「かち合い弾」について/クリミア戦争~明治維新頃の銃と歩兵戦術

 先日、チャットで「かち合い弾」について話題が出た。
IRC2009-02-24の午前0時頃のログ

 最初に話題として出されたのは、クリミア戦争での「かち合い弾」である。
 日本では幕末にあたる、19世紀半ばの1854~1856年に、ロシアが英仏土の同盟軍と戦った戦争で、ナイチンゲールが戦場で医療活動をしたことでも知られている。

 そこの戦場跡から発見された「かち合い弾」とは、弾丸と弾丸が衝突してひとかたまりになり、地面に落ちたものである。
 弾丸を弾丸で“撃ち落とした”ようなもので、なんだか漫画的な話である。偶然だとしても、いかにもありえそうにない、天文学的な確率によるものであるように、思える。

 が、この「かち合い弾」。日本でも西南戦争(1877年)の戦場跡でいくつも発見されており、実はそれほど珍しいものではない。

 とすると、戦場において弾丸と弾丸が衝突するのは、実は意外と「多い」のやもしれないということが、ログでは話題として上がったわけだ。

 そこで、ログを補完する形で、ここではクリミア戦争~明治維新頃の小銃による射撃戦闘について、まとめて起きたい。

1:銃の進化
 ナポレオン戦争時代のマスケット銃から現代でも使われるライフル(旋条)銃への過渡期である。
 また、火縄銃の頃からずっと続いた銃口の先から弾を込める前装式から、銃の後ろから弾を込める後装式への銃の進化も進んでいた。
 さらに、銃弾と発射用の装薬、さらには雷管を別々にセットする方式から、この三つがひとつになった現代的な実包(カートリッジ)への転換も、この時代である。
 こうした銃の進化は、次のふたつの影響をもたらした。

・有効射程が伸びた※
 マスケット:273mで命中率16%(M1842マスケット)
 ライフル:273mで命中率55%(エンフィールドライフル)

・発射速度が上がった※
 前装銃:1分間に2発
 後装銃:1分間に5発

 ※いずれもイギリス軍による実験データ

2:歩兵戦術の変化
 使う武器が進化すれば、戦い方もそれに合わせて変化する。
 が、なにぶん、戦い方をまとめたマニュアル=教練は、そうそう簡単に作り直せるものではない。銃の進化に戦術が完全にはついていけなかったのも、この時代の特徴である。
 19世紀初頭のナポレオンの時代はまだ火力だけでは敵を完全に制圧することができず、最後には歩兵の突撃で決着がついた。
 しかし、クリミア戦争の頃になると、銃の発射速度と有効射程が上がったため、突撃を火力が粉砕するような結果がしばしば起きている。
 幕末の幕府軍歩兵が学んだ戦術は、おおむね400メートルくらいから前進と射撃を繰り返し、おおよそ270メートルほどの距離でいわゆる「決戦射撃」を行い、制圧すれば突撃してケリをつけるというものであったようだ。
 しかし、これらはナポレオン時代のマスケット銃を前提にした戦術であり、ライフル銃での撃ち合いではあまりに近すぎた。
 鳥羽伏見の戦いで、装備と数の両方に勝る幕府軍が敗北した理由のひとつが、この時代遅れの訓練に従った結果、大損害を被ったせいだとの説もある。
 近距離での撃ち合いがひどいことになることが分かってくると、今度は「決戦射撃」の距離がぐっと伸びることになる。この後の日清戦争(1894年)の時代になると、500メートルくらいで撃ち合い、今度はあまり死傷者が出なくなったようである。

 以上は、『歴史群像No.68』の『the battle of鳥羽伏見/世界水準に達していた火力運用』(樋口隆晴)をまとめたものである。記事末尾に参考文献として『幕府歩兵隊』(野口武彦/中公新書)や『図解古銃辞典』(所荘吉/雄山閣)があげられているので、これらを読むとより正確に『かち合い弾』がどのくらいの確率で起きるかが算出できるかもしれない。

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