アニメ『結界師』を観て:「バカだけど、凄い」は、「凄いバカ」とは違うのだ♪

 CSでアニメの『結界師』を、最初から最後まで観た。面白い♪
 CSでは何度かリラン(再放映)を重ねてくれてるので、都合、2、3回は観たはず。凄く面白いと思う。まだまだ楽しんで、リピート視聴できそう♪

 アタシは、フィクションキャラクターでは、「気持ちのいいバカ」みたいなタイプがかなり好き。
 「気持ちのいいバカ」ってゆーのアタシなりの仮称だけど、褒め言葉で。
 例えば『HUNTER×HUNTER』のゴン・フリークスとか、『NARUTO』のうずまきナルトとか。
 もし、リアルにいるとしたら、友達づきあいは疲れるだろタイプだけど(笑)。けれど、フィクションのキャラクターとしては、アタシは好き。

 『結界師』の主人公、墨村良守くんも、バカだけどなかなか気持ちのいいキャラ。
 バカだってのは、確かで、作中でも他のキャラによく言われてるし。「オレはテレパシーの無い奴は嫌いだ」とかって迷セリフは、本人、真面目に言ってるだけにご愛嬌(笑)。
(一応、蛇足しとくと、ご本人「デリカシーの無い奴は嫌いだ」と言ってるつもり。キミは『キテレツ大百科』のブタゴリラか(笑))

 「気持ちのいいバカ」は、ただのバカじゃぁない。
 「小利口」ではないってこと。
 「バカだけど、凄い奴」なのだ。「凄いバカ」ではないとこが大事。

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 『結界師』原作マンガ版の作者は、田辺イエロウさんで、「週刊 少年サンデー」掲載作。
 実は、アタシは、マンガの方はきちんと読んではなくて。雑誌では、パラパラみて、“やってるなー”くらいの感じ。これから単行本で読むところです。

 アニメ製作は、サンライズ
 地上波では、2008年2月に放映終了してるそうなので、遅れて観た形。最新話題作とかに興味が無いわけではないけど、おっかけるほど熱心ではないアタシなのだった。
 まー、それはそれ。ちょい遅れだろうと、凄く遅れてだろうと、観て、読んで、面白いものは面白い。

 アニメ『結界師』の最終回前後では、主人公墨村良守くんの、お隣さんで幼馴染のお姉さん、「物語内の今」ではライバルみたいな感じの雪村時音が、良守を助けようと、かなり無茶なまねをする。
 「バカだけど凄い奴」のバカさ(小利口で無さ)は、しばしば、親しい周囲に伝染するのだ(笑)。
 例えば『NARUTO』だと、春野サクラには、しばしば、ナルトのバカが伝染してる様子が読める(笑)。
 『HUNTER×HUNTER』だと、キルアが、ゴンのバカさに伝染されたりされなかったりすることは珍しくない。

 第51話「良守と火黒」のラストから、第52話「黒芒楼の終焉」にかけてのこと。
 時音は、良守を救おうとして、直前にはじめて成功させた結界術(霊能ベースの術式らしい)の高度な応用を、凄くリスキーな用法で成功させちゃう。

 この手の展開(こーゆータイプの展開)を“ご都合主義”的に思う人もいるはずだけど。
 思いたい人は、思えばいい。
 実際もんだい、ご都合主義的な展開の時もあるし、そうでない時もある。

 正確に言えば、フィクションにおいて、このタイプの展開が「まったくご都合主義的にならない、ようなことは、ほとんどない」。まず、例外的にしかない。
 アニメの『結界師』でもそうだ。
 「術の高度な応用」を、試行2度目で、ハイ・リスクな状況下で成功させちゃう、ってのは、ご都合主義的でない、とは言い切れない。
 これ「高度な応用」ってとこがミソでね。一般論としては、基礎的なものがしっかり身についてる人が、高度な応用、いきなりできることもある、ってのは、そうそうあり得ないとも断定できないんだけど。

 フィクションの一般論としては、ご都合主義的な展開もあるとして、もんだいは「それを通して何が描かれてるか」。どの程度のご都合主義か、ささいなものか、致命的なものか、は、「何が描かれてるか」を踏まえなければ、妥当な評価ができないし。この、妥当な評価の過程は、決して逆にはなりようがない。
 それに、「バカだけど凄い」小利口で無さが、伝染するのは、決してフィクションの中だけの絵空事ではない。

 もちろん、リアルな世の中は、誰かのご都合だけで動きはしない。
 だから、フィクションのようにリスキーな“バカさ(小利口で無さ)”が、効果を発揮することは、かなりマレだと思える。経験論だけど、そう思える。
 それでも、関わる人を動かすことがあるのは、小利口な効利や効率、せこい最適解などではない。
 ささやかな「バカさ」が人を動かす事は、決して、珍しいことではないのだ。

 ここでアタシが言ってるのは、効利や効率、最適解などを無視する、と言ったことではない。
 効利や効率、最適解などを、踏まえたうえで、ささやかではあってもなされる、“バカげた”利他行為は、人を動かす。
 「ささやかではあっても」って言うのは、行為のコストのことでもあるし、関与する範囲や人数のことでもある。
 ただ、常に人を動かすわけではないけれど、“人を動かす”行為があるとしたら、ギブ&ギブの共栄行為か、バカげた利他行為だ。決して、小利口な効利や効率、せこい最適解などではない。

 利他行為の類が、常に“人を動かす”とは限らない。
 つまり、リスクは行為者の自分もちになる。
 だから、リアルな世の中では、利他行為は、行為者の度量に見合ったささやかなものにならざるを得ない。
 これも、今の世の中で、利他行為の類がささやかなものになりがちな理由の1つだ。

 それでも、フィクションで描かれる利他行為の類は、描写がうまくなされてる場合、リアルにもあり得る利他行為の蓋然性を、普通よりも多めに見積もって描いたもの、であるケースが目立つ。
 うまく描写がなされても、それは“リアル”な描写ではないだろう。ロマン化された描写であるかもしれない。

 それでも、描写がうまくいってれば、構わないじゃーん。
 「ロマン化された描写として、いいか悪いか」は、「リアルか、リアルでないか」とは、別フェイズの評価にしかならない。

 フィクションにおいて、まったくの絵空事が観る人、読む人の心を動かす事は、極めて例外だから。ロマン化された描写でも、うまいっていれば、それはそれで悪くは無いのだ。
 「まったく絵空事」のような描写が、一時、人の気持ちを和ませたとしても、印象が深く刻印され長く尾を引くことは、とてもマレだ。 
 やはり、ポイントは「描写を通じて描かれてるのは何か」なのだ。

 ここで、アタシが考えてるのは、作品の単なる内容のことではない。つまり、要約可能な内容などではない。内容も含んで、もっと広く連鎖していく事柄について考えている。

 そんな、アレコレを、『結界師』のアニメを観てから、ボーッと、考えた。
 つまり、ゴンとかナルトとか、アタシが「気持ちのいいバカ」って呼ぶタイプのキャラについて、アタシがどんなとこに惹かれるか、自分で、ちょっとだけ腑に落ちたわけ。まだまだ、何度も作品を観直しながら、考える事はあるけれど。

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