西研、著、『実存からの冒険』、現実の生活をドキドキやってくための考え方

 『実存からの冒険』は、『哲学的思考 フッサール現象学の核心』や、『ヘーゲル 大人のなりかた』の著者、西研さんが、1989年に、はじめて公にした本。アタシ(紹介者)は、10年ぶりくらいで読み返して、とても面白く読めました。

 はじめに、この本の面白みを、2、3のポイントで挙げてみます。
 まず、哲学や思想の専門家ではない読者を想定して、平明な語り口で書かれてる。この語り口はいい。
 内容としては、「現実の生活をドキドキしながらやってくコツ(考え方)」が、思想書の読解を通して示されてます。一般教養風の、哲学史概説書などとはかなり違う。この点も面白み。
 3つめは、題材。
 「日本のポスト・モダン思想に対する批評的な検討」が題材になってます。

 「ポスト・モダン思想に対する批評」って聞くと、古びた話題に聞こえるかもしれない。
 でも、今の日本でも「ポスト・モダン的な状況」は、決して古びたもんだいでは無い。そこで、思想(考え方)が平明な語り口で提案されてる点もいい。
 今の日本の「ポスト・モダン的状況」への対処法は、人それぞれなものが、タイプとしても幾通りかあるはずだけど。著者が提示してる対処策は、検討候補として悪くないと思います。
 著者提案の考え方に同意してもしなくても、題材について、自分なりに考えてみる手がかり足がかりに、いい本です。

Cover image
(『実存からの冒険』ちくま学芸文庫版、書影)

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 『実存からの冒険』を、アタシ(紹介者)がどんなふうに読んでるかと言うと。
 まず、「今でも日本で続いているポスト・モダン的状況を避け難い前提として認めて」、その上で、「社会の内で現実の生活をドキドキやってくにはどうしたらいいか?」について、「その考え方が提案されたガイドブック」として読んでます。
 ここで言う「ポスト・モダン的状況」って、例えば、高度消費社会とか、高度情報化社会とか、産業化社会などと呼ばれてるような状況のことです。
 ある種、批評文芸のようにして(文芸批評ではなくて、批評文芸の1つとしてってこと)読んでいます。

 例えば、著者は、ニーチェについて次のように書いている--。

つまり、彼にとって「書く」という作業は、自分がこうして存在していることを深く自分で納得しようとする作業でもあったし、また人々に理解されようと願い努力するということでもあった。彼を生かしたのは、この書き続ける作業だったのだ。

 引用中で言われている「彼」は、もちろんニーチェのこと。
(引用中、太字表示にしているのは、原文では、傍点付で強調されているヵ所です。以下の引用ヵ所でも同じく)

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 『実存からの冒険』は、思想書から読みとられた「考え方」のガイドブックではあっても、ハウツー本ではないです。
 言ってみれば、文芸批評が文芸作品の深い読み方の事例提示であるように、『実存からの冒険』は、古典的になってる思想書の深い読み方の事例提示。
 考え方のコツが、実際の読解を通して提示されてる本で。ハウツー本ではありません。

 「考え方」のガイドではなくて、ハウツー的なものを求めたいなら、西研さんも共著者である『「考える」ための小論文』(ちくま新書)がお勧め。この本は、単にハウツー本なだけでなく、ワークブック的な性格も持ってる良書です。
 あるいは、『哲学の練習問題 自分と世界をつなぐ』も悪くない(こっちは、西研さんの単独著作で日本放送出版協会刊)。

 さらに、一般教養風の、哲学史についての知識を得たければ、例えば、著者も編者として加わってる『はじめての哲学史 強く深く考えるために』(有斐閣アルマ)がお勧め。『実存からの冒険』と併読すると、なお楽しいでしょう。

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 『実存からの冒険』は、「日本のポスト・モダン思想に対する批評的な検討」が主題なんだけど。手法としては、普通、ポスト・モダン思想の源流とみなされる、ニーチェまで遡って、ポスト・モダン思想のもんだい点をチェックする構成になってます。後、ハイデガーフッサールの思想も扱われるんですけど。この流れは「実存からの冒険」って切り口で、わかり易く書かれてます。

 例えば、ニーチェの思想について、著者は次のように書いている--。

 ニーチェの思想は、「真理への批判」から「生の肯定」へと至る道筋だ。

 これは、ニーチェの作品テクストが許容し得る、何通りかの解釈の1つ。
 著者が提示しているニーチェ思想の「読み」も、何通りかあり得る解釈の1つでしかありません。

 けれど、例えば「西研氏は、ニーチェにとって書くということは、自己了解の営みだったみたいに書いてるけど。そんなことが出来たのは、親が遺した年金で細々とやってられたからにすぎないよね」みたいな“読み”よりは、はるかに了見が広い。
 だって、あらゆる年金生活者が、ニーチェのような思想を書き記したわけでは、ないではないですか。

 例えば、著者は次のようにも書いている--。

〔前略〕ニーチェには集団と対立すること、つまり「孤高」な態度がいいんだ、カッコいいんだという感覚が入っている。ニーチェは周りから理解されなかった人だから、ぎゃくに孤独を誇るというようなところがあった。〔中略〕
 集団と対立するほうがかっこいいんだ、というのはぼくは嘘だと思うから<畜群本能>という言い方にはちょっと抵抗もある。だけれど、たしかに集団は一つの価値観や感覚を共有してしまうところがあるし、それに対立するというのはひどく大変な場合も多い。つまり集団や社会は変わった人間を抑圧したり排除したりする傾向をもちやすい。ニーチェはそのことに敏感だったし、キリスト教という制度を支えるものに<畜群本能>を見出したこと、これはなるほど、とぼくも思う。

 引用したくだりは、内容上、少し後のヵ所と響きあってます。

 私たちは、いままでキリスト教的道徳の批判、ひいては民主主義や社会主義の批判をかなり詳しくみてきた。それらは、<ルサンチマン>と<畜群本能>の所産である、というのがニーチェの答えだった。では、このような批判は、けっきょくどこをめざしているのだろうか

 ここで、示されている読み方は、「作者が課題として取り組んだ主題を内容面で読みとり」その上で、「思考の運動(それが思想という事柄の内実だ)が、何を目指していたのか」考えながら読む、って作法だ。
 少し古い言い方(笑)で言ってみると「ニーチェなり誰なりのテクストを、その内容の可能性の中心を探りながら読んでいく」作法と言える。

 「内容の可能性の中心を探りながら読む」は、もちろん全否定の読み方でも全肯定の読み方でもありません。
 そうした読み方の実例提示のことを、この文章でアタシは、「考え方のガイドブック」って要約表現しながら紹介してみてるわけです。
 この紹介は、著者の狙いともさほど外れてはいないはずで。例えば、こんな一節も、『実存からの冒険』には記されてます。

 じつは、ニーチェがこのようなことをいっているという具体的な中身はどうでもいいのだ。大事なのはこの考え方である。繰り返しになるけど<どこかに「本当のこと」があるのではなく、「本当だ」という確信がやってくるだけだ。ではどういう事情がそのリアリティを可能にしているのだろう、と問うてみる>こと。

 まず、引用部分の前段をアタシなりに補足したい。
 「ニーチェがこのようなことをいっているという具体的な中身はどうでもいいのだ。大事なのはこの考え方である。」

 ニーチェが書いたものには、間違ったことが書いてあるヵ所もあれば、無理のある主張の仕方や、偏見に基づいた一面的な主張が記されてるところもある。
 しかし、そうした細々した点は、ニーチェが取り組んで示した「考え方」と比べれば、いずれも大したもんだいではない。
 上の引用ヵ所の前段で、著者が言わんとしていることは、そういう意味だと、アタシは読みました。
 だとすれば、著者の読み方は、「内容を、可能性の中心において読む」と言っても構わない作法でしょう。

 さて、引用ヵ所の後段にある著者の指摘。<どこかに「本当のこと」があるのではなく、「本当だ」という確信がやってくるだけだ。ではどういう事情がそのリアリティを可能にしているのだろう、と問うてみる>考え方が大事だ、という指摘は、もちろん日本的ポスト・モダニズムの批評的点検に連なっていくものです。

 この関連の著者の主張を、アタシなりに要約してみると「日本的ポスト・モダニズムの思想は、中途半端な相対主義にすぎない」って要約できるし。アタシもその評価には、概ね同感。
 ポスト・モダニズムの思想が、どれだけ精緻な理論で「本当のこと(絶対的真理)などない」と論証しても、人々は「これは本当らしい」「ウソっぽい」といったリアリティーに掴まれたり離れたりしながら暮らしていくものです。
 誰もが、そうしたリアリティーを感じたり感じなかったりするメカニズムは、どんなものなのか? これが、中途半端ではない相対主義(って言い方は著者はしてはいないけど)の考え方でしょう。
 アタシの意見では、中途半端でない相対主義は、選択肢を増やしえていく考え方なんですね。なので、著者の指摘にはうなづけます。

 著者は、こうも書いています。
 話題は、世間で「絶対的で客観的な真理は無い」とだけ、簡単に言い放たれていることと、『実存からの冒険』で何度も繰り返して、徹底的に説かれていることについて。

 若い人たちにはあまりピンとこないんじゃないかな、と思う。「そんなのあたりまえだろ、いちいちそんなことやって何の意味があるの」というところが正直なところじゃないか。

 実は、「絶対的で客観的な真理は無い」ことについて、「そんなのあたりまえだろ」と言ってるだけでは、状況は、何も変わらない。
 「絶対的で客観的な真理は無い」、にも関らず、人々が、それぞれの暮らしの内で「本当のことや」「ウソのこと」を見極めたい思いに駆られることは避けられないからです。社会は、絶対的でも客観的でもなくても、真理のようなものを掲げ、多様な人々の想いの調整を試みていく。こちらも避け難い。

 と、ゆーわけで、「ポスト・モダン思想」は古びた話題に聞こえるかもしれないけれど、「ポスト・モダン的状況を前提に、どんなふうに暮らしていくか」は、決して古びた話題ではない。

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 ここで、1つ、この本で目立つ大きな弱点も挙げておきましょう。
 文庫版に所収されている解説(川本隆史さん)でも指摘されているのですが。「エロス論」の作中展開が手薄です。にもかかわらず、「エロスの時代」といった断定が唐突な感じで提示されています。
 この件は、この本を思想評論として読むなら、確かに大きな弱点なのですが。批評文芸として読むなら、例えば、初出ヵ所を前後の文脈から、「道徳と真理とが、一体でワンセットであるとは、社会通念上は思われなくなっている時代(個々人には思ってる人もいるかもしれない)」とでも、読んでいけば、読み進むうちに、ニュアンスが深まる感じで、読んでいけるだろうと思います。

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 さて、この文章では、『実存からの冒険』を批評文芸の作品として紹介する線で書いてきました。(「文芸批評」ではありません)

 批評文芸として読むと、平明な語り口が、とても面白い1冊でもあります。
 この本の語り口については、文庫版の著者あとがきのコメントが示唆的。

 ひさしぶりに『実存からの冒険』を読み直したら、この本を書いていた当時の感覚が蘇ってきた。
〔中略〕
 ぼくは「学者のなりそこね」なので、最初はごくまともな論文調の文体で書いていたのだが、ところがなかなか進んでくれない。「いったいぼくのなかに、ひとさまに伝えるべきことなんてあるのだろうか」ということが気になって仕方がなかったからだ。
 しばらくあれこれ悩んだすえ、「けっきょく自分が二十代にあれこれ考えてきたことを書いていくしかない」と思い、ニーチェの章をもう一度書き直しはじめた。そのうち「そうだぼくは学者じゃないんだから、もっと自分が感じたことを大胆に言ってしまってもいいんだ」、なぜかそういう感じになってきて、あのとおりの変な文体になってしまったのである。

 この、文庫版あとがきは、ちくま学芸文庫版が公刊された1995年に書かれたものでしょう。最初の単行本は1989年に毎日新聞社から刊行されました。その辺からも、想定読者は、哲学や思想の専門家ではないはず、と推定されます。

 アタシは「平明な文体」と思って、著者が言うほど「変な文体」とは思わないんですけど。引用ヵ所とか読んでどうでした? 最終的には、読者のそれぞれが判断してください。
 それよりも「あとがき」の引用ヵ所で注目すべきは、「そうだぼくは学者じゃないんだから、もっと自分が感じたことを大胆に言ってしまってもいいんだ」と、なぜかそういう感じになってきたってコメント。
 この執筆体験自体、著者ご本人の「実存からの冒険」なんだと思います。

 ちなみに、「実存」って言葉について、最後にちょびっとだけ解説。
 「実存」ってゆーのは「現実存在」の略語だったんです。
 でも、哲学用語、思想用語としては、「人間の現実的な在り方(存在様態)」みたいな意味だと思っとけば、概ね間違いではないです。
 この「現実」って言うのは、例えばマルクス主義の思想やヘーゲルの哲学で言われる「人の類的本質」と違って「あっちは、抽象観念だけど、こっちが論じるのは、現実的な在り方」って含意でした。
 前史まで遡っていくと、哲学史的にさらに遡れないわけでもないようですが。哲学とか、専門的にやる人でなければ、そんなこと、さしあたりは関係ないでしょう。とりあえず、置いといても構わない。

 アタシも含めた、今の日本の大多数にとっては、むしろ、生物学や統計で扱われるような、“抽象化”された個人ではなくて、「自分の生は、どうしても他人と取替えが効かない、って主観的に思ってしまう(思わざるを得ない)」そんなあたりの在り方を、「現実存在」、「人間の現実的な在り方(存在様態)」みたいに、大づかみに思っていった方が、わかりがいいだろうと思えます。
 それから「実存主義」よりは、むしろ「実存としての個々人の在り方」の方に、著者のこだわりはある。そんな風に読んでも構わないだろうと思います。

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【おまけ】
◎哲学評論として観ると
『実存からの冒険』を哲学評論の本として読むと、少し甘いところもあるとは思います。
アタシとしては致命的な欠点でもないと思うんですけど。それは、あくまで「日本的ポスト・モダン思想の批評的点検」って構えの範囲内での判断です。
この辺についてはちくま学芸文庫版に採録されてる、川本隆史さんによる解説が、的確。
川本氏の指摘にもあることで、特に本文でも言及した「エロス論」の手薄さについては、興味のある人には、竹田青嗣さんの『エロスの世界像』、又は『意味とエロス』の併読をお勧めします。
竹田版のエロス論については、『エロスの世界像』が、総合的概説で、平明。ただし、西研の考えるエロス論とどこがズレるかは要検討(かなり重なってる気はするんですけどね)。
『意味とエロス』の方では、竹田版エロス論もさることながら、フッサール現象学再評価の基礎論が勢力的に論じられています。その分、論述はちょっとめんどくさい感じ。

『実存からの冒険』の方でも、フッサールの現象学再評価みたいなモティーフも込められてるわけですけど。
その点の是非よりも、ある志向性を明瞭に打ち出してるからこそ、ニュートラルで総華的な概説になっていない点を、アタシ(紹介者)は、積極的に評価しています。もちろん、この本については、ですけど。

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書誌情報:
西研,『実存からの冒険』(ちくま学芸文庫),筑摩書房,1995.
ISBN=4-480-08241-7

西研,『実存からの冒険』,毎日新聞社,1989.
ISBN=4-620-30704-1

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