『仮面ライダーディケイド』印象記:新旧ライダーキャラの対照が面白かった(第26話「RX!大ショッカー来襲」)

 今年アタシは、『仮面ライダーディケイド』って、等身大ヒーローもののTVドラマを、かなり熱心に観てて。
 毎週欠かさず観てる地上波の連ドラは、今年は「ディケイド」だけになってる。
 実は『侍戦隊シンケンジャー』ってのも、観てたんだけど、こないだの日曜日、寝過ごしてしまった。なので、毎週欠かさず観てるドラマは、ついに「ディケイド」だけになっちゃったのだ(笑)。

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 『仮面ライダーディケイド』の主人公、門矢士井上正大さん)は、記憶喪失。唐突に、複数の世界の融合と、その結果の崩壊を防いで欲しいみたいに言われて、何故か、仮面ライダーディケイドに変身するアイテムを委ねられちゃった。
 士は、記憶喪失だから、なぜ変身アイテムを委ねられたか、思い出そうとしてもわからない。
 よく、わけがわからないまま、異世界を次々巡る士と数人の知人。

 異世界に行くと、記憶喪失ながら、断片的な記憶が湧いてくるっぽい。主に、それぞれの異世界の仮面ライダー関係について、断片的な記憶を何故か知ってる。
 で、「通りすがりの仮面ライダー」として、なんかいろいろ敵と戦ったり、してきてる。

 あまり強い動機らしい動機もなく、行く先々の世界で何かの“役”を期待されるらしい士だけど、イキバタな感じで、結局は、毎度毎度、期待された“役”を放り出すようにして、「通りすがりの仮面ライダー」を演じる。
 番組はまだエンド・マークが打たれてないけど、これまでのところを観たアタシの感知では、しっくりくる呼び方は「オフ・ビートな」仮面ライダーのドラマって感じ。

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 こないだの日曜日(7月26日)に放映された、第26話「RX!大ショッカー来襲」。
 はっきり書くと、いわゆるストーリー面は、特撮ファンや、ファンまでいかなくても、特撮ヒーロードラマが好き、みたいな人でなければ、どうということもないようなお話。
 つまり、変身ヒーロードラマとか、出演してる演者の人とかに興味がない人に、あえてお勧めするような“何か”があるエピソードとは思えない。

 アタシは、もちろん楽しみましたよ♪ 特撮スキーだから(笑)。
 つまり、等身大ヒーローを主役にした、変身もののドラマって枠の内では、結構、楽しめた。

 で、一般的なセンスでは「どうということもないようなお話」であるだろう、第26話「RX!大ショッカー来襲」だけど。これまでの「ディケイド」とは、別種の面白さも感じられたので。そのことを書いておきたい。

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 第26話「RX!大ショッカー来襲」を観てて、これまでの「ディケイド」とは、ニュアンスが異なる面白さが感じられた。それは、門矢士と、仮面ライダーBlack RX、こと、南光太郎倉田てつをさん)が絡む画面に集約的に感じれられた。
 乱暴な要約をしてみるなら、新世代ライダーと旧世代ライダーの対照感、みたいな感じが面白かった。世代間ギャップみたいなイメージも被さって、それも面白い。
 つまり、ロスジェネ世代と、団塊ジュニアの間での対話の通じなさ、みたいな感じもして、それも面白かった。
 ただ、門矢士をロスジェネ世代の類型(タイプ)とするのはいいんだけど、南光太郎を団塊ジュニア的に視るのは無理はある。無理があるって自覚はあるけど、そんな連想も湧いたってこと。この件は、役者さんの身体性がアピールしちゃったとこなんだろうと、思える。

 仮面ライダーってキャラクターは、「変身ッ!!」て、ポーズとかが有名だったんだけど。
 基本的には力みまくってて、暑苦しいソース系キャラだった。TVドラマを中心にしたイメージ構成だけど。
 最初は、力んだ、暑苦しいソース系キャラだったヒーロー・キャラクター。同系タイトルが、長期間に渡って断続的に製作された結果、いろんな亜種も増えたけど。

 最初期の仮面ライダーが、力んだ、暑苦しいソース系キャラだったのは何故か、というと、最初期には、悪の組織に拉致されて強制改造された主人公が脱走して、自分を強制改造した悪の組織に立ち向かうって趣向からスタートしたから。
 この趣向も、次々製作された同系タイトルの間では、いろんな亜種も生まれたんだけど。1度大きく、原点回帰したのが、ライダーRXの前身にあたる仮面ライダーBlackだった。
(ライダーBlackについて、アタシは、ディケイドの次回分、第27話「Black×Black RX」に大きな期待と不安とを感じてる)

 旧世代仮面ライダーってのは、自分に加えられた暴力に対する怒りや復讐心と、そうした暴力の実行者である敵に立ち向かうって反抗心と、正義感とが、常にないまぜになってるようなキャラクター・タイプで。それが力みや暑苦しさとして体現されてた。力んで暑苦しい悲壮感みたいな感じだ。

 もちろん、この辺も主役を演じる役者さんの身体性(資質)とも関わるんだけど。同じような「拉致強制改造被害者」のヒーローである、マンガ-アニメのキャラ、サイボーグ009こと、島村ジョーのアンニュイな雰囲気、と比べると、やはり仮面ライダー系のヒーローには、そのキャラクター性に、力みや暑苦しさを伴った悲壮感ってのは色濃く目立つ。
 こんなふうに、キャラクターアーキタイプテンプレートではなく)として、“仮面ライダー”をとらえていくなら、イメージ・ソースとして外せないのは、00ナンバーサイボーグよりもスカルマンなのだけど。ここでは、この話は置いておきたい。

 一方の仮面ライダーディケイド、こと、門矢士ってキャラクターのは、いつもダルそうな感じを漂わせてるし、自己中だし、投げやりだ(笑)。変身ポーズとかってのもなんか脱力して、「ま、やりますか」みたいな感じの変身で。
 アタシは、士の変身シーン、観るたびに、あー、今風だなー、って思うのだった。

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 さて、アタシが、2人のキャラクターの間に感じた「世代間ギャップ」は、ストーリーの上辺では回収されたことになってるんだろう、と思う。

 まず、士が「(ヒーローとして)戦い続ける理由がわかんない(わかんなくなった)」みたいに言って、南光太郎が「自分は仲間のために戦ってる」みたいに言うんだけど。士の方が「そんなことのために戦うのか?」って問い返すやりとりのシーンがある。

 こことか、1989年生まれの井上正大さんと、1968年生まれの倉田てつをさんの演技が、お互いに、「何言ってんだ? こいつ??」みたいな雰囲気で(笑)。双方が、“話、通じてないなー”って感じを全身でかもし出してたのが、印象に残った。
 士が「(ヒーローとして)戦い続ける理由がわかんない(わかんなくなった)」って書いたのは、アタシなりの要約で、もっと解釈を入れれば、士には「ヒーローをやる内発的動機」なんて、もともと意識されてない、そーゆーキャラだ。
 1つには、記憶喪失だからだし、1つには、世界に対する隔離感を抱いてるからだ(隔離感については、「ピントのあった写真が採れない“体質”」で暗示的に表現されて来てる)。
 士的には、「通りがかり」としての異世界遍歴を続けてけば、その内に、自分が隔離感を感じない世界にたどり着くんじゃぁないか、的な漠然とした期待感が、戦いの動機になってきたんだけど。
 結局、期待は単なる期待にすぎないかも、的に思った時「戦い続ける理由がわかんなくなった」って、心理には、納得力がある。極、自然な意識の流れだと思える。

 こんなキャラが、初対面の旧世代ライダー的な南光太郎と、話が通じたら、その方がおかしい。

 ディケイド第26話では、後の方で、士が、「(仲間のために戦うっていうのも)それもいいかもしれないな」とか言いながら、投げやりな感じの変身(笑)をして、少し遅れて、1つ頷いた南光太郎が力んだ感じの変身をする。
 この辺は、アタシの印象を書いてるので、観直すと、アタシの意見もちょっと変わるかもしれないけど。

 ストーリーの上辺では、ここ「気持ちが通じた」みたいなことになってると思うのね。さっき「回収されたことになってるんだろう」って書いたのはその辺。
 でも、アタシには、倉田てつをさん演じる南光太郎が頷く表情は、“本気でそう言ってる? 君??”みたいな、士に対する戸惑いも含んだ頷きに視えた。少なくとも「力強く頷いた」ようには視えなかったのだ。

 つまり、アタシの中間的な感知では、「世代間ギャップが、2人のヒーローの間では越えられ、心が通じた」みたいな気がするのは、ストーリーの上辺だけのこと、な気がする。
 この件も含めて、次回第27話「Black×Black RX」には、期待と不安とがないまぜになってるアタシなのだった

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 上記の印象は、アタシの生活体験みたいなものが混入した偏った印象かもしれないし、もっと根深いアタシの偏見に基づいてるかもしれない。
 そうかもしれないけど、それでも、そうも視えたってのは、面白いことだと思う。
 特に、お約束事で成り立ってるみたいに信じられることの多い、ヒーロードラマでは面白いと思う。

 もう1つ、この雑記に収めようとすると収集つかなくなるだろうから書かなかったけど、第26話で、敵役アポロガイストを演じた川原和久さんの、大時代な悪役を演じきった怪演もよかった
 こちらも、印象論として記しておくけど、誇大妄想的な野望を語る悪役を前にした、今風キャラ士の演技に「なんだ、こいつ??」的な戸惑いが感じられて。この戸惑いは、アタシの妄想的な読み込みかもしれないけど。アポロガイストの演技がかもし出してた違和感は、よかったと思う。

 例えば、TVドラマでもヒーローものでもないけど、俗に「平成ガメラ」とも呼ばれる金子修介監督の劇場版映画作品には、やはりお約束事な枠組みに違和をかもし出す身体的表象が構成されたカットは、多く観られる。
 それでも、製作体制もペースも違うはずのTVドラマで観られたってのは、面白いと思った。

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【補論】キャラクターのアーキタイプと、そのイメージ・ソース(仮面ライダーのケース)

 親記事は、雑記ですし印象記ですが、個人的な印象を整理する前提になってる部分に、おそらく、仮面ライダー作品の熱心なファンの人向けに、補足しておいた方がいい論点が含まれてます。
 それは、マンガ版原作と、特撮映像(TV版、劇場版を問わず)の位置づけ整理に集約される論点でしょう。

 アタシは、「原作版マンガは、特撮映像作品の主要イメージ・ソース」と理解する立場を採っています。つまり、極端な言い方をすれば、映像作品は、文字通りの意味では、マンガ作品の映像化「ではない」という理解です。
 そして、上記理解を前提として、「仮面ライダー系の作品群では、原作版マンガよりも、同じマンガ作者の作品『スカルマン』の方が重要」って理解ももっています。

 もちろん、著作権の利権関係では、石ノ森章太郎さんは、「仮面ライダー」の原作者ですし、マンガの『仮面ライダー』は、映像作品の原作なのです。けれど、その法規上の関係性と、作品群の解釈を巡る関係性は、別レイヤーの関係性で、まずは別の考え方で評価、整理されるべきなのです。
 このアタシの理解(意見)は、映像作家など、仮面ライダー系作品の、スタッフ、キャストたちが、それぞれのイマジネーションを汲んでくる主要ソースの1つとして、マンガ版も重視したはずだということを否定はしません。ただ、ライダー系の映像作品は、古典的な意味での「原作の映像化」とは違う関係だ、といった理解(意見)も込めています。

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 補論の上記で示唆しているのは、いわゆる物語のデータベース消費のような作法のことではありません。
 「(物語の)データベース消費」と言われる場合の「データベース」は、あくまで比喩のはずですが。同じように比喩で言ってみるなら、「データベース」ではなく、過去の先行作品群を「アーガイブ」のようにして参照する作法について、アタシは言っているつもりです。

 「データベース消費」というのは、例えば「定型に還元される物語と効率のよい感情移入のシステム」を前提的に期待した消費者が、物語商品に「読み飛ばしてもわかるような内容しか語られていない」とみなすような、そんな消費スタイルを指します。(東浩紀、『リアルのゆくえ』、東浩紀、大塚英志、講談社、2008.)

 一方、アタシが、仮面ライダー系作品のスタッフやキャストが「それぞれのイマジネーションを汲んでくる主要ソースの1つとして」マンガ版も重視した、と言っているのは、そんなデータベース的消費のスタイルには収まらないような、もっと積極的な解釈のことです。

 そして、仮面ライダー系の作品群を、今現在の視点から、“アーガイブ的”に参照し、解釈していくとしたら、アタシの意見では、おそらく、SFマンガ風の仕立てではあったマンガ版よりも、最初のTV版『仮面ライダー』の最初期の方が、ソースとしての参照度は高いだろう。一連の関連作品を観続けてきてそう思えます。
 ここで、「TV版『仮面ライダー』の最初期」と呼ぶのは、低視聴率で路線変更が加えられたと伝えられる以前の時期のこと。番宣スポットなどで「特撮怪奇アクション」と紹介された時期のドラマの方が、マンガ版よりも、有縁作品群のソースとしては重要だ、と言うのがアタシの理解です。
 例えば、『仮面ライダーBlack』にしろ『仮面ライダークウガ』にしろ、ある程度のインターバルを置いた後、ライダー系の連続TVドラマが作製される時、繰り返し再帰して、リニューアル表現されるのが「特撮怪奇アクション」的な内実だからです。

 もちろん、「特撮怪奇アクション」は、あらゆるライダー系作品で中核的な要素になってる、とも言えない。他にも重要なタグはいくつかあるし、「特撮怪奇アクション」的要素の濃淡は、タイトルごとに異なる。しかし、どのタイトルにも、多かれ少なかれ含まれている点では、作品群の「主要」な要素だ、と言えます。
 こうしたアタシ的理解(意見)で、一連のライダー系作品に共有される「特撮怪奇アクション」の要素を重視するなら、その立場では、原作マンガ版よりも、むしろ同じ石の森作品でも『スカルマン』の方が重視される、ことになります。

 『サイボーグ009』的なアンニュイなヒーローのタイプは、仮面ライダーよりも、むしろ、キカイダー系作品群の方に、より有縁性が高いのかもしれません。『アンドロイドV』とかね。こちらの件は断定しませんが。


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