【感想】クヌルプ (ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳 新潮文庫)

せっかく#もの書きに居ながら、ということで何か書いてみようと思い、登録してみました。
いつまで続くかわかりませんが、よろしくお願いします。
ちなみに敬語調は文章を書きづらいことが時々あるので、基本的に言い切りの形にさせていただきたく、何卒ご容赦ください。

 今回読んだのは20世紀初頭ドイツの文豪ヘルマン・ヘッセの短編3編で成る「クヌルプ」。高橋健二氏の訳による新潮文庫の昭和四十五年版(平成六年改版)である。副題に「クヌルプの生涯の三つの物語」とある、主人公クヌルプの青年、若年、壮年と異なる時代の物語が描かれている。
 訳者解説によれば、第二部「クヌルプの思い出」が1908年、その後第一部「早春」と第三部「最期」が1914年に発表されたそうで、その間には有名な「車輪の下」が発表されているとのこと。

 主人公クヌルプは能力に恵まれた人物だけれども、或いはであるが故にか、人並の生活ができなぬまま、多くの人に愛され、孤独の中に生きる。第三部にて流浪の"きっかけ"は明かされるものの、恐らくそれは"きっかけ"に過ぎず、如何なる巡り合わせの中でも"孤独"から逃れることはできなかったし、その"孤独"を認識するが故に放浪を続けなければならなかったのではないかと思う。理由はと問われても明晰で端的な回答はできないけれども、それは彼が"ふつうの"人々と"根源的に異なる"からだと表現すれば近いかもしれない。その意味で、ヘッセの主人公の多くが「デミアン」の主要登場人物であるデミアンに近いものを感じる。デミアンは都会に生まれ、クヌルプは田舎に生まれた。ただそれだけの違いなのではないだろうか。
 この"異なり"は、どことなく19世紀の哲学者セーレン・キェルケゴールを彷彿とさせる。

 しかし神々しく屹立するデミアンに対して、一方のクヌルプは絶望している。この絶望の本質を彼は的確に掴み、自覚している。それがクヌルプの悲劇かもしれないのだが、ヘッセの場合はこれでは終わらない。強く自覚しているが故に、彼の人生は意味を持つ―――持ち得る―――のではないだろうか。彼の最期は、「アウグスツス」(※新潮文庫「メルヒェン」収録の短編)の主人公の最期に近いかもしれない。いづれにせよ、ここでもヘッセが問わんとしているところは、人生の意味―――"人の生きる意味"とは、意義とは何であるか、そして幸福とは何であるかであると感じた。

 その答えは、ヘッセにとってどんなものだったのだろうか。「シッダールタ」でも、「アウグスツス」でも、そして「デミアン」でも、ヘッセは答えを模索し続けているように見える。クヌルプ自身に於いては、それはこれまでに見てきた世界、過ごしてきた美しい世界で、彼が果たした役割だったように思う。人々が彼を愛したように、彼もまた屈託なく人々を愛した。それは短い期間だったかもしれないけれども、それぞれの人々に少しづつ楽しみや美の喜びを分け与えてきた。詳細は第三部後半にあるので、私ごときがくだくだしく無味乾燥にしてしまう必要も無いかと思う。
 ただ、またしても誤解を恐れずに端的な表現を試みれば、それは人を愛することであり、即ち終局的には生まれてきた本分を果たすことであるのではないかと思う。人を愛することとは、特定の個人を対象にしたものである必要はない、それどころか、ヘッセの主人公たちにとっては、特定の個人であってはならないとさえ思える。特定の個人を愛することを超えて、"人間"を愛することになった彼らは、特定の個人を愛することができなくなる。ただ、母をのぞいて。これは取引条件なのだろうか?
 だが、不思議なことに、「クヌルプ」には母は登場しない。彼の初恋の人、そして第二の恋人が再三登場するだけでなく、本編中でも幾人かの女性から歓心を得ており、恐らく人生を通じて多くの女性から愛されたのであろうと、そしてクヌルプがそれらの愛にどのように応えたかも彷彿とさせるような情景が描き出されている。しかし、母の肖像が見られない。これは奇妙なことだと思う。私がこれまでに読んだヘッセの作品では、常に"母"が何らかの役割を持っている。
 これは何を意味するのか?クヌルプとは、ヘッセにとって何者だったのか?
 もしかしたら、クヌルプは"孤独"―――"孤高"には決してなり得ない、そして"ふつう"に憧れながらも埋められない深い谷底の漆黒を見つめながら、その漆黒から離れようにも憧憬の為に離れられない人物なのかもしれない。

 ここから先は、恐らくヘッセの作品の変遷を年表と見比べながら進めなければならないので、御勘弁願いたく。乱筆失礼しました。

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