石田衣良、作、『ラストジョブ』(『LAST』所収)、やるせない期待の形(旧版)
【この紹介文は】
この紹介文は、2009年6月に初公開した、石田衣良さん作の短編小説『ラストジョブ』の紹介文です。
7月15日に内容を改訂した改訂版と差し替えました。
6月26日に初公開した後、翌27日に構成を改めた版を「旧版」としています。
(改訂の経緯については「「やるせなさに彩られた期待」筆者ノート」にも記しています)
短編小説『ラストジョブ』は、石田衣良さんの作品集『LAST』に採録された7篇の内、2本めに収められてる。
講談社文庫版で37頁ほどの短さ。題材としては、若い主婦で幼い一児の母親である主人公がおこなう、主婦売春が扱われている。
もちろん、この小説で描かれている事柄は、主婦売春の是非などではない。
小説は、法律問題のケース・スタディーでもなければ、道徳の教科書でもないのだから。当たり前だ。
例えば、この小説は、セックス・シーンの描写などがいい。
他にもいい面はあるんだけど、セックス・シーンは、結構際どいバランスで短く、くどくなく、むしろあっさりと、作品に必要最小限なふうに描かれていて、そこがいい。
----
作品冒頭の断章は、主人公の橋本真弓が、パート勤めを終えた後、子どもを迎えに行くまでの30分間の様子から描かれる。“一日のうちでひとりきりになれる時間”に、真弓が、7枚のカードをみつめてる様子が、息苦しいような感じで描写される。
自分たち夫婦の生活は、どこで間違ってしまったのだろうか。将来にちいさな夢を描いたのは、これほどのしっぺ返しをくらうほど悪いことなのだろうか。真弓は氷がとけて味のゆるんだカフェラテを口にした。
毎日の出費となると一杯百八十円は贅沢だとわかってはいた。だが、一日のうちでひとりきりになれる時間は。パートを終えて子どもを迎えにいくまで。この三十分間しかないのだ。いくら子どもがかわいくても、主婦にだってひとりの時間は大切だった。ほんのわずかしかない自分自身に戻れる時間なのだ。
将来に描いた“ちいさな夢”と言うのは、購入したマンションを巡る夢のことだ。より正確には、マンションを基盤に営まれる、家族についての夢だ。
作中に記された記述を元に再構成すると、次のような経緯になる。
1995年に、橋本真弓、俊介の夫婦は、東京郊外の中央線沿線に3LDKのマンションを購入した。バブルがはじけて4年め、「今が買いどき」の物件と思えた。返済ローンも、はじめの5年間は余裕のある返済プランで、ゆとりをもてた。
マンション購入から4年後の1999年、俊介の勤めていた建築資材会社が倒産。俊介は、再建された会社に再就職できたけど、年収は100万円以上減ってしまった。
2000年にローンの返済形式が、“ゆとりプラン”から、よりしんどい形式に切り替わり、真弓は“世紀の変わり目”に、パート勤めをはじめた。真弓は、ひそかにマンションの査定もしたが、結果は、住居を売却したとしても、後に多額の借金を抱え込む、というものだった。
『ラストジョブ』の「物語内の今」がいつかは、作中、明示的には語られていない。
ただ、冒頭の時点は、ある年の5月で、“もう何ヶ月もマニキュアなどしてない指だった”とある。
おそらく、冒頭時点の「物語り内の今」は、2001年の5月だろう。
(ちなみに、作品初出は、講談社発行の雑誌「問題小説」2003年5月号、とのこと)
そうした背景があって、「物語内の今」の真弓は、住居のローンとは別に、元金300万円の借金を、複数の消費者ローンから借り、月々の支払いに追われている。いつまで今の家にいれるのだろう、という不安と共に暮らしながら。
俊介から家計をまかされている真弓の進退はきわまった。ほとんど欠員のない保育園をかけずりまわって探し、月二万五千円の増収のためにディスカウントストアで働きはじめたのは、世紀の変わり目である。それでもじりじり借金は増えていた。ひとりで堤防の決壊をくいとめるようなものである。堤の向こうにはなみなみと泥水があふれていた。いったん崩れてしまえば、このマンションと家族三人の暮らしをのんで、濁流はすべてを流しさってしまうだろう。
引用ヵ所の内“月二万五千円の増収”というのは、週5日のパート勤めの月収入7万円の内、幼い娘、美香を預ける保育園の保育費を相殺すると2万5千円の増収になるだけって話。それでも、娘をあずかってもらわなければ、パートにも出れない。
そういうわけで“将来にちいさな夢を描いたのは、これほどのしっぺ返しをくらうほど悪いことなのだろうか”と思ってしまうのが、主人公、真弓の状況。
----
この小説のいいところは、筋展開やストーリーにはない。
例えば、“将来にちいさな夢を描いたのは、これほどのしっぺ返しをくらうほど悪いことなのだろうか”と、思う真弓がさいなまれる焦燥感の感じがいい。もちろん、描写にリアル感があっていい、って意味だ。
一人娘を可愛く思っていても、気持ちに余裕がなくて、つい、きつく手を握ってしまうような描写もいい。
あるいは、妻が夫を気遣っている様子も悪くない。
複合して、幼い娘の無邪気な可愛さが、そのまま、真弓の気持ちを重くするような家庭の描写が、やるせない感じでいい。
例えば、サービス残業から帰宅した父親に甘える娘が、ディズニーシーに連れていってと、ねだるシーン。
「おかえりなさーい、パパ。あのね、今日ね、カズくんとけんかしちゃったよ」
俊介の声が廊下を響いてきた。
「んー、どうして」
「だって、先週カズくんはまたディズニーシーにいったんだよ。美香がまだいったことないのをおかしいっていったんだ。だから、あのさ日曜日にディズニーシーにつれていってよ」
「それ、ママにいったかのか」
美香の声は真弓と話すときとは違い、ひどく甘えていた。
「ううん、だってママにいっても、お金ないからでおしまいだもん」
廊下とリビングの境目に美香を抱きあげた俊介が立っていた。疲れた顔をしている。いつからこの人はこんなに老けこんでしまったのだろうか。まだ三十四歳でぜんぜんくたびれる年ではないのに。〔後略〕
この後、幼い美香は、「もし美香に弟をくれたら、ディスニーシーもディズニーランドもずっとがまんする」と言い出す。
その晩、「やっぱりふたり目は無理かな」と俊介に言われた真弓は“無理に決まっていると叫びそうになった”けれど、そうしたことは口にせずに済ませる。
----
この小説の内容には、際どいところもみられる。
際どいところの1つは、アタシが思うには“俊介から家計をまかされている真弓の進退はきわまった”と描かれてるあたりだろう。
アタシの読みが浅くなければ(浅いかもしれない)、真弓はマンションの査定を不動産屋に依頼したことを夫に内緒にしてる。
これ、あり得ないこととは思わないけど、結果として真弓は、“いったん崩れてしまえば、このマンションと家族三人の暮らしをのんで、濁流はすべてを流しさってしまうだろう”って、暗澹とした気分を抱えながら暮らすことになってる。
そんな主婦の話だ。
----
この小説は、セックス・シーンの描写もいい。くどくないけれど、互いの高ぶりを分かち合うセックスの感じは、際どいバランス感覚で短く、作品に必要な分だけ書かれてる、と思える描写で、都合3ヵ所描かれている。
最初のセックス・シーンは、真弓と、車椅子バスケをやってる青年、マモルとのもの。
文庫版で4頁ほどにわたる。
2番めのセックス・シーンは、マモル相手の売春をした日の晩、俊介相手のもので、これは、5行で直接的な描写ではない。5行だけど、構成上は先に引用した「やっぱりふたり目は無理かな」の後日の配置に置かれていて、“その夜、真弓は俊介を誘い、思い切り乱れた”と書き出されている5行はせつない。
3番めは、マモルの車椅子バスケの後輩、ミチアキ相手の売春で、セックス・シーン自体は4行の描写で済まされている。ミチアキのセリフを併せても7行で、やはり直接的な描写はない。
真弓の二度目の仕事はなめらかに運んだ。ミチアキは素直ないい男の子で、実際の行為よりも、部屋を明るくして真弓の身体をみたがるのが困ったけれど、それくらいのリクエストなら自分が我慢すればよかった。ミチアキはすべてが終わると感想をいった。
「よかったけど、もっとたいへんなことだって思ってた。エッチってこんなに簡単なことだったんだなあ、なんだかナナコさんのおかげで、世のなか見る目が変わっちゃうかも」
「ナナコ」というのは、もちろん、真弓が主婦売春をするにあたって思いついた偽名だ。
----
『ラストジョブ』は、粗筋を要約すると、作品の味わいが消し飛んだ、つまらない要約にしかならない。
一言で言ってしまえば「主人公の真弓が、携帯出会い系の不倫サイトを通じて、主婦売春を経験する話」だ。
たまたま、最初に不倫デートをする相手が、交通事故で車椅子生活になった若者、マモル。マモルに頼まれ、後輩相手の売春もする。物語のラスト近くで、真弓は、売春した相手が関係している、ボランティア団体の人物に声をかけられ、身障者を対象にしたセックス・ボランティアのメンバーに勧誘される。
「わかりました。考えてみます」、そう応えてボランティア団体の男と別れる真弓だけど、そのあと2つの段落、文庫版で8行ほどの逡巡で、真弓は“わたしはあの名刺の番号に電話するだろう”、つまり、ボランティア団体の勧誘に応じるだろう、と思って終わる。
この小説で描かれている事柄は、主婦売春の是非などではないし、もちろんセックス・ボランティアの是非などでもない。
----
小説のラストは、真弓が“わたしはあの名刺の番号に電話するだろう”と、セックス・ボランティアとしての勧誘に応じるだろう、と思う様子で終わる。
この部分は、空々しく、うつろな感じがする。
「わかりました。考えてみます」
自分のしているようなことが、果たして仕事といえるのだろうか。援助交際という名のただの売春ではないのか。しかし、宇喜田のいうとおりなら確かにやりがいのある行為に違いはなかった。真弓は毎日レジを五時間打っても誰かに感謝などされたことはなかったのである。セックスボランティアの代表と同じ深さに腰を折って、その場を離れた。
夕時の駅の人波にのまれるころには、はっきりとわかっていた。わたしはあの名刺の番号に電話するだろう。他人がどう呼ぼうと別にかまわない。それがほんとうの意味での自分の仕事になりそうな予感が、真弓にはするだけだった。
上に引用した、小説末尾の部分が、空々しいのは、真弓が「他人がどう呼ぼうと別にかまわない」と思う「他人」に、夫の俊介、娘の美香が含まれるのか、含まれないのかはっきりされていないからだ。
アタシ(紹介者)も、おそらく大方の読者がするだろう解釈同様、この「他人」には、夫も、娘も含まれていないと思う。いわば、別枠なのだろう。
小説は、法律問題のケース・スタディーでもなければ、道徳の教科書でもないので、事の是非、いい/悪いではなく、アタシには、ラストのくだりは、うつろで空々しい予感の描写、として読める。
真弓が身障者相手のセックス・ボランティアを“やりがいのある行為”と思うのは、“毎日レジを五時間打っても誰かに感謝などされたことはなかった”からだけど。
あえて、書くなら、返済日に追われるように利息分を払っても、じりじり増える借金のことを、夫に打ち明けられずにいるからでもある。
“俊介から家計をまかされている真弓の進退はきわまった。”。
独り者のアタシには、こうした夫婦の機微は、想像するしかない。想像するしかないけれど、あり得ないことでもないだろうと、思う。
もし、苦境を俊介と分かち合えていたら、真弓も主婦売春をしなかったかもしれない、可能性は低くないと思う。そこは、この作品の際どいところではある。
小説は、法律問題のケース・スタディーでもなければ、道徳の教科書でもない。
『ラストジョブ』で描かれているのは、空々しい役割に息苦しさも感じている若い女性が、やはり空々しさはある別の役割にやりがいを予感するようになる、心理の動きだ。
真弓にとって、“堤防の決壊をくいとめるよう”にして、必死に守っている家族の暮らしが空々しいわけではない。娘との関係や、夫婦の機微は、とてもリアル感をもって描かれている。
けれど、まかされている家計を守るために避けがたい役割、ディスカウントストアのレジ係の役割や、保育園での“かわいい美香ちゃんのおかあさん”の役割は、空々しい。その辺の空々しさも、空々しさのリアル感を伴って描写されてる。
さらに書くなら、真弓にとって、若者とのセックスも、決して空々しい行為ではなかった。これは、たまたま、不倫サイトで最初にあたったマモルのキャラクターに依るんだけど。それは、フィクションとして構わないと思う。
アタシが、この紹介文で書いているのは、作品から読みとれる「やるせなさに彩られた期待(希望)」と、同じ希望の空々しさについてだ。
----
主婦売春や、セックス・ボランティアが、いいとか悪いとかは、人それぞれの考えがあるだろう。
この小説が全体として描出している事柄を、アタシなりに言ってみると、時として空々しいような面も見せる、うつろな、やるせなさに彩られた期待の形だと思える。
この、うつろさややるせなさの感覚を伴った期待の形は、主婦売春をしようとすまいと、いいと思おうと良くないと思おうと、アタシやあなたが暮らす生活の環境と、無関係なものではない。
そうした生活環境の、うつろでやるせない相(一面)を描いてること、それが、この短編小説のいいところだ。
アタシの感知では、作品が訴えかけてくる力、訴求力は、同じ作品集に採録された『ラストライド』の方が強いように感じられます。
それは、『ラストジョブ』の方で描かれているのが「空々しい希望」の「空々しさのリアリティー」だからでしょう。
その描写が、際どいところもあるバランスに因ってるって事情も訴求力の弱さに関係してることでしょう。
けれど、際どいところはあっても、『ラストジョブ』も、悪くない。
最近のコメント
20時間 10分前
2週 3日前
2週 4日前
3週 5時間前
4週 3日前
5週 5日前
6週 5日前
8週 7時間前
8週 8時間前
8週 3日前