【レポート】マリリン・モンローのフェミニズム的批評

 禁酒法時代のシカゴ。
 ギャングの抗争に巻き込まれ、聖ヴァレンタインの大虐殺を目撃した二人の失業中のバンドマン、
サックス奏者のジョー (トニー・カーティス)とベース奏者のジェリー(ジャック・レモン) は
ギャングの追っ手をかわすため、マイアミに向かうという女ばかりの楽団に紛れ込む。
 女装した二人はそこで歌手のシュガー (マリリン・モンロー) と知り合い、
二人は彼女に夢中になるが、彼女は成金と結婚することを夢見ている。
 やがて、バンドはマイアミに着き、ジョーは百万長者に化けてシュガーに接近する。
一方ジェリーは初老のプレイボーイ、オズグッド三世 (ジョー・E・ブラウン) に追いまわされる。
そこにギャングの親分コロンボ(ジョージ・ラフト)の一味も現われ、
ジョーとジェリーと、二人を追ってきたシュガーはオズグッドの船でマイアミから逃げ出す。

 1959年4月に公開されたモノクロのハリウッド映画で、
第17回ゴールデングローブ作品賞、男優賞、女優賞を受賞した作品、「お熱いのがお好き」である。
 この作品で主演女優を演じたのは、1950年代中盤から現在に至るまで「セックスシンボル」と賞され、
日本でも「白痴美」と言われた、かのマリリンモンローである。
男に媚びを売るような態度と、少し頭が足りないような甘い声。
幼児のように尻を振って歩くモンローウォークと言われる歩き方。
この映画は公開されるや否やたちまち大ヒットした。
 この映画の中で、モンロー扮するシュガーは、「将来よ。結婚とか。それでフロリダに。」
「百万長者がたくさん来るわ、渡り鳥みたいに。」「自分のヨットと客車とハブラシを持ってる人なら」という。
この時代のひとつの価値観を端的に表す言葉とは読めないだろうか。

 金持ちと結婚することが幸せに繋がる、即ち、幸せが金で買えた時代。
そして、女性は非生産的で、男性と結婚することではじめてその幸せを買える、そんな時代。

 ハリウッドは、マリリンのセックスアピールを商品として売った。
マリリンは自分がそうした商品として売られることに抵抗し、戦いながらも、
セックスそのものについては軽蔑することも、嫌悪することもなかった。
だが、人工的なセックスや、人工的なセックスアピールについては、徹底的に嫌ったという。
実際、マリリンは自分の性的魅力について自覚しており、男性を惹きつけられることを喜んでいた。
彼女の親友とも言うべきノーマン・ロステンによれば、彼女は自分が熱烈に愛されているという証拠が必要で、
それは自分が誰にも望まれていないというひそかな恐怖、私生児で母もいないという心の傷を癒すためだそうである。
 再びこの映画に目を戻すと、この映画には二組の恋愛が現われる。
一組は魅力的な女性シュガーと身分を偽って彼女に接近するジョーのカップル。
そしてもう一組は初老のプレイボーイにしてホンモノの大富豪オズグッド三世と女装したままのジェリーのカップルである。

これらのカップルは、どちらもウソの上に成り立つモノであるが、最終的にはどちらもそのウソをバラしてしまう。
オズグッドが「オレは男だ!」と告げたジェリーに飄々と「完璧な人間はいない」と
答えるそのセリフはコメディ史上に残る屈指の名セリフだが、ここでは置いておく。

問題はもう一組だ。ジョーが自分を追いかけてきたシュガーに
「オレを追うな。嘘つきのサックス奏者だ。近づいてはいかん。金持ちのいるところへ戻ってくれ。惨めな思いはするな。」
と真実を告げ諭すも、シュガーは「そう。あきらめさせて。」と甘えたように言うだけである。
つまり、ここではもう既に「金持ちと結婚する」という呪縛から開放されて、
「愛する男と結婚する」という方向へと、シュガーは向いている。
つまり、これは、男性から無条件に与えられる経済的裕福という幸福から、
自らが積極的に手に入れられる愛情という幸福へと、彼女の意識がスイッチしていることを示している。
自らの選択によって、幸福というモノを主体的に勝ち取る、つまりは女性の自立である。

 だが、ここで、映画のストーリー全体を通してみると、
シュガーはいつまでたってもサックス奏者から離れられない自分を「おばかさんなの」と評価しており、
つまり先ほどのシーンは「またもやサックス奏者から離れられない頭の弱い女性」と観客には映る。
そして、それがかわいいと思っている男もたくさんいるだろう。

ここに、当時の女性の2つの側面が見られる。
「積極的に幸福を勝ち得ようとする自立した女性」と、
「状況に流され、勢いで判断してしまう頭の弱い女性」である。

どうやらこの時代、女性は女性を前者として見ており、
男性は後者として見ていたようである。
それを考えると、60年代から活発になったフェミニズム運動だが、
この頃には既にその素地ができていたことがわかる。
自立したがる女性と、自立させたくない男性。
この映画からそれを引き出すのは、すこし大げさだろうか。

 このころ、まだ少数であったフェミニズム運動家は、
マリリン・モンローを「男性に媚びを売る女」と評し、嫌悪の対象にした。
男にすがり、自立しない女性の代表のように云ったのだ。

だが、現実のマリリン・モンローは「マーヴェラスな女優」を目指して日々研鑽を積み、
また結婚しては献身的に夫に尽くした、非常に自立した女性であったという。
だが、ハリウッドも彼女の所属していた劇団20世紀FOXも、彼女のセックスアピールを商品として売るべく、
彼女に与えられる役は、すべて頭が弱くかわいらしい、男好きのする女性ばかりであった。
そして、彼女はその作られたイメージから「バカブロンド」と呼ばれ、演技の出来ない女優と評価された。

マリリン・モンローはそれと戦いながらも、女優として与えられた役は完璧にこなそうとした。
だが一部のマスコミはその作られたイメージこそがマリリン・モンローの本性だと思いこみ、
彼女の無知を笑うつもりで無粋なインタビューをして、逆に彼女の機知に富んだ返答で恥をかくこともしばしばだった。

 マリリン・モンローは1962年に36才の若さで永眠したが、
その1960年代は、「狂乱の60年代」と云われるとおり、
アメリカの精神状況が大きく変わった時代だった。
政治的には、従来あまり自覚されなかった国内問題や国際問題に追われ、
独善的なアメリカンデモクラシー讃美が適わなくなり、
経済力も71年のドルショックへ向けてか衰えだし、
伝統的な秩序が人間を束縛するとして排斥され、
解放がスローガンとして掲げられ、
たとえばウーマンリブ運動が一世を風靡した。
取り澄ましたような「上品さ」が払拭され、
個人の自分本位な生と、その文化的な営みそのものが評価される時代となった。

その時代の中で、改めて振り返ったとき、
マリリン・モンローは50年代のうちに、これら次の時代を魁けていた。
肉体と魂の両方を賭けて、自らの生の解放に尽力していた。
それは時には「セックスシンボル」と評価される事への抵抗であったり、
あるいは女優として求められることのみを積極的に追い続けることであったりした。

 日本の作家、舟橋誠一は「第二、第三のマリリンモンロー」を夢見たという。
未だ世界に置いて、そう呼ばれる人はいない。
だが、彼女は女性の自立を体現しつつ、
男性に献身的に尽くしたりおばかさんを演じたりと従来の「かわいい女」であることも拒まなかった。

 マリリン・モンローは、自立と女らしさを兼ね備えた女性であり続けようと努力した。
その姿は、50年を経た今でも、我々に感動を与えてくれる。

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