩具』(『反自殺クラブ』池袋ウエストゲートパークV所収)
『死に至る玩具』は、石田衣良さんによる「池袋ウエストゲートパーク」(I.W.G.P.)シリーズ、本編の1作。本編5冊目の作品集『反自殺クラブ』に収められた4作の内、3番めに採録されてる。
なぜか“時間の流れがゆるくなる”春先。語り手であるマコト(真島誠)が店番をする果物屋の店先にやってきたのは、少し前から池袋駅北口あたりで、ファッション・マッサージのキャッチガールをはじめてて、マコトとも顔見知りになってた若い女だった。
「マコトならおれだけど」
「あなただったのか。わたし紅小桃〔ホン・シャォタォ〕。マコトさんに頼みたいことがあるんだけど」
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「マコトさんは困った人を助けてくれる。それもお金をぜんぜんとらないってきいたけど、ほんとうのことですか」
最近の女子高生よりこの中国人のほうが、よほどしっかりした話しかただった。おれはふざけていった。
「そんなデマ、誰にきいたんだ。おれのギャラは高いよ」
火にかざした人形のようにコモモはしぼんでいった。
「そうか、やっぱり高いか。わたしのお店で働いている日本人の女の子から、池袋にはマコトというボランティアみたいななんでも屋さんがいるときいた。あれは嘘か」
そのままくるりと振りむき、帰ってしまおうとする。おれはあわてていった。
「冗談だよ。金はいらない。でもなんで、チャイニーズ・ヘルスに日本人女がいるんだ」
「ああ、うちの店はハンドサービスだけで、自分は脱がなくていいから。日本人なのに片言の日本語で、中国名をもってるなんて、おかしいね」
コモモはにこにこと笑ってみせた。この口には、ハンドサービスなんて一番似合わない言葉だ。
「それで、あんたのトラブルってなんなんだ」
『死に至る玩具』でマコトに助けられる紅小桃〔ホン・シャォタォ〕は、姉を喪っていた。小桃の姉は、中国の玩具工場で、劣悪な労働環境と、不公正な雇用条件下のアルバイト中に、労災とすら呼べないような惨い突然死に至ったのだった。
「正義を求めたい。この世界のどこかに正義があると信じたい。姉のための復讐ではなく、納得のいく結果がほしい」そのために渡日してきた、と語る小桃に、マコトは言葉を失う。
“正義なんて言葉をおれは生まれてから一度も使ったことはない。コモモの口からきくと、それはひどく新鮮な言葉だった。”
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『死に至る玩具』は、多分、I.W.G.P.の小説シリーズを読んできた人の間でも評価が分かれやすい作品。
ストーリーはシンプル。
シリーズ内に、他にも例のあるように「気楽に楽しめる作品」と思う人も入れば、「題材の重さのせいで気楽には楽しめない」って人もいそうな短篇。
その辺の分かれ目は、この作品では微妙なとこ。
アタシ(紹介者)としては、例えば、こんなヵ所がいいと思う。
おれは窓の外の通りを見おろした。春のあたたかな陽射しのなか、むかいのビルには中文網吧と手書きのポスターが貼られていた。最近池袋でも増えてきた中国語のインターネットカフェだ。うえにあがる階段のまえでは、ちいさなテーブルをだして、なにをしているのかわからない中国人の男が座っていた。表情の消された顔。
上の引用は、池袋駅北口のコーヒーショップ2階で、マコトが窓際の喫煙席に座って、紅小桃から、依頼の背景を聞いているシーンの途中の1節。
マコトは、お調子者でお人よしだけど、それだけではなく、鋭い感受性と豊かなイメージ力を持ってる。それは“妄想力”って言ってもいいような力で。シンクロすると、相手の経験の擬似的追体験に近い線まで肉薄する。(決して、相手の立場になりきることはできないんだけど、それは別の話)
小桃の話を聞いている間も、話に刺激されたイメージがマコトの脳裏に浮かんだり、浮かばなかったりする。
例えば、「毎年五月になると一斉に、中国のおもちゃ工場で求人が始まります。マコトさんは知っていますか。世界中のおもちゃの七、八割が中国南西部でつくられていること」。
この話しでは、マコトの妄想力は喚起されない。“世界のおもちゃの八割という数字が想像できなかった”マコトは“首を横に振った”。
「アメリカや日本のクリスマスにあわせて、工場で臨時雇いの仕事が発生するのです。求人が二千人もあると噂が流れれば、つぎの朝最寄り駅には五万人の若い女性が集まります」って小桃の話しを聞いて、マコトの脳裏に勝手に湧くのはこんなイメージ。
“おれは黄色い砂の舞う中、突然出現する女だけの街を想像した。なんだかエキセントリックでいい景色だった。まぎれこんでみたいものだ。”
マコトが、お気楽な妄想を楽しめるのはこの辺までで、続いて小桃が語る話を聞くマコトは、“想像を超えた”台詞に“バカみたいな”合いの手しかいれられなくなっていく。この辺は、小桃が語る理不尽さのリアリティに、マコトが突き放されていくような感じで読める。
さっき引用した「最近池袋でも増えてきた中国語のインターネットカフェ」は、小桃の話しを聞いて、マコトが実感してる「隔たり」の感覚をよく表現してるヵ所。
オモチャの消費を媒介にして関わってはいるのに、隔たっている、その「隔たり」を垣間見た時のアン・リアルな感覚が、よく読みとれるヵ所だ。
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元々I.W.G.P.のシリーズは、リアリズムの小説でもない。
饒舌で、ちょっと軽薄な感じもする1人称の語りで断章を構成して。リアリズムでは描きがたい事柄も、暗示していくような作風。
ただ、『死に至る玩具』については、アタシ(紹介者)としては、行間の描写や暗示が、惜しいとこで、今一うまく機能しそこねてる作品のような気がしてる。
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マコトが、中国から「正義」と「納得のいく結果」を求めて日本にやってきた紅小桃を支援する間、何度か感じた「隔たり」の感覚は、作中の数ヵ所に散見される。
例えば、小桃の姉の死の経緯を聞くヵ所。
「ちょっと待った。心臓発作を起こして、青い顔でぶっ倒れたら、病院にいくのが普通だし、つぎの日は休みにするだろう。命には代えられないんだ。仕事を辞めるって手もある」
コモモは鋭い視線でおれをにらんだ。自分たちのことなど、決して日本人にはわかないという距離感を思わせる視線だ。海峡をへだてた目。
マコトと小桃との間の「隔たり」感は、ストーリーの決着にあたるパートで、一瞬だけ、おそらく一瞬だけ解消される。
マコトが仕組んだ手品のようなトリック・プレイが効いて、中国の工場にファッション・ドールを発注してた玩具メーカーが、下請け工場の労働条件を調査する社内委員会を作るよう方針を急変させた直後のヵ所だ。
「ここからはあんたがひとりで闘っていくんだ。なにかあったら、うちの店にこいよ。できることならまた手伝ってやるからさ」
コモモはおれをじっと見つめて、朝日に花が開くようにスローモーションの笑顔を見せた。
「わたし日本の男大嫌いだった。スケベでケチで、わたしの国のことバカにして。でも、マコトさんみたいな人もたまにはいるんだね。この話しあいが終わったら、わたしの部屋に遊びにきてね。いっしょに、おいしいものたべよう」
おれはしっかりとうなずいて、ホテルのロビーをでた。イタリア製の大理石とか金メッキとかマホガニーとのカウンターに致命的なアレルギーがあるのだ。高級ホテルなんて落ち着かない。
このヵ所が、ささやかに感動的なのは、実は作中でも、小桃はマコトよりもマコトのおふくろさんの方と親しくなってるような描写が散見されるからだ。
でも、小桃の支援にシャカリキになってたマコトは、そんなこと気にしてる余裕は全然なかった様子。そこはマコトのいいとこ。
最後の最後になって小桃が「でも、マコトさんみたいな人もたまにはいるんだね」と得心することになる感情の動きを、多分、マコトは気に留めてもない。
なぜ、そんなふうに読めるかと言うと、作品のオーラスが、こんな語りで締めくくられてるから。
〔前略〕春の終わりまでに、おれがコモモの部屋にいったかどうかは、日中の外交上の秘密だ。だから一般論としてきいてほしいのだが、中国の女性はとてもチャーミングである。
そいつを知らないあんたは不幸だ。
一仕事をうまいことやったマコトは、ご満悦で、お調子に乗ってると思うんだけど。これは、まぁ仕方ない。
マコトは元々、お調子者でもあるから(笑)。
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『死に至る玩具』は、ストリートの気のいいトラブル・シューターが、義侠心から中国娘を助ける話。
気楽に楽しむとしたら、中国の工場にファッション・ドールを発注してた玩具メーカーに、マコトが仕掛けるのトリック・プレーを楽しむことになるはず。
逆に、このトリック・プレー前後の展開にノリそこねた読者は、展開がご都合主義ふうに思えて白けそう。
アタシとしては、展開が、ご都合主義めいてみえるのも、作品の長さを考えると仕方ないような気がします。
それよりも、作品の随所に散見される暗示が分散したままで、全体としての構図を薄っすらとしてしか浮かび上がらせてないところが惜しい、と思います。
ストーリーを構成する主筋に脇から絡むような描写が、もっとクッキリした図柄を浮かび上がらせるようだったら、もっと、ずっと楽しめる物語になってただろうと思えるので。そこは惜しい。
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I.W.G.P.も、本編5冊めの『反自殺クラブ』あたりまでくると、ずっと読んできたファンの間でも「マコトがスーパーマン化してる」「マンネリ化してる」みたいな意見も聞かれる。
そんなふうに読まれちゃうのは、アタシもわからなくもない。
ただ、『死に至る玩具』に限って言えば、マコトはスーパーマン化してるわけでもないと思います。
多分、『死に至る玩具』のマコトを、気の利いたトリックで、敵対者をハメるちょっとお調子者で、かなり気のいいトリック・スターと思って読めば、軽い読み物として楽しめることでしょう。
マンネリ化についてはどうだろう。むしろ、マコトの鋭敏感覚が、少し丸くなってきてる傾向があるかもしれない気がするけど。それは、シリーズを通して読みながらでないと、考えを整理できない話題。
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この作品は、文庫版で58頁ほど。雑誌「オール讀物」の2004年4月号に掲載された。
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書誌情報:
石田 衣良,『反自殺クラブ』(池袋ウエストゲートパーク5),文芸春秋,Tokyo,2005.
ISBN 4-16-323770-4
石田 衣良,『反自殺クラブ 池袋ウエストゲートパークV』(文春文庫),文芸春秋,Tokyo,2007.
ISBN 978-4-16-717412-5
備考:
物語内の今=物語で語られる主要な出来事は、ある年の春、4月に起きる。
クライマックス・シーンは作中の4月23日の出来事と特定される。
クライマックスから逆算すると、紅小桃がマコトの実家の果物屋をはじめて訪れるのは、2、3週間前、4月初旬頃と思える。マコトがはじめて小桃の顔をみたのは“春風がぷるぷると白身魚の刺身のように膚をなでていく”ある日の午後のことで。これが、小桃が果物店をはじめて訪れた日よりどれくらい前かは定かでは無い。
連作間の前後関係を、直接特定する手がかりは作中には見当たらない。短篇『伝説の星』で語られた出来事が起きた正月に続く4月の出来事、と思っておくのが素直な読み方だろう。
語り手の今=語り手の今は、同じ年の“春の終わり”よりは後であるはずだけど。いつ頃かは定かではない。
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