石田衣良、筆、「四人の十四歳へ」、『4TEEN』の軽やかな疾走感について
「始まりはとても気楽なものだった」。「四人の十四歳へ」と、題された文章は、こう書き出されている。
「四人の十四歳へ」は、作家の石田衣良さんが、著作『4TEEN』の末尾に付した「あとがき」で、新潮文庫版で読める。(単行本版で読めるかは未確認)
この、あとがき「四人の十四歳へ」、連作短編集『4TEEN』を読んだ人には面白く読める短文。
この短文を読んだうえで、『4TEEN』を再読すると、いろいろ新しい気づきも、あるだろうと思えます。
石田衣良って小説家の作家像を、メディア・イメージとは別に、読者なりに掴むとしたら、とっかかりとして作品と相互参照しつつ読むのに、手ごろな短文でもあるでしょう。
例えば、「この連作の成功の原因は、ひとえに小説のなかの人物と小説をつくる力、ふたつの成長の加速度がうまく重なったところにあったとぼくは考えている」と、書かれてるあたりは、前後の文脈も併せて面白い。
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「四人の十四歳へ」で、「始まりはとても気楽なものだった」と、語り出されているのは、1991年の1月のこと。
小説家、石田衣良がデビューしたのは1987年。短編小説『池袋ウエストゲートパーク』で、第36回オール讀物推理小説新人賞を受賞した。
その後しばらく、石田衣良は雑誌「オール讀物」(文藝春秋)でしか、作品を発表しないでいたけど、はじめて文藝春秋以外からの執筆依頼を受けて書いたのが『4TEEN』の最初の1篇『びっくりプレゼント』。
99年の1月中に書き上げられたという『びっくりプレゼント』は、半年後に新潮社の雑誌に掲載され、さらに1年後に第2作めの依頼を受けた。
正確には、作者は、新潮社からの2度めの依頼を受けた後に、『4TEEN』の連作化を決めたって話。
そういうわけで「始まりはとても気楽なものだった」らしい。
こうした経緯は「四人の十四歳へ」に、石田さんご本人の体験談として整理されてて、語り口も面白い。
連作執筆に関わる諸々の流れを振り返る形で、「連作の成功の原因」についての自己評価も語られる。
始めは書割だったキャラクターが、回を追うごとに自由に動き出した。自転車で風を切って月島の街を走りまわり、みんななかなか泣かせる台詞をはくのだ。少年たちが成長するにつれて、わずかずつだがデビュー間もないぼくの筆力もあがっていく。この連作の成功の原因は、ひとえに小説のなかの人物と小説をつくる力、ふたつの成長の加速度がうまく重なったところにあったとぼくは考えている。
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アタシ(紹介者)は、自分なりに『4TEEN』を何度か読んで、「小説のなかの人物と小説をつくる力、ふたつの成長の加速度がうまく重なった」のが、連作成功の理由って自評は、基本的には同感。
創作者の自作自評の類は、基本的には眉に唾をつけて読むもので、慎重のうえに慎重に評価すべきなんだけど。
「眉に唾をつけて読む」って言うのは、頭から疑ってかかるわけではないけど、少なくとも「鵜呑みにはしない」ではある。
特に、小説家なんて人種は、色々な表現ジャンルの創作者(クリエイター)がいる内でも、ことにフィクション、つまり、虚構のお話作りに特化してるわけじゃん。
アタシが、小説家、石田衣良の自作自評を、「基本的」には同感って言うのも、そういうわけ。
つまり、どこか話を針小棒大に語ってるヵ所もあるかもしれないし、作者の脳内の全ては語らず、一部だけを言語化してるかもしれない。
脳内の記憶編集なんて、誰でもやってることなんだけど。作家と言われるほどの小説家なら、もう習い性になっちゃってるはずだから、要チェック。
ただ、「小説のなかの人物と小説をつくる力、ふたつの成長の加速度がうまく重なった」って証言(自評)は、作品の方と相互参照しながら読みあわせてみて、うなづける。
I.W.G.P.のシリーズから、石田小説を読みはじめた頃、アタシが抱いた石田小説の印象は、多彩な文飾、長短の断章の断続でテンポ良く読ませるセンス、ってイメージ。
このイメージは、今でも、間違ってるとは思わないんだけど。アタシの場合、ドラマ版のI.W.G.P.を小説読むより先に観てたせいもあって、当初は、小説の実際よりも「技巧とセンスを兼ね備えた」印象を抱いてた。
作家についても、技巧とセンスを兼ね備えてるってイメージを抱いてた。
でも、こう言ったらなんだけど、『4TEEN』の作品は、小説I.W.G.P.の、特に印象が強い短編と比べると、ぎごちないとこも目立つ。あるいは、極1部に仕上げが荒いヵ所も散見され、それが“作り”の感じを生んでる、と言ってもいい。
例えば、語り手キャラのテツローくん(北川テツロー)は、作中本人が言ってるほど特徴の無い中学生とも思えない。子どもっぽい面は印象付けられてるけど、実は印象よりは相当に大人びてる。
あるいは、「語り手の今」がいつの時制にあるのか、ほんの数ヵ所だけど、どうしても気にかかるようなヵ所はある(I.W.G.P.の小説の方では、ほとんど見当たらない)。
さらに言うなら、遺伝子疾患を病んでいるナオトのお母さんを例外として、4人組の家族が直接登場する場面が無い(間接的に話題になるヵ所は少なくない)。この最後の件は、良し悪しで、作品にプラスに働いてる面と、作品世界の奥行き感を限定してる面とがある。例えば、優等生のジュン(内藤ジュン)のキャラクターがわかりづらくなってるのは、彼の家庭についての情報が、4人のうちで1番少ないからだろう。
そうした、細々とした「ぎごちなさ」は、散見されるけれど、にも関わらず、『4TEEN』を、一まとまりの連作として読むと、優れてると思える。かけがえの無いような美点がたくさんある。
お気楽に始まったシリーズは最後まで、スムーズだった。おかしな力みや見栄を張ったところはほとんどない。半年に一本くらい書くというペースは、案外心地いいものだった。なんだか夏休みと冬休みに会う親戚の男の子みたいなのである。ぼくは四人とつきあうのが毎回楽しかったし、書き下ろしで最終話を書きあげたときには、これでおしまいなのがとても寂しかった。
この引用箇所の回想も、少しオーバーに言ってるところもあるかもしれないけど。やっぱり基本的には頷ける。
通して読むと、連作が進むに連れ、4人組のキャラクター像に、厚みが出てるのはわかる。
アタシ的には、特に『大華火の夜に』、『ぼくたちがセックスについて話すこと』、『空色の自転車』、の連なりで展開される多彩な情動の連鎖や重合がいい。
現実時間で半年に1度くらいのペースで、作者が連作に取り組んでみた感じが「なんだか夏休みと冬休みに会う親戚の男の子みたい」だったてのも、わかる気はします。
例えば『4TEEN』が書き上げられる前に単行本が刊行(1999年)された『うつくしい子ども』では、主人公を中心にした高校生3人組が、犯罪の背景調査に取り組む様子が描かれてるけど。キャラクターや作中世界の安定感ってことだけに絞れば、『4TEEN』よりもずっと安定感は高い。
作者は、「始めは書割だったキャラクターが、回を追うごとに自由に動き出した。自転車で風を切って月島の街を走りまわり、みんななかなか泣かせる台詞をはく」と、まとめてるけど。『4TEEN』に諸々ある魅力を束ねる要近くには、自転車に乗る少年たちの疾走感がある。
この疾走感や、自転車をこぐ少年たちが感知する街の景観の色めきは、『4TEEN』の連作を通した時の力になってると思う。言ってしまえば、連作としてはやや不足気味な安定感を補って、作中世界にまとまり感を生んでいるのが「自転車で疾走する少年たち」の描写だ。
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結局、足掛け5年をかけて書き継がれた『4TEEN』は、2003年上期の直木賞(第129回)の受賞作になった。
石田さんご本人は「四人の十四歳へ」で、『4TEEN』のことを「この作品は直木賞が代表する文学の重力から、完全に自由で軽やかな小説」としている。
著者自評のこの部分の本意は、アタシには今イチよくわからないものもある。
「直木賞が代表する文学の重力」では、例えば「中間小説」とか「風俗小説」とか「大衆文学」ってカテゴライズが、昔は有意味だったけど。今の市場では、そんなカテゴリは無意味化してる。もちろん、以前は「文学的」と呼ばれた価値評価の序列が、無意味化の方向に拡散してるからだ。
石田衣良のような作家が、「文学の重力」からの自由なんてことを、わざわざ、あとがきに書いたのは、アタシにはちょっと不思議な気がする。
「文学の重力」って言うのは、「文芸作品の価値評価を序列づける作用力」のことだろうと思うけど。「市場では意味は(ほとんど)無い」ってことは、読者の大多数にとっても「意味は(ほとんど)無い」ってこと。
読者の内にもそれぞれに「これこれが文学的だ」って信条を持ってる人もいたりいなかったりするけど。「何をもって優れている」とするか、評価軸の内実は多様になってて、昔のような統一感、共有感はすでに無いのが、今現在。
小説家や批評家、評論家の間でも、その辺の事情は、あまり変わらないようだ。
市場では、「文学」なんて、あまり意味の無いレーベルの1種で、せいぜい高級感を演出するくらいのものなのですが。やっぱり、今でも業界の内側では「文学の重力」ってのは意識されるものなのかもしれません。
(一つ思うのは、『飛ぶ少年』の末尾に描かれてるような、「重力からの自由さ」が、作家、石田衣良にとっての強いイマジネーションなのかもしれない。これはこれで、面白いポイントだ)
アタシが思うには、『4TEEN』には“直木賞的”な「中間小説」とか「風俗小説」とか「大衆文学」とかってカテゴライズからはみ出してく力が埋め込まれてる。
もし「文学の重力」なんてものが、今でももんだいになるのだとしたら、アタシは石田小説には、あらゆるタイプの文学の重力に「抗って」自由であってほしいと思うな。
例えば、同じく直木賞受賞作家である山田詠美さんの小説には「文学の重力に抗う」運動感が感じられる。山田さんは山田さんで固有の文学観とか小説観をもってられますけど。それと既存の「文学の重力」とは、又、別ものなわけです。
小説家、石田衣良にも、固有の小説観は窺える。
少なくとも、『4TEEN』から感知できる軽やかさに、「既存の文学の重力に抗う」運動力感を期待しても的外れでもないでしょう。
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