アタシにとって批評文とは何か(改訂版)

 「アタシにとって批評文とは何か」。
 今時点の考えを、できるだけ平明に、できる限り飾らずに、書いておきたい。

 今年の個人的目標として、「しっかりした批評文を書きたい」を掲げてるので、そろそろ、今の自分の考えを整理しておくタイミングと思う。
 この文章は、大げさに言えば、マニュフェストみたいなもんで、「これから当分、こういう考え方で批評文を書いてきます」って整理。
 それでも、「アタシにとって批評文とは何か」の考えを、少しでも多くの人にわかってもらえるよう、書いてみます。

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 アタシにとって批評文は、ただの感想文ではない。
 感想文とも、極、近い関係にはあるけど違う。

 まず「自分の“体験”の内実を、感想を得るに至るような経緯やメカニズムにも遡って、言語化し、整理する文章」が批評文。この“体験”には、例えば、読者が小説に引き込まれて感じるような「作品体験」も含む。
 「実体験」以外も含むってこと。

 そして、「公表することで、自分の“体験整理”、言語化の妥当性を、広く読者に問う」そんな文章の総称が「批評」だ。
 これが、アタシが書いていきたい批評文。

 批評文は、様々な“体験”を扱えるけれど、アタシの拘りでは、文芸作品の作品体験を扱う「文芸批評」を典型的な批評文として考えている。

批評と評論:
 まず、世間では「『批評』と『評論』の区別をつけない」ことも少なくない。
 けれど、実は、評論家なり批評家なりをやってる人たちの間には、区別に拘る人もいれば拘らない人もいる。
 こーゆー場合、世間の方には、せめて「当事者たちの間には、拘りもあったりするらしい」くらいの認知を求めたいけど。そのためにも「当事者たち」の方から世間に対する説明は心がけるべきとも思う。

 アタシは、アタシなりの拘りで「『評論』ではなくて『批評』を書いていきたい」と思ってるけど。それが他の人に「評論」と呼ばれたとしても、あんまり気にしたりはしない。そういうこと。

批評と批判:
 次に、世間では「『批評』、『評論』と、『批判』の区別をつけない」ことはかなり多い。
 アタシとしては、「批評」「評論」と「批判」とは、別種のカテゴリ、と、はっきり指摘しとく。

 「評論」も「批評」も、あるいは、「評論」に「批評」を含めるものも、すべて文芸のジャンルだけど、「批判」は言語行為の種類名。機能をみれば階層自体が違う。
 つまり、「批評」や「評論」を「中華料理」や「日本料理」の階層だとしてみると、「批判」は、「ラーメン」とか「味噌汁」とかの階層。

 辞書の内には、「批判」の項に「批評」や「評論」と意味が重なるかのように説明されてる例もあるけれど。これらは、語源に遡ると意味の重なりもあった、って事情から書かれてるのだろう。
 今、日常会話では「批判」と言えば、第1に「何か困った点などを指摘する」って意味で使われるので。「批評」も「評論」も「批判」とは区別した方がいい。
 「批評」も「評論」も、内容が「批判」であるとは限らないからだ。

評論:
 「評論」は、大まかに言っちゃえば、「なんとか論」の類のこと、と、思えば概ね近い。
 「神話論」とか「恋愛論」とか「人生論」とかいろいろある。

 まず、大づかみなとこからみてみる。
 「ある程度体系化された論述で、通例、さらなる体系化がめざされる諸言説の総称」が、「評論」を大づかみにみたときの特徴になる。例えば、英語で、“~~ロジイ”(~~logy)と呼ばれる類が、ここで言う「大づかみにみた評論」と、言える。

 次に、「批評」についてのアタシの拘りとの関係付けて、「評論」をみてみる。
 うえに説明した評論類の内でも、完全には“客観的”になりきれないけど、それでも“客観性”を目指す部類が、典型的に「評論」らしい。
 完全に、“客観的”な分野になると、これは、学術だよね。biology(生物学)とか。
 例えば「社会学(sociologie)」とかになると、完全な“客観性”は不可能なはずなんだけど、それでも、より“客観的”な体系整理が目指されてはいるはず。この辺が典型的な「評論」に目立つ特徴と思える。

 例えば、「国際関係論」とか「神話論」とかは、学術ではあるし、体系化も目指されるんだけど。今のところ、充分な体系化には至れないでいる。「学際的」な分野。つまり、きちんとした体系化を性急にしてくより、異なる体系それぞれのアプローチを、マルチ・レイヤーに(重層的に)重ねてった方が対象(「国際関係」なり「神話」なり)の実態を浮かび上がらせ易い。
 こんな分野でも、個別の論題を扱って、“客観性”を目指す論述は「評論」であり得る。

 「評論」は批判でもあり得るし、批判を1部に含むことは割と多い。けれど、これらが正当な言説になるのも、いわゆる“客観性”が重視され、目指されてる場合の話だ。
 乱暴に言えば、ある評論が、批判も含んでる場合、その批判の論拠、論旨が、“客観的”に見て正しければ、その論は「正しい」と言われる。実際は、多くの「評論」は、いくつかのサブ・ルーチンが複合して、論旨が組み立てられる。だから、あるフェイズは正しいけれど、別のフェイズは正しくない、といったこともよくあるけれど。

批評i:
 「批評」とは、まず「文芸の1ジャンル」だ。
 そして、例えば「批評文芸」という言葉はあるけれど、「批判文芸」って言葉はしっくりこない。
 「風刺文芸」という言葉ならあるけど。風刺は、決して“客観的”な事柄の表明ではなく、往々にして、その表現がフェア(公正)でないことも珍しくは無い。

 もともと、文芸がよく取り扱える内容は、いわゆる“客観性”を重視するものではないからだ。
 つまり、「“客観性”を重視する事柄」は、必ずしも文芸が得意にする事柄ではなく、文芸が得意にする事柄も別にある。
 例えば批評文芸でも扱われる「言語表現の美感」や、「作品体験の感動」などは、“客観的”な事柄ではない。
 いわゆる“客観性”を重視する文芸がいけないと、言っているわけではない、強いて言えば、その類は、現在では文芸の周縁的な位置に位置づけられる情勢、と言っている。

 批評文では、典型的には筆者が体験した「美的体験」の類が扱われる。
 批評文芸は、別に音楽についての美的体験(音楽体験)を扱っても構わない。「批評文芸」と「文芸批評」は違う。
 ここで言う「美的体験」は、「感動体験」とでも言った方がわかりがいいかもしれない。
 けれど、社会通念から内容的に「いいこと」と期待される類の「感動」だけが、もんだいではないのだ。
 例えば、ある種のホラー作品や、サスペンス作品の“体験”で味わえる「戦慄感」や「不安感」も、それが充分強ければ、「美的体験」であり「快美感」であり、「感動体験」。つまり、体験者である「わたし」の意識を強くかく乱する情動が喚起され、強く印象付けられる内容があれば、それを扱うのが「批評」ってこと。

 それから、批評文では、(体験の)言語化の妥当性が必ず問われる。「言語化の妥当性」とは、筆者による言語化に「なるほど感」があるかどうか、どの程度あるか、といったことで、それが問われる。
 “客観性”の有無は、「批評」では、必須のもんだいではない。2の次になる。
 “客観性”も、批評の題材や展開に応じて、問われたり問われなかったりはする。

批判:
 批評は「文芸の1ジャンル」だけど、「批判」は、言語行為の種類だ。
 「批判」は、もっぱら対象の良くない点、困る点、改めるべき点などなどを指摘する。

 批評も評論も理想的には、良い点も良くない点も扱う。
 その証拠に、「批判色」の強い評論や批評は、「辛口評論」「辛口批評」などと呼ばれたりする。
 批評、評論と、「批判」とでは、カテゴリの階層自体が違うから、わざわざ「辛口」とか頭につけて、特色を弁別するわけ。

 にも関らず、世間で、評論、批評と「批判」とが混同されがち。これは、もしかしたらTVとかに出てくる、批評家や評論家の人たちの間で、もっぱら「批判」ばっかり言ってるような人の、印象が強いからかもしれない。
 実際は、TVに出てるような評論家さん、批評家さんも、「批判」ばっかり言ってるような人だけでもないけど。「批判」ばっかり言ってる人と比べると、どうしても印象が薄くなるよね。

 アタシは「批評と評論との区別」には拘りがあるわけだけど。その拘りから言えば、「評論は『批判』でもあり得る」。けれど「単なる『批判』は、それだけでは批評ではあり得ない」。
 上の考えは、決してアタシだけの自説ではなく、「評論と批評の区別」に拘る人たちにも、ある程度支持者は見出せるはずの考えだ。つまり、「評論と批評の区別」に拘る場合、何通りかに整理しえる考え方の1流派に属す。

批評と評論ii:
 すごく大雑把に書いてみると。
 「評論」が取り扱う対象は“客観的”な何か、“客観的”に論じることに意味がある何か。
 「批評」がもっぱら取り扱う対象は、“体験”や「印象」など、そもそも“主観的”な事柄だ。

 このアタシの拘る考え方を、極端化したケースで説明してみる。
 例えば、乗用車についての評論は、もっぱらハード・スペックや工学的な特性から、乗用車の性能を説明する論だ。
 これに対して、乗用車を運転する際のドライブ感覚、快適感、使用感覚、などなどの“主観的”体験を中心的に論じるのが批評だ。多くの場合、運転時のドライブ感覚を論じるにも、ハード・スペックのデータも引用されるだろう。
 けれど、ハード・スペックなどの材料も、運転手に体感される感覚を中心的に論じるために用いられれば、それはアタシが拘る「批評」になる。

 実は、「批評」と「評論」を区別しないこともあるのには、理由もなくはない。実際はクロス・オーバーしてるわけだから。
 アタシは、例えば「文芸批評」の類を「批評文芸」の典型例として考えるのが拘りなので、どうしても、区別に拘ってしまう。それだけのことだ。
 つまり、「批評」の1部を構成する材料として、「評論」的な要素も組み込まれている場合には、当然、その範囲については“客観的”にみて正しいかどうかも、もんだいになる。
 ただ、ある批評文のトータルな評価軸は、“客観的”な正しい/正しくないにはなく、言語表現の妥当性の方にある。

 文芸批評が扱う、「作品(文芸作品)」なり、「作家」なりは、“客観的”な対象ではないか? と思うかもしれないけれど。
 ある文芸批評が扱うのは、「作品を通して得られる体験(作品体験)」だし、「作家」を扱う場合も「作品体験を通して得られる作家像(作家性)」を扱う
 実際は、文芸批評に含まれたり含まれ無かったりする「作家論」と、伝記文芸の1類である「作家評伝」はクロス・オーバーすることもある。つまり、世間で「作家論」と呼ばれる文芸批評の内にも“評伝”的な要素が含まれてることもあるし、世間で「作家の評伝」とみなされる伝記文芸の内にも「作家論」の要素が含まれてることもある。
 けれど、考え方としては、「批評」が中心的に扱うのは、“主観的”な“体験”だ、というのがアタシの拘り。

批評文と感想文:
 典型的な感想文を「筆者が、ある作品をどう読んだかの“読書体験”」を言語化する文章、とすると。
 典型的な批評文(文芸批評)は「筆者の方が、ある作品に引き込まれた“作品体験”」を言語化する文章、と言える。
 ここで言う“読書体験”と“作品体験”は、無関係な体験では無い。
 “読書体験”と“作品体験”は、どちらも“主観的”な体験で、潜在的には同質の体験だ。
 けれど、言語化するときの視点や手法が、少し違う。それで、言語化された文章は、ちょうどネガ-ポジのような感じの関係になる。
 つまり、「筆者が、ある作品をどう読んだか(言語化された読書体験)」の陰陽を反転した陰画のようなものが「筆者の方が、どのように、ある作品に引き込まれたか(言語化された作品体験)」にあたる。

 この“陰画(のようなもの)”の比喩は、「筆者が、感想を得るに至った経緯やメカニズム」をくっきりした感じで言語化することを、喩えている。
(「感想文」の類では、「感想を得るに至った経緯やメカニズム」は、必ずしも書かれなくても構わない。通例は、「どんな感想を得たか」の方が、表立ってくっきりと言語化される)

批評ii:
 「批評」とは、典型的には「わたしが“体験”した美的体験や感動体験」について中心的に記す、文芸の1ジャンル、というのがアタシの拘りだ。

 「批評」を通して問われるのは、何よりも“主観”に開示される経験の内実。
 典型的な感想文では、「わたし(筆者)が作品について、何を感じたか(感想)」を言語化する。
 これに対し、典型的な批評文(文芸批評)では「作品を読む体験を通して、作品の方から、わたしの内部に告げ知らされる(開示される)感覚や、像、意味について」が言語化される。
 「批評」を通して問われる「経験の内実」とは、「どのような感覚や、像や、意味が、どんなふうに、作品の方からわたしの内部に訪れたか(喚起され、誘発され、形成されたか)」の経緯や、メカニズムなどのことだ。

 「単なる批判は、それだけでは批評ではあり得ない」のは、「わたしの美的体験、感動体験、作品体験」にとって、「対象に向ける“客観的”な批判」よりも「私が“体験”した美的体験や快美感などについての過不足無い自己批評」の方が遙かに重要だからだ。

 「批評」に必要な「過不足ない自己批評」も、もちろん、いわゆる「自己批判」とイコールではない。
 例えば、筆者が自分の言語感覚の内から、“体験”について「ぴったり言い当てる感じ」の表現を求めることとかが、「過不足無い自己批評」ってこと。
 批評の論題によっては、「自己批評」が「自己批判」に至ることもあるだろうけれど。常に至るわけではない。

アタシにとっての批評とは:
 アタシにとっての「批評」とは、「なんらかの強い“体験”について、自分の“体験”を自ら整理して言語化し、その整理や言語化の妥当性を広く読者に問う、文芸」を指す総称だ。
 「自分の“体験”を、自ら整理して言語化」する行為を「自省」と呼び、本人が納得した自省は「経験化」と呼ばれる。つまり、“体験”は、当人の自省を経て経験化(言語化)される。
 ここで言う、「自省」が、複数うまく連携するよう整理(アッセンブル)されたものが、先に触れた「自己批評」。

 批評文では、筆者が、「感想を得るに至った経緯やメカニズム」を自省し、くっきりした感じで言語化することで“体験”を整理しながら言語化する。この一連の作業が、うまく連携されれば「自己批評」にあたる。
(実際には、批評文として公開されている文章でも「自己批評が甘い」などとコメントされることは珍しくは無い。多くの場合、これは「自己批判が中途半端」と言った意味ではない。むしろ「“体験”の自省が中途半端」とか、「幾つかの自省のアッセンブルがうまく連携していない」といった意味であることが多い)

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 例えば、アタシが典型的に批評文芸と思う作品を、2、3、挙げてみたい。

 竹田青嗣さんの『陽水の快楽』。この、1冊本の「批評」では、著者が、井上陽水の楽曲から味わった快楽(美的体験)の特性と、その快楽が誘発されるメカニズムが整理されている。さらに、楽曲からうかがわれる陽水ってアーティストの特性(作家性)も論じられている。

 柄谷行人さんの『マクベス論』。この中編批評は、「意味に憑かれた人間」って副題が付されてて、現在は『意味という病』って、批評文集の巻頭に採録されている。
 今、ここでは、批評集の巻頭に置かれることで強調される意味は2の次に置いておく。
 『マクベス論』は、筆者が、『マクベス』って物語体験の繰り返しから感知した、世界崩壊の経験を焦点にして論じられる、作品論でもある。『マクベス』では、主人公マクベスが経験する世界の崩壊感覚、意味解体の経験を通して、「人間は、普通は意識していないけれど、実は意味に憑りつかれて暮らしている」って事柄が、読者に開示される、というのが、筆者が読者に示している作品読解。
 『マクベス論』の価値は、例えば「『マクベス』ってテクストが、時代を越えて多様な解釈を許容しているのは、実は、時としてある個人を訪れる『世界の崩壊感覚』や、『意味解体の経験』が描かれているからだ」的な示唆が印象深いとこ。もちろん左記の『マクベス論』解釈も、又、アタシなりの要約(解釈)にすぎない。

 坂口安吾さんの『文学のふるさと』。この短編批評では、作家で批評家の坂口安吾さんが、その作家人生の過程で“体験”してきた、様々なテクスト体験が重層的に論じられている。つまり、幾つものテクスト体験が論じられつつ重ねあわせられることで、作家坂口安吾の考える「文学のふるさと」の、(その考え方の)妥当性が、広く読者に問われている。
(坂口さんの『文学のふるさと』は、青空文庫で読むこともできます。⇒青空文庫採録の『文学のふるさと』
 坂口安吾さんの批評文については、『堕落論』『続堕落論』も挙げるべきなのだろうけど。挙げると話が大事になりすぎるので。別の機会に譲りたいと思います。
 ただ、この文章の文脈に引き寄せて書いておくと、『堕落論』も『続堕落論』も、作家坂口安吾が“体験”した「敗戦体験」をベースに論じ、まず、第1には、「発表当時の読者に広く、『敗戦と堕落』についての考え方を問うた文章」と要約できます。
 それが、時代を越えて、第1想定読者以外(現在の読者)にも訴えかける力を持っているのは、文芸の力と、内省の深さとが共に備わっている作品だからだろう、と思います。

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 「アタシにとっての批評とは何か」改めて言い直したい。
 アタシにとっての「批評」とは、「筆者自身が“体験”した、なんらかの強い“体験”について、自省(自己批評)と経験化(言語化)の結果書かれた文芸」であり、「公にされることで、その自省や言語化(経験化)の妥当性が、広く読者に問われる文芸」の総称だ。
 あらゆる“体験”は“主観的”でもある事柄なので、自省(自己批評)は必須だ。“体験”をストレートに書き記すのは、それは「批評」とは似て非なる感想文にあたる。

 アタシにとっての批評文を、できる限り平明に言ってみると次のようになる。
・批評文は、文芸の1ジャンル「批評」に属す。
・批評文が扱うのは、筆者自身が“体験”したなんらかの“体験”で、普通は強い体験が扱われる。例えば「作品体験」を扱う批評文が典型的だけど、世の中には「恋愛体験」を扱った「恋愛批評」だってある。
・“体験”自体を言語化する文芸に感想文もあるけれど。批評文では、「“体験”の意味や、メカニズム(なぜそんな感じを受けたかなど)」までも必ず扱う(感想文では、必ずしも扱わなくてもいい)。
・批評文で「“体験”の意味や、メカニズム」を扱うために、外せない作業が自省(“体験”の自省)で、外せない手法が、言語化(“体験”の言語化)だ。

 「批評」と類縁の、あるいは近接するカテゴリーとの関係は次のようになる。
・「批評」は、扱う題材が「評論」とは違う。違うけれど、実際は、部分的にクロス・オーバーすることもある。
・批評文は、感想文とは、かなり近い関係にある。扱う題材もほぼ同じだ。ただ、言語化するときの筆者の視点や手法が異なる。それで書かれた批評文と感想文は、かなり違った感じになる。
・「批評」と「批判」は、かなり違う。ただ、批評文の1部に評論的な要素が含まれている場合は、その部分で批判が表明されることもある。けれど、ある批評文トータルの評価軸は、批判が正しいか正しくないかにはない。あくまで“体験”の言語化が妥当かどうか、にある。

 なお、「批評」にとっては自己批評(自省)が必須で、自己批判は必ずしも、必須ではないのだけど。
 これも「なんらかの強い“体験”についての自省を、経験化(言語化)しつつ公に問う、文芸」という基本の考え方から導き出される考え方だ。
(繰り返すけど、これらの考え方は、必ずしもアタシ独自の自説でもない、言い方にはヴァリエーションもあるけれど)

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「アタシにとって批評文とは何か」筆者ノート

 親記事「アタシにとって批評文とは何か」は、2009年4月12日に初稿を公開して、短期間に数次の改訂を重ね、翌13日に改訂版として扱うに至った。

 概ね、同じ意味の文章のより読みやすい版への改訂から、意味もかなり刈り込んだ改訂版への改稿に至ったからだ。
 似たような経緯を経ている文章として「作品の構成、と、テクストの構造(保守反動的テクスト論)改訂版」もある。
 どちらも、マニュフェスト的な狙いの文章で、複数の版を公開しておくと、混乱の元になる、との判断から、旧版は手もとのデータでとってあるのみ。

◎反省と総括
 「作品の構成、と、テクストの構造(保守反動的テクスト論)」と比べても、「アタシにとって批評文とは何か」の改訂作業は、だらしなかった。
 勢いで、文章を公開してはいけない。
 読み(予想)も推敲も甘かったことの、反省は、これにつきます。

 一応、覚えとして経緯を記しておくと。
 4月11日に、紹介文「地獄少女=閻魔あいの完全復活!(アニメ『地獄少女 三鼎』第23話~26話)」を公開し、翌12日に、批評文「あいの魂は、なぜ現世に戻ってきたか?(アニメ『地獄少女 三鼎』第23話~26話)」を公開。
(この辺の経緯は「今年の目標」着手記念☆」に)

 その勢いで、親記事の初稿版を公開したのが敗因でした。

◎改訂について
 改訂作業は、大きく2つのフェイズに大別したい。

 まず、初稿公開時から、「アタシが目指す批評とは」のコメント分離までに至った第1フェイズ。
 このフェイズでは、主に「文章表現CDK」でいただいたコメントを踏まえさせていただきました。
 あちらは、非公開チャンネルなので、どなたにどんなコメントをいただけたかは、控えさせてもらいます。
 ただ、「想定読者に中学生を想定するといいのではないか」とのコメントをいただいたことは記しておきます。
 このコメントは、アタシももっともなものと思うのですが。
 アタシの能力のもんだいで、「高校生になら通じるわかりやすさ」って妥協をして改訂してみました。
 それも、手元の岩波ジュニア新書や、『高校生のための批評入門』他(筑摩書房)を参照して「高校生になら通じる」想定をしてるので、「高校生なら誰でもわかってもらえる」水準にも達してはいないと思います。妥協です。

 次に、irc.cre.jp#もの書き系チャンネルでいただいた、コメント。このコメントで、「改訂版」への移行作業に至ったフェイズを第2フェイズとしておきます。
 大まかには、13日の昼前後に多数のコメントをいただき、同日夕刻にかけて改訂作業。
 これらのコメントの内、特に十一代目三遊亭夜遊さん(Banyu11thさん)に多くの具体的な指摘を、yosiyamaさんに、有益なヒントになるコメントを多数、いただきました。
 感謝いたします。
2009年4月13日9:00~

 さらに15日、16日にも、#もの書き系チャンネルでコメントをもらい、再度改訂作業。どうもありがとうございます。

2009年4月15日9:00~
2009年4月16日10:00~

アタシが目指す批評とは

 こちはのコメントは、当初、親記事の最終節として書いてみたものです。
 「できるだけ平明に、できる限り飾らずに書く」ためには、まだまだ、アタシの知恵が足りないようなので、今は諦めることにしました。
 つまり、こちらの文章は、少なくとも平明ではありません。

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 さて、アタシは、批評文を書こうと試みるとき、しばしば、作品の準客観的な構成を重視し、それを分析する「分析的な読み」を手法として選択する。
 これは「手法としての選択」にすぎない。

 できるだけ平明に言ってみよう。

 アタシが目指す批評は、例えば「ある作品の意味産出構造から、わたしにはこのような意味が開示された、という事態の妥当性を、広く読者に問う試み」だ。

 あまり平明には言えていない。

 かなり乱暴に言い直してみよう。

 例えば、「ある作品の準客観的な構成」を「富士山のようなもの」と比喩してみたい。
 あくまで比喩だ。

 富士山を描いた絵や、写した写真は無数にある。
 それぞれの作品の“作者”を作品公表に向かわせた体験の内実は様々であるだろうし、それぞれの作品から、さまざまな人が感知する美的体験(美感)の内実も様々だ。

 けれど、それぞれの美的体験の内実は、理想的には交感可能な体験であるはず、と、アタシは信じる。
 公開された作品から得られる美感が充分強く、作品の彼岸に「“作者”にとっての富士山という美的体験」が信じ得る場合、その信憑という1点をピン・ホールのようにして、交感は可能になるはずだ。

 乱暴な言い方な割りに、平明になってくれない。

 言い方をさらに、修正してみよう。

 先に“富士山”と言ってみたのは比喩だ。実際の富士山は、一応実在している。
 ただ、ある地形を限定的に「富士山」と呼び慣わすのは、日本語の習慣に過ぎない(だから“実在”は“一応”の事柄にしかすぎない)。

 「ある作品の準客観的な構成」は、それなりの客観性を有す事柄だけど。
 「作品の構成」に重なるように隣接する「意味の産出構造」は、決して客観的なものではない。
 アタシは、このことをすでに「作品の構成、と、テクストの構造(保守反動的テクスト論)」改訂版で論じている。

 ここで、全面的な再説をするつもりはないけれど。
 こうは言ってもいい。
 「テクストとは、準客観的な文字列を読むという主観的な体験(テクスト体験)を通してのみ見出される」。
 つまり、「準客観的な構成を持つ文字列は、実はそれ自体はテクスト『ではない』」。
 「『テクストの構造』とは『作品の構成(あるいは文章の構成)』をベースに含んで、より、広いレイヤーとも関わる動態構造」と言う場合の「構造(動態構造)」とは、決して「客観化し得る構造」ではない。
 あるいは、保守反動的テクスト論で、「読者による多様な解釈を許容する“作品”ほど『テクスト性』が高い」という場合の「テクスト性」も決して“客観的”な尺度ではない。
 それは、同等の、あるいは近縁、ないしは近似の経験を持っている複数の主観の間でのみ確かめあえる(間-主観的にのみ交感可能な)尺度だ。

 やっぱりあまり平明になってくれない。

とりあえずの暫定纏め「アタシが目指す批評とは」:
 仕方ないので、とりあえず乱暴に纏めておこう。
 アタシが理想として目指す批評文では、しばしば、作品の準客観的な構成を重視し、それを分析する「分析的な読み」を「手法として選択」する。

 乱暴に言えばこうだ。
 例えば、同じような構成を認知する主観の間では、「あなたには、構成のあのヵ所は、そのように“読めた”のか、実は私にはこのように“読めた”」といった交感も可能になる。

 あるいは、完全に同じ作品構成は認知しない主観の間でも、次のような交感はあり得る「あなたは、その作品の構成をそのように記述するが、それはなぜか? 私には、この作品の構成はこのようなものとしか思えないが」と。

 もんだいは、「作品の構成」は準客観的な事柄だけど「意味の構造(意味の産出構造)」は決して客観的なものではないことだ。
 そのことを、アタシは「宙空に吊るされたモビール細工」に喩えることがある。つまり、「意味の構造」は記述する行為自体によって、しばしばその顕れを変貌させる(モビール細工は揺らめき、回転する)。
 だからこそ、作品体験に開示される意味(意味産出)の内実を交感しあうには、共有し得るベースとして「準客観的な作品の構成」を重視する必要がある。

 アタシが理想として目指す批評文では、しばしば、「分析的な読み」を「手法として選択」するが、「分析的な読み」自体は経過であって目的ではない。

 批評を通して問われるべきは、何よりも主観に開示される経験の内実だ。


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