ラノベの定義

 ラノベ(ライトノベル)の定義というものはいろいろと論ぜられている。大体定義論というものは論議になると泥仕合になって最後に「XXに決まった定義なんてないんですよ」というような日和見理論が幅を利かせる。貴様は定義の存在しない言語を扱っているのか、貴様はフランツ・カフカか、とか毒づきたくなるのだが。

 ライトノベルの定義は比較的明確である。「二次元イラスト」が表紙を飾る、挿絵としてついてくる小説。他にない。あるラノベ解説本にあるレーベルによって分類する手法は、一部のライトノベルを包摂できない。西尾維新は代表的なラノベ作家だがラノベレーベルから代表作を出していない。

 この定義を厳密にしてみたい。つまり、ライトノベルとなる要件は、文章を読んでそれが「二次元イラスト」として再生される、ではなかろうか。この文化体系に顕著な傾向は「二次元」をリアルに受け止める、という点である。「普通の」文化体系では小説を読むと普通の--三次元の--映像が思い浮かぶ--ことになっている。ところで、そんなにうまいことライトノベルの場合だけ「二次元」の映像が浮かんで一般小説の場合だけ「三次元」の映像が思い浮かんだりするものだろうか。ライトノベルで育った人間は文藝小説を読んでも二次元で再生されるのではなかろうか。
 そうなると彼は三島由紀夫を読んでもゲーテを読んでも二次元で再生される。ここで定義を逆に当てはめると二次元で想像された小説はライトノベルのはずである。つまり何を読もうが小説の光景を二次元で想像できれば--既に私はその領域に片足を入れているのだが--ラノベである。
 つまりラノベというのは一般的な文章法の問題ではなく、一つの文化体系そのものを指す。

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誰のため、何のための定義か:青春時代の「これはSFである/ない」を思い出しつつ

 定義、というのは難しいものです。
 たとえば、校則におけるスカートの丈の長さの定義、ですと。
 これは、「校則違反か否か」を、生徒および、取り締まる側の双方ですりあわせ、
学生らしい身だしなみを整えようという、定義の利用者や目的がはっきりしています。

 「ライトノベル」の定義をするならば、誰の、何のための定義か、をはっきりさせねばなりません。

 自分だけの、自分が納得するための定義ならば――これはまあ、何を言おうが、自由というものです。それこそ「あなたがライトノベルだと思うものが、ライトノベルだ」です。
 万人がこの境地に達すれば、それはそれで幸せな世界です。

 ですが、自分ひとりしか使わない定義は虚しいものです。できれば、より多くの人と同じ定義で話題を膨らませたい。デスメタルとはなんぞやということで、深夜のファミレスで警察に通報されるほど盛り上がりたいというのは、青春の特権です。

 ネットなどで定義論争が繰り返し何度も起きるのは、「同じ定義を用いた話題でみんなと盛り上がりたい」というファン心理にはよくみられた現象であろうと思います。

 さて、ここで問題になるのが、「みんなって誰よ?」ということです。

 私が思うに、音楽、文学、漫画、映画などなどの趣味的な世界において「みんな」としてくくられる仲間意識の強弱(濃淡?)には特定の共通項があります。

 それは「どれだけ同じものを見てきたか」です。

 かつて日本のSFファンというのは、きわめて仲間意識の強い集団でした。SFはたくさんの名作傑作が人の一生では読み切れないほどにありますが、二十年前、三十年前のSFファンというのは、だいたい同じような作品を読んで育ってきています。本が出た、翻訳された、雑誌の連載が始まった(今では信じがたい話ですが、SFアドベンチャーや奇想天外など、複数のSF専門雑誌がありました)などの旬の話題が目白押しでした。

 文章が、単語だけ抜きとられたのでは意味を持たないように、定義も、その定義を使う人や集団を切り離しては意味を持ちません。そして、二十年前、三十年前のSFファンという集団は、「SF」という定義の背景にある、無数の優れた作品を、共有財産としてひとりひとりが保有していたのです。

 その後、SFは拡散の時代を迎えました。
 いろんな作品の中に、SFの要素が含まれるようになり、ひとりひとりのSFファンは、別々の作品をみるようになっていきました。構成員で同じ作品を見ている比率が、どんどん下がってきたのです。
 こうなってくると、定義も集団も、力を失います。
 「サイバーパンク」などのジャンル流行や、構成員が見ている比率が高い「カードキャプチャーさくら」や「エヴァンゲリオン」などの作品がくると、お祭り的に盛り上がるのは、その寂しさを埋め、かつての仲間意識を盛り上げる良いネタだからだと、私は考えています。普段はばらばらなクラスが、文化祭の時だけ盛り上がって一体感を得るとうれしいとか、そんな感じですね。

 「ライトノベル」という定義もまた、それを読んでいる読者集団の嗜好の分散と無縁ではありません。各自の好みに最適化され、ピンポイントで狙うような作品が増えてくれば、狙いからはずれた読者は読んでくれません。そうでなくても読むものはたくさんあり、好みでない作品にまで目を通す余裕はないのです。

 かくして構成員各自の「同じものを見てきた」割合は下がる一方です。
 それでも、ここと縁の深い、#もの書きチャットのアクティブメンバーの間のように、つきあいが長い集団であれば、どんな好みがあるかとか、何を面白いと感じるかは互いにある程度把握できています。
 そういう限定された中での定義ならば、「ライトノベル」にせよ「SF」にせよ「リリカル(砲撃的な意味で)」にせよ、それなりに使い勝手がよいものになるでしょう。

 趣味的世界における定義論争というのは、不特定の相手、顔の見えない相手とやったのでは不毛な「俺はそう思う/思わない」の繰り返しです。せめて、相手が「どんな作品を読んできたのか」が推測できる環境でないと、相手の言葉の背景にあるものを感じ取れないまますれ違う危険ばかり、増えてくると思います。

皆がいない頃には

 コメントありがとうございます。

 私は定義というものは「歴史上のいつか」に第三者視点的に定まるものであり、現在行われている論争なるものは全てその下敷きとして埋められた、言ってしまえば人柱だと思っています。ここで書いた論争もいつか誰かが掘り起こして「2009年御剣何某はかかる論を展開せり、しかれど云々」とか学位論文のネタにでもなればラッキー程度に思っています。
 どちらにしてもどこぞの掲示板にある「あなたがラノベだと思っているものがラノベです」という言葉を否定したいというのが言論の基盤になっています。

 ライトノベルが産まれて二十年前後経っていることと思います。拡散ということであればラノベほど拡散しているジャンルもないでしょう。いや、ラノベに限らずこの「個の時代」において定義の拡散は進む一方、世界はいずれ相対性の渦に巻き込まれるようにすら見えますしね。
 しかし多分「みんな」がこの世からいなくなった頃にはラノベの定義は固まっていることでしょう。私がここで見ているのはその時代の定義の話です。もちろん、ここでセンセーショナルな議論を起こして私のコミュニティ的欲望を満たしたいという思惑もあります。それでも名目上私は未来のある一点からラノベを俯瞰しているつもりになっています。できてはいないでしょうけど。

 私は自分が書いているものが何なのか、知りません。別に知る必要もないと思っています。ただ、私が書きたいものはいつでも目の前にあります。ただ、それがラノベとして売り出せるかもしれない、そういう目算はあります。多分書き手としては傲慢でしょう。でも書き手というのはそういうものだと思っています。


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