『解析 上杉家の軍事システム』河合秀朗(『歴史群像No.95』より) 龍の軍団の台所事情

 戦場でご飯を食べるには、いくつかの方法がある。

 ひとつは、食材や弁当を持って行き、戦場で食べるという自弁である。
 戦国時代では、最初の三日分の糧食は軍役の範疇ということで、自分で持っていくことになっていた。

 ふたつめは、城にある倉庫から兵糧米を持ち出して戦場まで運び、そこで兵士に配るという仕組みである。戦国時代には小荷駄という補給部隊があり、彼らに戦場までの配送を任せていた。

 みっつめは、現地調達である。戦場周辺の食料を集めて、これを食べる。これまた戦国時代には一般的な方法で、河合秀朗さんの記事によると上杉家の補給は主にこの現地調達に頼っていたらしい。

 ひとことで現地調達といっても、いろいろなやり方がある。

 まず、兵による掠奪であるが、これは軍事的にも政治的にもあまりよろしくない。掠奪をはじめると兵は散ってしまい、軍隊の持つ戦闘力は低下する。現地の住人の恨みも買うし、荒れた田畑や町では新たに支配したところで実入りが少ない。
 初期の上杉家では家臣団への支配力が小さかったこともあり、参陣の褒美という意味もこめて、掠奪を許さざるを得なかった。しかし、これでは奪うものがある間はいいが、長期の作戦となると奪うものがなくなり、飢えるか、掠奪するためさらに別の場所へイナゴの群れのごとく移動するかしかない。

 そこで、上杉謙信は現地の豪族ら支配層と渡りをつけて、掠奪をしないかわりに糧食などの補給を現地の住人に肩代わりさせた。謙信が義将と呼ばれるのは、この形式を成り立たせるためであったとも言える。
「どうか謙信様の武威をもって、侵略者を懲らしてくだされ」
「分かった、それでは代わりに補給はよろしく頼む」
 という感じである。

 軍の機動力を重視する謙信にとっては、足かせになる鈍重な補給部隊を拡充するよりは、現地調達(在郷領主による代行も含む)に頼る方が良かったのだろう。なお、『ガリア戦記』に書かれたカエサルの戦い方も、食料調達については親ローマ派のガリア部族に頼っている。

 けれども、補給物資を蓄える拠点および現地の協力者なくしては謙信の軍勢は長期、遠地での作戦行動が不可能になる。上杉謙信が、攻める時には勝利を重ねるものの、守りに入ると拠点を失い、奪還できなくなるのは補給能力の限界ゆえであったと考えられる。

 その後、謙信の後を継いだ上杉景勝直江兼嗣の元で、上杉家は織田・豊臣の軍制に従うようになるが、この改革は今ひとつであったようだ。特に関ヶ原の合戦では兵の数こそそろえたものの、その動きは全体的に鈍重である。

 しかし、関ヶ原の合戦で敗北し、石高で120万石から30万石に減封されるや、それまで二流どころか無能すれすれの実績しかあげていない直江兼嗣の中で何かが目覚めたらしい。
 兼嗣は、上杉家の徹底したリストラと合わせて軍制改革を精力的に行ったのである。

 謙信以来の伝統とも言うべき機動力重視の編成をすっぱり諦めた。そして、軽量だが火力の乏しい小型の火縄銃をやめ、大型で威力はあるがその分、重い火縄銃を標準装備にしている。
 前線部隊が火力重視型になったおかげで、補給部隊による足かせ問題は自動的に解消された。
 大阪の陣の頃には上杉家は、戦闘部隊3000人に対して補給部隊2000人を用意する、バランスのとれた軍隊になっていたのである。
 しかも、東北から大阪までの遠征という点も考慮し、兼嗣は3000人の戦闘部隊のうち、四分の一近い700人を「手明」の兵、すなわち鉄砲や槍を装備せず、糧食などの補給物資を運ぶ臨時の輸送部隊に切り替えている。

 こうして、上杉家は東北から大阪までの長距離遠征を2000人の専門の輸送部隊である小荷駄が担当し、戦場での物資運搬は700人の「手明」の兵が行うことで、1000人の鉄砲・大筒部隊を中心とする重火力戦闘部隊を縦横に戦わせることができたのである。

 現代の軍事科学的に見てもほぼ満点に近い上杉軍が戦国末期になって生まれたのは、御館の乱という内戦を泥臭く戦い、続く織田信長の大攻勢に良いところなくボロ負けし、朝鮮の役でもろくな活躍をせず、関ヶ原の戦いではぐだぐだな戦いぶりで無能をさらした――それらの敗北の積み重ねとその反省があってのことである。

 上杉景勝も、直江兼嗣も、一を聞いて十を知る天才ではない。どちらかというと、凡人に近いというのが歴史の本から私の感じるところだ。
 だが、たとえ凡人であっても失敗や敗北から学ぶことで、天才、名将に近いレベルにまで到達できる。そのことを、大阪の陣での上杉軍の戦いぶりが示している。

 やはり人間、負けてからが大事である。

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凡人が天才に師事した不運

 思うに。上杉景勝も直江兼続も、上杉謙信の元で育ち、その薫陶を受けてきたわけで、彼らは「謙信の戦い方」以外は知らなかったのでしょう。
 特に謙信の最晩年の頃に到っては、その謙信自身のカリスマによって、謙信が出陣しただけで戦闘の全てが謙信の望むとおりに動いていくような様相を、兼続も景勝も見てきたのではないでしょうか。
 そうして自分たちも謙信と同じように戦えると。謙信の下で戦ってきた自分たちも彼と同じ立場になれば同じように戦える、と考えていたのではないでしょうか。
 そして、謙信が死に、自分たちが景虎の先手を打って春日山城を奪いながら、その目算--謙信と同じ立場になれば、同じ戦い方ができること--が外れたとき、彼らは大いに慌てたのではないでしょうか。
 そして自分たちが知っている「謙信の戦い方」が使えない、でも戦いが始まった以上勝たなければ滅亡する。そういった状況の中、自分たちが考えられることを必死にやってきたのでしょう。
 かつて経験したこと、学んできたことが通用しない、応用すら難しい、となれば、もはや場当たり的に対処して、やっていくしかありません。野球を全く知らない人に、プロ野球チームの監督から作戦指揮までスタッフの仕事をアドバイザー無しに全てやらせて優勝を求めるようなものでしょう。景勝も兼続も、関が原までは、ずっとそんな状況だったのではないでしょうか。
 もし上杉謙信以外の人物の下で、上杉景勝や直江兼続が泥臭い凡人の戦いを経験していたら。
 彼らは、もう少し気楽に、もう少し勝てる戦いができたのかもしれません。そんな気がするのです。もちろん、それが上杉(長尾)家を戦国の戦いの中で、大名として江戸時代まで残すことができたかどうかは、また別の話になるわけですが。

軍神(謙信)のような戦い方を目指して

 人は、成功体験を繰り返すとはよく言われることです。
 日本陸軍は、日露戦争で成功した分進合撃を繰り返し、日本海軍は、日本海海戦で成功した日本近海での全力を持っての邀撃を狙いました。
 上杉謙信の後を継いだ景勝と兼嗣も、上杉謙信の下での成功体験を繰り返そうとしたのでしょう。

 九州の雄である島津家は、その版図を最大にまで広げたところで秀吉の軍勢にこてんぱんにされました。勢威の絶頂での敗北に、自らの軍制の欠点に気づいたのでしょう。以後は、上方流の軍制改革を行い、朝鮮の役では大活躍をしております。

 しかし、上杉家は、織田信長の攻撃に対して敗北寸前まで追い込まれたものの、本能寺の変で織田勢が撤退してしまい、完全な敗北を知ることなく国内の統一を迎えました。
 この時点で、景勝や兼嗣は、上杉流の軍における欠点や欠陥に、ある程度は気づいていたのではないかと思います。
 ただ、大きな改革をしようにも、周囲にはその必要性を認めない諸将が大勢いたのではないでしょうか。何しろ、形の上では「上杉は敗北していない」のです。島津のようにばっさり領土を削られたわけではなく、むしろ領土は拡張しています。

 成功している間の改革が困難なのは、国家や企業でもしばしば見られることです。組織の改革は、しばしば、大失敗した後でのみ可能になります。

 上杉家の関ヶ原での不甲斐ない戦いぶりは、織田信長に敗北しなかったがゆえで。
 上杉家の大阪の陣での優れた戦いぶりは、関ヶ原の敗北によって大リストラをされたがゆえであろうと思います。

 本能寺の変によって幸運にも敗北を免れたことが、結果として上杉家にとっての最大の陥穽であったとすると、なかなか世の中、一筋縄ではいきません。


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