「フィクションの作者」とは、読者にとっては何か

 この雑記は、まとまった論考の下準備としての構想ノートです。
 さしあたり、この文章で、まとまった論考や、主張をする予定はありません。(断片的な考察や意見は含まれています)

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 「フィクションの作者」とは、読者にとっては何か、文字表現を中心に考えてみたい。

 読者は、作品を読んで作者像をイメージするけど。実は、そこには作品の読書体験以外にも、いろんな経験や、知識、情報が混入している。
 こうした混入は避けがたいものだけど。
 「作品の読書体験を通じて形成される作者像」を整理して考えてみるために、あるいは、「読者にとっての作者像の形成過程を批評的に自己検討するために。いわゆる“作者”を、一端、次にあげる4つのレイヤーに分節したうえで、各レイヤー間の重なり合い具合などを考えるといいと思う。
(ここで、「作者像」と呼んでいるのは、普通「作家性」と言われる事柄にも近い)

 後で簡単に整理するけど、“作者”を複合構成しているレイヤーとしては、さしあたり、「社会的作者」、「作者のメディア・イメージ」、「作者の中の人」、「『作者のスピリッツ』と、『作者のガイスト』」の4つのレイヤーを分節するといいのではないか(?)と、考えてみる。

 なお「作家」については、概ね、職業的に(兼業的にでもいい)、「複数のフィクション作品を創作している(したことのある)“作者”」としておく。
 つまり、「作家性」とは「作者像が、複層化、重層化したものの性質」といった見通しになる。

【なんの話しかとゆーと】
 なんの話か? とゆーと、「作者」のところを「アイドル・タレント」とか「TVに出るようなタレント」とかと入れ替えてみるとわかり易いかもしれない。
 例えば「アイドル・タレントの中の人は、アイドル・タレントのメディア・イメージとは違う(はずだ)」とか、「ヴィデオ・クリップで歌を歌ってる時のタレント・イメージこそがアイドル像のメインで、雑誌インタヴューなどの情報は、楽屋裏かせいぜい補足情報にすぎない」とか。
 なんかそんなような感じの、似たような考察を“作者”についてもすべきだし、できるだろう、って話。

【“作者”に複合しているレイヤー(の分節)】
●「社会的作者」
 「社会的作者」とは、作品の著作権者、著作主体。あるいは、“作者”の社会的に認知されている相。
●「作者のメディア・イメージ」
 「作者のメディア・イメージ」とは、特定の作者について、作品意外のメディアで形成されるキャラクター・イメージ。
 過去のジャーナル、評伝、作品に対する批評文などを通して形成される作者の人物像も、「作者のメディア・イメージ」に含める。
●「作者の中の人」
 「作者の中の人」とは、「社会的作者」や「作者のメディア・イメージ」のルーツ、あるいは、ソースになる人格。作者ご本人のパーソナルな生活圏、交友関係で認知されているはずの人格。
(通例、読者一般は、「作者の中の人」自体は、知らないことが多い。知ってる場合は例外)
「作者のスピリッツ」と、「作者のガイスト」
 「作者のスピリッツ」、「作者のガイスト」とは、フィクションの読者が、作品テクストの読解(テクスト体験)を通して想定する“作者”の人格。
 断片的なイメージを「作者のスピリッツ」と呼びたい。
 ある読者が、例えば、同じ作者(社会的作者)の作品、複数を読むなどして、まとまった人物像が形成された段階を「作者のガイスト」と呼びたい。
 「作者のスピリッツ」、「作者のガイスト」は、平たく言えば「作者の精神」だが、「作者の中の人の精神」と混同され易いので、あえて「スピリッツ」「ガイスト」の呼称を用いてみる。(もっといい表現があれば、いつでも変更する)
 要するに「読者が作品を読んで、想定する作者の精神」は「実在の作者個人(作者の中の人)の精神」と一致するとは限らない点を重視した言い方。

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 冒頭で断ってることだけど。
 この構想ノートで考えてる「“作者”に複合しているレイヤー」は、「一端、分節したうえで、各レイヤー間の重なり合い具合などを考える」ためのもの。

 テクスト論でも、一部の先鋭的なセオリーのように、「あらゆるテクストに作者はいない」といった立場は、基本的に採らない。
(極、特殊な物語テクストに、作者を特定できない、ということはある。例えば口承物語の類には少なくない。その類は、特殊なグループと考える)

 普通言われる「著作者」とは、基本的には「社会的に『作品』と認知された創作の(社会的に認知された)著作者」(つまりは社会的作者)でもあり、テクスト体験(読書体験)を通して読者の意識内で形成される作者像(作家性)と社会的作者は、存在するレイヤーが違うのだ。

【保守反動的テクスト論の立場では】
 本項の筆者は、テクスト論でも保守反動的な立場を採っている。
 つまり、テクスト論のベーシックなセオリーには準拠しているが、先鋭的なセオリーには必ずしも同意していない。
 例えば、“作者”については、概ね次のように考えている。
●フィクションの類において「大文字の作者」はいない。(フィクション作者とは「大文字の作者」のような存在ではない)
●ある作品の著作者は「社会的作者」(“作者”複合の社会的レイヤー)だ。つまり社会的に認知された著作者という存在(社会的存在)だ。
●テクスト体験(読書体験)を通して読者の意識内で形成される作者像(作家性)と、作者の中の人(作者ご本人)の人格は必ずしも一致しない。
●作者のメディア・イメージが、作者像(作家性)に混入することは避けがたい。特に、メディアが発達している昨今の社会環境では避けがたい。しかし、作者像は常にテクスト体験を通して、繰り返し再検討されるべきだ。再検討されない作者のメディア・イメージは、テクスト体験にとって予断にしか過ぎない。つまり、作者のメディア・イメージは、テクストにとって、常に正しいものとは限らない。

<この項未了>

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「作者のスピリッツ」と、「作者のガイスト」

 「作者のスピリッツ」、「作者のガイスト」とは、フィクションの読者が、作品テクストの読解(テクスト体験)を通して想定する作者の人格(人物像)だ。

 断片的なイメージを「作者のスピリッツ」と呼びたい。
 ある読者が、同じ作者(社会的作者)の作品、複数を読むなどして、まとまった人物像が形成された段階を「作者のガイスト」と呼びたい。
 「作者のスピリッツ」、「作者のガイスト」は、平たく言えば「作者の精神」だが、「作者の中の人の精神」と混同され易いので、あえて、「スピリッツ」、「ガイスト」の呼称を用いてみる。
 普通、「作家像」には、読者が作品テクストの体験から得たもの以外のテクスト外情報(作者のメディア・イメージなど)も混入している。この混入は避けがたいものだが。強いて、「テクスト体験を通じて形成される部分」を抽出するために、「作者のスピリッツ」「作者のガイスト」を考える。
(「『作者のスピリッツ』、『作者のガイスト』だけが作者だ」といった主張する意図でではない)

 要するに「読者が作品のテクスト体験を通して想定する作者の精神」は「実在の作者個人(作者の中の人)の精神」と一致するとは限らない、点を重視した言い方が、「作者のスピリッツ」や、「作者のガイスト」。(もっといい表現があれば、いつでも変更する)

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 「作者のスピリッツ」、「作者のガイスト」は、ある種の文体論で言われる「作者(の精神)の痕跡」に類縁の概念ではある。
 例えば、読者があるテクストの体験を通して、特徴的な語彙選択のセンスや、特徴的な言い回しに注目して、それらに“意味”を見出すとき、その読者は意識していようといまいと、なんらかの“作者”的存在をテクストの向こう側に想定していることになる。
 こうして想定される「“作者的”存在」の像を、像の解像度に応じて「作者のスピリッツ」と「作者のガイスト」と呼んでみたい。
 「作者(の精神)の痕跡」と言われるのは、通例、あるテクストに特徴的な言語表現の類だが。「作者のスピリッツ」、「作者のガイスト」は、意識しているにせよ、していないにせよ、読者が想定してしまう“作者的”存在の方を意味する。

「大文字の作者」について

 親記事でも断ってることだけど。
 「『フィクションの作者』とは、読者にとっては何か」で考えようとしている「“作者”に複合しているレイヤー」は、「一端、分節したうえで、各レイヤーの重なり合い具合などを考える」ためのものだ。

 テクスト論のベーシックなセオリーでは、「作者の死」ということが言われるけれど。
 これは「(大文字の)作者の死」、つまり、「フィクション作品の内容を、すべて正しく意識している(とみなされる)作者」は在り得ない、“作者”とはそのような存在ではあり得ない、という意味での「(大文字の作者の)死」だ。
 つまり、「作者の意図を正しく理解することが、作品の正しい読解」という19世紀的な文芸イデオロギーの破産宣言が「(大文字)の作者の死」だ。

 「大文字の作者」の死は、以下にみるように正しいはずだが、必ずしも「あらゆる作者の死」には直結しないはずだ。(この件は別途検討したい)
 まずは「大文字の作者の死」について概観しておく。

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 一般に向けて公表された文章は、書き手の意図がどうであろうと、文章として、出来/不出来などが評価される。
 わが国では、例えば政治家が「意図はともかく、不適当な表現に陳謝」したりする。何も政治家には限らないことだけど、政治家とかメディア関係者とかは、公共圏に面して言説活動をするのが職務だから、当然ではある。

 同様な事情は、一般に向けて公表されるフィクション作品にも適用されるのだけど。
 ただ、フィクション作品の「表現」は、政治家やメディア・レポーターの「論説」や、報道メディア類の「報道」などとは、性質が異なる。
 例えば、ある歴史的過去を背景にしたフィクション作品では、作中人物の言動に、現在の公共的な社会通念とは相容れない部分(・・)があるとしても、一概に否定されるべきではない。
(「一概に否定されるべきではない」は、「常に容認されるべき」でもない)

 さて、フィクション作品の評価は、作者の意図によってではなく、公表された作品の出来/不出来によって評価されるもののはずなので。
 作者の意図がどうであろうと差し障りのある表現が非難されるように、作者が意図してなかろうと、積極的に評価されるべき表現は評価される、ことになる。
 これは、一般的には「論説」の類には認められず、「表現(創作)」には、しばしば認められる出来事だ。
(「報道」については、文章表現ではまず認められないが、例えば報道写真などでは「意図せぬ1枚」のような、ほとんど表現と言って構わないような写真も珍しくは無い)

 文字表現のフィクション作品について、「作者が意図してなくても評価される表現」なんてあるのか? と思う人もいるかもしれないけれど。古典的な例としてシェークスピアの『ベニスの商人』に見られるシャイロックの描写の例を挙げておく。
 『ベニスの商人』の作者(シェークスピア)が、当時の社会通念に準じて、ユダヤ教徒に対するネガティブな評価を表現しようとしていたことは、例えば作中の他のキャラのセリフや、作品のクライマックスで、シャイロックの娘が、クリスチャンのキャラと結ばれ、キリスト教徒に改宗するって展開から「判断」される。この「判断」は、解釈だとしても、作品テクストに即して、およそ無視し得ない類の解釈だ。
 にも関らず、シャイロックの言動描写からは、当時の社会通念を批判する視点を読みとれるし、読み方次第では「社会的に正論とされ言説が、排斥をするメカニズム」自体を批評する視点を読みとることもできる。

 というわけで、「作品の読書体験を通じて形成される作者像(作家性)」は、必ずしも「作者の中の人の意識(精神)」とはイコールではない。
 つまり「フィクションの作者」は、「大文字の作者」のような存在ではあり得ない。

 もちろん「あらゆるテキストがテクストなわけではない」ように、「作者のガイスト」と「作者の中の人の意識」との間の乖離が大きな作者もいれば、あまり大きくない作者もいることだろう。
 そうしたことを評価するためにも、「『フィクションの作者』とは、読者にとっては何か」を考えるための考え方は整理されてしかるべきだ。


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