考察:「面白い」の語り方、伝え方 ある作品が「面白い」理由を持ち出した、その自分の心の動きを考えてみる
小説や漫画、映画、ゲーム……なんでも良いが、とにかく「面白い」と感じるのは主観であり、自分である。
他の誰が絶賛しようが、どれだけ売れていようが、「俺が面白くない」ならそれは「面白くない」のであり、逆に、誰に酷評されようが、どんだけ売れてなかろうが、「俺が面白い」ならそれは「面白い」のである。
ならば、思考実験として、もう一歩進んで考えてみることはできないだろうか?
「面白い」は、小説や漫画、映画、ゲーム……なんでも良いが、それらの「作品」には存在しない。
「面白い」は、作品の側ではなく、それを鑑賞する側にのみ、存在するという見方である。
「箸が転んでもおかしい」という俚諺がある。これは、「なんでもないことで笑ってしまう年頃はあるものだ」という意味だ。
なんでもないことで、笑ってしまうのならば。
なんでもないことで、面白くてもいいではないか。
これは極論であるとしても、自分の感じる「面白い」あるいは「面白くない」が他者に伝わりにくいのは、つまるところ、作品の中、つまり自分の外にのみ、「面白い」あるいは「面白くない」を探し、それを伝えようとばかりしすぎるからではないかだろうか。
もちろん、作品の中に「面白い」を感じる理由は、たくさん見つけることができる。
キャラが良い、ストーリーが面白い、演出が素晴らしい、設定がよく練ってある、伏線の処理が見事だ、見せ方を心得ている、センスがある……だが、どれだけ理由が並ぼうが、「面白くない」という人が「面白い」に切り替わることはない。
同様に作品の中にある「面白くない」理由を並べてみても、これまた「面白い」人を「面白くない」に切り替えることはできない。
たとえば、私が「面白い、傑作」と感じる作品に、安永航一郎さんの『頑丈人間スパルタカス』が……これでは、ちとマイナーすぎるか。えーと、では、北方謙三さんの『楊家将』が……作品そのものを説明するのに時間がかかりそうだ。
では、つい先日紹介したばかりの西尾維新さんの『偽物語 上』でいこう。この作品を読んでいる時の私は、作品に対してツッコミ入れまくりである。
――相変わらず、話のもってきようが回りくどいな、阿良々木暦!
――ひたぎ嬢容赦ねーっ! 半端ねーっ! ていうか幸せそうだな、おい!
――八九寺、発言がメタすぎるぞーっ! いいのかそこまで言って!
――千石こええーっ! そして、意図的としか思えない阿良々木の無意識防御が鉄壁にすぎる!
作品の中にある理由で言えば、これらは会話のノリやテンポが良い。ということになる。だが、私が『偽物語』の会話にノリやテンポを良く感じるのは、私が読みながらツッコミを入れることができるからである。もし私が
――何こいつら、なんでこんなメタで作為的な会話やってんの?
――なんか、作者が行間からこっちのぞいているようで、気持ち悪いなぁ
と感じれば、これらの要素はそのまま「面白くない」理由になるだろう。
ツッコミを入れられるというのは、私にとってこれらが「許容範囲」だからである。主人公の阿良々木暦は、ハーレムな主人公ではあるが、「良いヤツ」だし、その暦を廃ビルに拉致監禁してしまう戦場ヶ原ひたぎ嬢にしたところで、そこにあるのは少し重いが「愛」だ。さらに、西尾維新さんの作風にあるどこかメタで作為的なものも、「これは架空のお話だから」を強調している。だから、私はこれくらいのお茶目と青春の暴走を許容する。
もし私が、思春期の子育てで悩んでいるお父さんだとしよう。警察から連絡がきて、高校生の息子が廃ビルで友人と騒ぎを起こして補導されたばかり。聞けば、シンナーの缶もあり、それはどこか工事現場から盗んできたものだという。停学になった息子は部屋に閉じこもり、シンナーを吸ったのかといえば、自分はやっていないと言う。親として信じてやりたいとは思うが、そもそもああいうところで友人と何をやっていたのか。親としてどう導いていけばいいのか。
これらの「私の事情」は、作品には何の関係もない。何の関係もないが――だが、そんな「私の事情」があれば、『傷物語』の描写は許容範囲からはずれやすい。笑えないし、ツッコめない。シャレにならないのだ。青春の暴走ってぇのは、自分の過去を懐かしむから笑えるのであって、自分の子供が現在進行形で暴走中な親には苦すぎる。
痴漢の被害にあったことがある人は、ラブコメ作品でのちょっとしたセクハラ行為で過去の傷をえぐられる気分になることがあるだろう。
思いこみの激しい若い新人のせいで、大損害をくらった上司は、ドラマの中で暴走する熱血サラリーマンに、苦々しい気分をいだくかもしれない。
逆に、「面白い」が、過去の蓄積との連想で浮上することもある。たとえば『彷徨える艦隊』(ジャック・キャンベル)は、企業や役所などの大きな組織に身を置いたことがある人間であれば、思わず「あるある」と言いたくなるネタにあふれていて、ニヤリとさせられることが多いだろう。
さてその上で、どうすれば「面白い」は伝わるのだろうか?
どうやれば、他者の「面白い」を感じることができるのだろうか?
そこで提案するのが「面白い」の理由を作品の中に見つけたところで思考を止めず、なぜその理由を自分は持ち出したのか、まで考えてみることである。
たとえば、私が面白いと感じる本に伊藤勢さんの『荒野に獣、慟哭す』という夢枕獏さん原作のマンガがある。(どこかで連載が復活してくれないだろうか)
この作品がなぜ面白いかというと、私はテンポが良いからだと思う。――ではなぜ、私はテンポが良い、と感じたのだろう?
そこで、もう一度、マンガを読んでいた時の自分の心の動きを意識しながら観察する――そうすると、いくつか別の部分が見えてくる。
伊藤勢さんの登場人物は、決断が早い。危険から脱出するため、あるいは目的を果たすために誰かを殺害する、何かを破壊する必要があれば、逡巡しない。不可能なことがあれば、即座に諦める。この決断の早さ、逡巡のなさ、躊躇いのなさを私は読みながら「小気味よい」と感じ、それを「テンポが良い」と感じているのだ。
逆に、その部分を「面白くない」と感じる人もいるだろう。「不気味だ」と感じる人もいるはずだ。これはコインの裏表である。
つまるところ、「面白い」は作品の中にあるわけではない。同じものを私は「小気味よい、面白い」と感じるし、別の人は「不気味で、面白くない」と感じるだけのことだ。
「面白い理由」で分析を止めてしまえば、同じように感じる他者には伝わっても、違う視点で見る人には伝わらない。そこで「なぜ、その理由を持ち出したのか」まで考える。
それによって、面白さをより深く楽しみ、そして他者へ伝える能力も向上させられると思うからである。
この記事へのトラックバックURL:
「フィクションの価値(値打ち)」とは何か?
とても大づかみな問いだから、応え方は人それぞれのはずだ。
問いを限定して「小説の値打ちとは何か?」としてみよう。
これでも
最近のコメント
2日 3時間前
2日 4時間前
4日 4時間前
3週 7時間前
3週 9時間前
3週 3日前
5週 3分前
6週 1日前
7週 1日前
8週 3日前