アタシにとって批評文とは何か(改訂版)
「アタシにとって批評文とは何か」。
今時点の考えを、できるだけ平明に、できる限り飾らずに、書いておきたい。
今年の個人的目標として、「しっかりした批評文を書きたい」を掲げてるので、そろそろ、今の自分の考えを整理しておくタイミングと思う。
この文章は、大げさに言えば、マニュフェストみたいなもんで、「これから当分、こういう考え方で批評文を書いてきます」って整理。
それでも、「アタシにとって批評文とは何か」の考えを、少しでも多くの人にわかってもらえるよう、書いてみます。
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アタシにとって批評文は、ただの感想文ではない。
感想文とも、極、近い関係にはあるけど違う。
まず「自分の“体験”の内実を、感想を得るに至るような経緯やメカニズムにも遡って、言語化し、整理する文章」が批評文。この“体験”には、例えば、読者が小説に引き込まれて感じるような「作品体験」も含む。
「実体験」以外も含むってこと。
そして、「公表することで、自分の“体験整理”、言語化の妥当性を、広く読者に問う」そんな文章の総称が「批評」だ。
これが、アタシが書いていきたい批評文。
批評文は、様々な“体験”を扱えるけれど、アタシの拘りでは、文芸作品の作品体験を扱う「文芸批評」を典型的な批評文として考えている。
批評と評論:
まず、世間では「『批評』と『評論』の区別をつけない」ことも少なくない。
けれど、実は、評論家なり批評家なりをやってる人たちの間には、区別に拘る人もいれば拘らない人もいる。
こーゆー場合、世間の方には、せめて「当事者たちの間には、拘りもあったりするらしい」くらいの認知を求めたいけど。そのためにも「当事者たち」の方から世間に対する説明は心がけるべきとも思う。
アタシは、アタシなりの拘りで「『評論』ではなくて『批評』を書いていきたい」と思ってるけど。それが他の人に「評論」と呼ばれたとしても、あんまり気にしたりはしない。そういうこと。
批評と批判:
次に、世間では「『批評』、『評論』と、『批判』の区別をつけない」ことはかなり多い。
アタシとしては、「批評」「評論」と「批判」とは、別種のカテゴリ、と、はっきり指摘しとく。
「評論」も「批評」も、あるいは、「評論」に「批評」を含めるものも、すべて文芸のジャンルだけど、「批判」は言語行為の種類名。機能をみれば階層自体が違う。
つまり、「批評」や「評論」を「中華料理」や「日本料理」の階層だとしてみると、「批判」は、「ラーメン」とか「味噌汁」とかの階層。
辞書の内には、「批判」の項に「批評」や「評論」と意味が重なるかのように説明されてる例もあるけれど。これらは、語源に遡ると意味の重なりもあった、って事情から書かれてるのだろう。
今、日常会話では「批判」と言えば、第1に「何か困った点などを指摘する」って意味で使われるので。「批評」も「評論」も「批判」とは区別した方がいい。
「批評」も「評論」も、内容が「批判」であるとは限らないからだ。
評論:
「評論」は、大まかに言っちゃえば、「なんとか論」の類のこと、と、思えば概ね近い。
「神話論」とか「恋愛論」とか「人生論」とかいろいろある。
まず、大づかみなとこからみてみる。
「ある程度体系化された論述で、通例、さらなる体系化がめざされる諸言説の総称」が、「評論」を大づかみにみたときの特徴になる。例えば、英語で、“~~ロジイ”(~~logy)と呼ばれる類が、ここで言う「大づかみにみた評論」と、言える。
次に、「批評」についてのアタシの拘りとの関係付けて、「評論」をみてみる。
うえに説明した評論類の内でも、完全には“客観的”になりきれないけど、それでも“客観性”を目指す部類が、典型的に「評論」らしい。
完全に、“客観的”な分野になると、これは、学術だよね。biology(生物学)とか。
例えば「社会学(sociologie)」とかになると、完全な“客観性”は不可能なはずなんだけど、それでも、より“客観的”な体系整理が目指されてはいるはず。この辺が典型的な「評論」に目立つ特徴と思える。
例えば、「国際関係論」とか「神話論」とかは、学術ではあるし、体系化も目指されるんだけど。今のところ、充分な体系化には至れないでいる。「学際的」な分野。つまり、きちんとした体系化を性急にしてくより、異なる体系それぞれのアプローチを、マルチ・レイヤーに(重層的に)重ねてった方が対象(「国際関係」なり「神話」なり)の実態を浮かび上がらせ易い。
こんな分野でも、個別の論題を扱って、“客観性”を目指す論述は「評論」であり得る。
「評論」は批判でもあり得るし、批判を1部に含むことは割と多い。けれど、これらが正当な言説になるのも、いわゆる“客観性”が重視され、目指されてる場合の話だ。
乱暴に言えば、ある評論が、批判も含んでる場合、その批判の論拠、論旨が、“客観的”に見て正しければ、その論は「正しい」と言われる。実際は、多くの「評論」は、いくつかのサブ・ルーチンが複合して、論旨が組み立てられる。だから、あるフェイズは正しいけれど、別のフェイズは正しくない、といったこともよくあるけれど。
批評i:
「批評」とは、まず「文芸の1ジャンル」だ。
そして、例えば「批評文芸」という言葉はあるけれど、「批判文芸」って言葉はしっくりこない。
「風刺文芸」という言葉ならあるけど。風刺は、決して“客観的”な事柄の表明ではなく、往々にして、その表現がフェア(公正)でないことも珍しくは無い。
もともと、文芸がよく取り扱える内容は、いわゆる“客観性”を重視するものではないからだ。
つまり、「“客観性”を重視する事柄」は、必ずしも文芸が得意にする事柄ではなく、文芸が得意にする事柄も別にある。
例えば批評文芸でも扱われる「言語表現の美感」や、「作品体験の感動」などは、“客観的”な事柄ではない。
いわゆる“客観性”を重視する文芸がいけないと、言っているわけではない、強いて言えば、その類は、現在では文芸の周縁的な位置に位置づけられる情勢、と言っている。
批評文では、典型的には筆者が体験した「美的体験」の類が扱われる。
批評文芸は、別に音楽についての美的体験(音楽体験)を扱っても構わない。「批評文芸」と「文芸批評」は違う。
ここで言う「美的体験」は、「感動体験」とでも言った方がわかりがいいかもしれない。
けれど、社会通念から内容的に「いいこと」と期待される類の「感動」だけが、もんだいではないのだ。
例えば、ある種のホラー作品や、サスペンス作品の“体験”で味わえる「戦慄感」や「不安感」も、それが充分強ければ、「美的体験」であり「快美感」であり、「感動体験」。つまり、体験者である「わたし」の意識を強くかく乱する情動が喚起され、強く印象付けられる内容があれば、それを扱うのが「批評」ってこと。
それから、批評文では、(体験の)言語化の妥当性が必ず問われる。「言語化の妥当性」とは、筆者による言語化に「なるほど感」があるかどうか、どの程度あるか、といったことで、それが問われる。
“客観性”の有無は、「批評」では、必須のもんだいではない。2の次になる。
“客観性”も、批評の題材や展開に応じて、問われたり問われなかったりはする。
批判:
批評は「文芸の1ジャンル」だけど、「批判」は、言語行為の種類だ。
「批判」は、もっぱら対象の良くない点、困る点、改めるべき点などなどを指摘する。
批評も評論も理想的には、良い点も良くない点も扱う。
その証拠に、「批判色」の強い評論や批評は、「辛口評論」「辛口批評」などと呼ばれたりする。
批評、評論と、「批判」とでは、カテゴリの階層自体が違うから、わざわざ「辛口」とか頭につけて、特色を弁別するわけ。
にも関らず、世間で、評論、批評と「批判」とが混同されがち。これは、もしかしたらTVとかに出てくる、批評家や評論家の人たちの間で、もっぱら「批判」ばっかり言ってるような人の、印象が強いからかもしれない。
実際は、TVに出てるような評論家さん、批評家さんも、「批判」ばっかり言ってるような人だけでもないけど。「批判」ばっかり言ってる人と比べると、どうしても印象が薄くなるよね。
アタシは「批評と評論との区別」には拘りがあるわけだけど。その拘りから言えば、「評論は『批判』でもあり得る」。けれど「単なる『批判』は、それだけでは批評ではあり得ない」。
上の考えは、決してアタシだけの自説ではなく、「評論と批評の区別」に拘る人たちにも、ある程度支持者は見出せるはずの考えだ。つまり、「評論と批評の区別」に拘る場合、何通りかに整理しえる考え方の1流派に属す。
批評と評論ii:
すごく大雑把に書いてみると。
「評論」が取り扱う対象は“客観的”な何か、“客観的”に論じることに意味がある何か。
「批評」がもっぱら取り扱う対象は、“体験”や「印象」など、そもそも“主観的”な事柄だ。
このアタシの拘る考え方を、極端化したケースで説明してみる。
例えば、乗用車についての評論は、もっぱらハード・スペックや工学的な特性から、乗用車の性能を説明する論だ。
これに対して、乗用車を運転する際のドライブ感覚、快適感、使用感覚、などなどの“主観的”体験を中心的に論じるのが批評だ。多くの場合、運転時のドライブ感覚を論じるにも、ハード・スペックのデータも引用されるだろう。
けれど、ハード・スペックなどの材料も、運転手に体感される感覚を中心的に論じるために用いられれば、それはアタシが拘る「批評」になる。
実は、「批評」と「評論」を区別しないこともあるのには、理由もなくはない。実際はクロス・オーバーしてるわけだから。
アタシは、例えば「文芸批評」の類を「批評文芸」の典型例として考えるのが拘りなので、どうしても、区別に拘ってしまう。それだけのことだ。
つまり、「批評」の1部を構成する材料として、「評論」的な要素も組み込まれている場合には、当然、その範囲については“客観的”にみて正しいかどうかも、もんだいになる。
ただ、ある批評文のトータルな評価軸は、“客観的”な正しい/正しくないにはなく、言語表現の妥当性の方にある。
文芸批評が扱う、「作品(文芸作品)」なり、「作家」なりは、“客観的”な対象ではないか? と思うかもしれないけれど。
ある文芸批評が扱うのは、「作品を通して得られる体験(作品体験)」だし、「作家」を扱う場合も「作品体験を通して得られる作家像(作家性)」を扱う。
実際は、文芸批評に含まれたり含まれ無かったりする「作家論」と、伝記文芸の1類である「作家評伝」はクロス・オーバーすることもある。つまり、世間で「作家論」と呼ばれる文芸批評の内にも“評伝”的な要素が含まれてることもあるし、世間で「作家の評伝」とみなされる伝記文芸の内にも「作家論」の要素が含まれてることもある。
けれど、考え方としては、「批評」が中心的に扱うのは、“主観的”な“体験”だ、というのがアタシの拘り。
批評文と感想文:
典型的な感想文を「筆者が、ある作品をどう読んだかの“読書体験”」を言語化する文章、とすると。
典型的な批評文(文芸批評)は「筆者の方が、ある作品に引き込まれた“作品体験”」を言語化する文章、と言える。
ここで言う“読書体験”と“作品体験”は、無関係な体験では無い。
“読書体験”と“作品体験”は、どちらも“主観的”な体験で、潜在的には同質の体験だ。
けれど、言語化するときの視点や手法が、少し違う。それで、言語化された文章は、ちょうどネガ-ポジのような感じの関係になる。
つまり、「筆者が、ある作品をどう読んだか(言語化された読書体験)」の陰陽を反転した陰画のようなものが「筆者の方が、どのように、ある作品に引き込まれたか(言語化された作品体験)」にあたる。
この“陰画(のようなもの)”の比喩は、「筆者が、感想を得るに至った経緯やメカニズム」をくっきりした感じで言語化することを、喩えている。
(「感想文」の類では、「感想を得るに至った経緯やメカニズム」は、必ずしも書かれなくても構わない。通例は、「どんな感想を得たか」の方が、表立ってくっきりと言語化される)
批評ii:
「批評」とは、典型的には「わたしが“体験”した美的体験や感動体験」について中心的に記す、文芸の1ジャンル、というのがアタシの拘りだ。
「批評」を通して問われるのは、何よりも“主観”に開示される経験の内実。
典型的な感想文では、「わたし(筆者)が作品について、何を感じたか(感想)」を言語化する。
これに対し、典型的な批評文(文芸批評)では「作品を読む体験を通して、作品の方から、わたしの内部に告げ知らされる(開示される)感覚や、像、意味について」が言語化される。
「批評」を通して問われる「経験の内実」とは、「どのような感覚や、像や、意味が、どんなふうに、作品の方からわたしの内部に訪れたか(喚起され、誘発され、形成されたか)」の経緯や、メカニズムなどのことだ。
「単なる批判は、それだけでは批評ではあり得ない」のは、「わたしの美的体験、感動体験、作品体験」にとって、「対象に向ける“客観的”な批判」よりも「私が“体験”した美的体験や快美感などについての過不足無い自己批評」の方が遙かに重要だからだ。
「批評」に必要な「過不足ない自己批評」も、もちろん、いわゆる「自己批判」とイコールではない。
例えば、筆者が自分の言語感覚の内から、“体験”について「ぴったり言い当てる感じ」の表現を求めることとかが、「過不足無い自己批評」ってこと。
批評の論題によっては、「自己批評」が「自己批判」に至ることもあるだろうけれど。常に至るわけではない。
アタシにとっての批評とは:
アタシにとっての「批評」とは、「なんらかの強い“体験”について、自分の“体験”を自ら整理して言語化し、その整理や言語化の妥当性を広く読者に問う、文芸」を指す総称だ。
「自分の“体験”を、自ら整理して言語化」する行為を「自省」と呼び、本人が納得した自省は「経験化」と呼ばれる。つまり、“体験”は、当人の自省を経て経験化(言語化)される。
ここで言う、「自省」が、複数うまく連携するよう整理(アッセンブル)されたものが、先に触れた「自己批評」。
批評文では、筆者が、「感想を得るに至った経緯やメカニズム」を自省し、くっきりした感じで言語化することで“体験”を整理しながら言語化する。この一連の作業が、うまく連携されれば「自己批評」にあたる。
(実際には、批評文として公開されている文章でも「自己批評が甘い」などとコメントされることは珍しくは無い。多くの場合、これは「自己批判が中途半端」と言った意味ではない。むしろ「“体験”の自省が中途半端」とか、「幾つかの自省のアッセンブルがうまく連携していない」といった意味であることが多い)
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例えば、アタシが典型的に批評文芸と思う作品を、2、3、挙げてみたい。
竹田青嗣さんの『陽水の快楽』。この、1冊本の「批評」では、著者が、井上陽水の楽曲から味わった快楽(美的体験)の特性と、その快楽が誘発されるメカニズムが整理されている。さらに、楽曲からうかがわれる陽水ってアーティストの特性(作家性)も論じられている。
柄谷行人さんの『マクベス論』。この中編批評は、「意味に憑かれた人間」って副題が付されてて、現在は『意味という病』って、批評文集の巻頭に採録されている。
今、ここでは、批評集の巻頭に置かれることで強調される意味は2の次に置いておく。
『マクベス論』は、筆者が、『マクベス』って物語体験の繰り返しから感知した、世界崩壊の経験を焦点にして論じられる、作品論でもある。『マクベス』では、主人公マクベスが経験する世界の崩壊感覚、意味解体の経験を通して、「人間は、普通は意識していないけれど、実は意味に憑りつかれて暮らしている」って事柄が、読者に開示される、というのが、筆者が読者に示している作品読解。
『マクベス論』の価値は、例えば「『マクベス』ってテクストが、時代を越えて多様な解釈を許容しているのは、実は、時としてある個人を訪れる『世界の崩壊感覚』や、『意味解体の経験』が描かれているからだ」的な示唆が印象深いとこ。もちろん左記の『マクベス論』解釈も、又、アタシなりの要約(解釈)にすぎない。
坂口安吾さんの『文学のふるさと』。この短編批評では、作家で批評家の坂口安吾さんが、その作家人生の過程で“体験”してきた、様々なテクスト体験が重層的に論じられている。つまり、幾つものテクスト体験が論じられつつ重ねあわせられることで、作家坂口安吾の考える「文学のふるさと」の、(その考え方の)妥当性が、広く読者に問われている。
(坂口さんの『文学のふるさと』は、青空文庫で読むこともできます。⇒青空文庫採録の『文学のふるさと』)
坂口安吾さんの批評文については、『堕落論』『続堕落論』も挙げるべきなのだろうけど。挙げると話が大事になりすぎるので。別の機会に譲りたいと思います。
ただ、この文章の文脈に引き寄せて書いておくと、『堕落論』も『続堕落論』も、作家坂口安吾が“体験”した「敗戦体験」をベースに論じ、まず、第1には、「発表当時の読者に広く、『敗戦と堕落』についての考え方を問うた文章」と要約できます。
それが、時代を越えて、第1想定読者以外(現在の読者)にも訴えかける力を持っているのは、文芸の力と、内省の深さとが共に備わっている作品だからだろう、と思います。
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「アタシにとっての批評とは何か」改めて言い直したい。
アタシにとっての「批評」とは、「筆者自身が“体験”した、なんらかの強い“体験”について、自省(自己批評)と経験化(言語化)の結果書かれた文芸」であり、「公にされることで、その自省や言語化(経験化)の妥当性が、広く読者に問われる文芸」の総称だ。
あらゆる“体験”は“主観的”でもある事柄なので、自省(自己批評)は必須だ。“体験”をストレートに書き記すのは、それは「批評」とは似て非なる感想文にあたる。
アタシにとっての批評文を、できる限り平明に言ってみると次のようになる。
・批評文は、文芸の1ジャンル「批評」に属す。
・批評文が扱うのは、筆者自身が“体験”したなんらかの“体験”で、普通は強い体験が扱われる。例えば「作品体験」を扱う批評文が典型的だけど、世の中には「恋愛体験」を扱った「恋愛批評」だってある。
・“体験”自体を言語化する文芸に感想文もあるけれど。批評文では、「“体験”の意味や、メカニズム(なぜそんな感じを受けたかなど)」までも必ず扱う(感想文では、必ずしも扱わなくてもいい)。
・批評文で「“体験”の意味や、メカニズム」を扱うために、外せない作業が自省(“体験”の自省)で、外せない手法が、言語化(“体験”の言語化)だ。
「批評」と類縁の、あるいは近接するカテゴリーとの関係は次のようになる。
・「批評」は、扱う題材が「評論」とは違う。違うけれど、実際は、部分的にクロス・オーバーすることもある。
・批評文は、感想文とは、かなり近い関係にある。扱う題材もほぼ同じだ。ただ、言語化するときの筆者の視点や手法が異なる。それで書かれた批評文と感想文は、かなり違った感じになる。
・「批評」と「批判」は、かなり違う。ただ、批評文の1部に評論的な要素が含まれている場合は、その部分で批判が表明されることもある。けれど、ある批評文トータルの評価軸は、批判が正しいか正しくないかにはない。あくまで“体験”の言語化が妥当かどうか、にある。
なお、「批評」にとっては自己批評(自省)が必須で、自己批判は必ずしも、必須ではないのだけど。
これも「なんらかの強い“体験”についての自省を、経験化(言語化)しつつ公に問う、文芸」という基本の考え方から導き出される考え方だ。
(繰り返すけど、これらの考え方は、必ずしもアタシ独自の自説でもない、言い方にはヴァリエーションもあるけれど)
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