めも:ものはだいじに

ずっと放り出していた小さなノートが二冊出てきた。中にあったのはどっちも黒歴史だ。
僕がそれを書いたのは中学生くらいの時だった。その当時流行ったゲームとかアニメの設定をちゃんぽんにして放り込んであるような代物だった。とても他所の人には見せられたものじゃない。だから、当時、僕がこのノートを書き纏めているときはもう一つ別の話も書いていた。もっとも、もう一品の方も他人には見せにくい。けど、ちゃんぽん設定よりは少しだけはマシだから話しやすい気もする。
それは僕が拾った茶色いすすけた猫の話だ。それがある日、空いていた部屋の窓から飛び出して、町内をぐるっと一周して帰路につくだけの話だ。何も起きない。ただ風景だけが延々と書き連ねてあって、外の世界は広かったとだけ記してある。それに一体何の意味があるのか、僕にはよく分からない。
ただ、きっと、当時の僕には面白かったのだろうと思う。だから僕は敢えて何も思わずその二冊のノートを大事にとっておいた。
けれども、当時の僕と言えばもっと斜に構えていた。できもしない技術のことばかり気にしていたためか、やたらめったら類語辞書とか文章術に関する本を買いそろえていた。おかげで当時は持ち金なんてほとんどなかったのを覚えている。おまけに今ではどれもこれも押し入れの中で埃を被っているという有様だ。
他にも色々と思うことがある。書写を繰り返して必死に文章力をつけようとしたが、返って無理矢理名言葉遣いが増えてしまったこと。何でもかんでも真似てしまったために自分の文章がしっちゃかめっちゃかで破綻してしまったこと。類語辞書に頼って無理矢理慣用句を使っていたことがバレバレなこと。いっぱいだ。いっぱいある。
その極めつけが風景描写だった。
三行も四行も五行もきらびやかな文章を並べていた自分にはかえって頭が下がった。たった一つ眺めただけなのに細部まで頑張って書いていた。そんなに風景なんて真面目に見もしないのによくもまあ書いた物だと思えたくらいだ。ほとほと頭が下がった。でも、僕はこういう感情を今の僕に対してもいつか覚えることを知っている。だからもう貶すことはやめにした。
僕は二冊のノートをそっと本棚の奥にしまった。そうして何処にもなくさないように念入りに確認して布団に潜った。
 
 
 
僕が自分の書いた物をなくしてがっかりしたことなんて数えきれやしない。それこそ星の数ほど書き込んで星の数ほど書き込んだものを消していった。紙、パソコン、ケータイ……時には暇つぶしに折り紙やレシートの裏にもせっせと何かを記した。大半が言葉遊びだ。指を折って数えながら、言葉を口ずさんで、5と7の数字になるように調整したり、あるいは、歯切れのよい文にはならないかと遊んだり、そんなものだ。
そうして遊び終わったが最後、用済みとばかりに消し去った。ゴミ箱に捨てられるものは捨てたし、第一、大半が長く手元に残らなかった。ノートならば雨水にぬれて使い物にならなくなり、フロッピーやハードディスクは消耗して使い物にならなくなり、インターネットでは書き込んだものを気分で消してしまっていた。仮に残っていても、どこにあるのかも僕は把握していない。忘れん坊な僕は自分の書いた物を置いた場所を忘れていたのだ。
この性分が祟ったんだろう。ずぼらな性格とはよくないものだ。小さいときから家の合い鍵をなくして、外で待ちぼうけをしている子供がいたらすぐにその性格を直してやって欲しい。保険証も手帳もなくすのならば大事なものは何度でもなくす。言うまでもなく、書いたものもなくすのだ。
なくした後の僕は決まってなくしたものを美化した。実際の十倍以上も美化するものだから、再現なんて出来なかった。何度も諦め何度も修繕に挑戦した。それは最初になくした一対のノートの話であるし、後になくすことになるフロッピーディスクやハードディスクやUSBメモリーのものもだ。
そうしてお話はあるとき、ひょっこり出てきた。ひょっこり出てくるときは決まって、圧倒的な技量の差を身につけた後だった。相手が子供だったなら、一体どこに行っていたんだと訊ねたい。だけれど、なくしたのは僕自身に他ならない。財布も落とすし、給料の封筒も落とすそんな僕だからだ。
けれども残念なことになくしたものはしゃべらない。当時の面影を残したまま、ただ黙って僕に見せてくれる。そうしてありありと見ていたものを思い起こしてくれた。風景もそうだし、人物もそうだし、音もそう。何より、最近の方がほどほどに鮮やかだったり情報が多かったりもするのがちょうどいい。
 
 
 
そういう風なものを経験するとどうやら角が丸くなるらしい。
今ではすっかり、酷評はやめたくなった。何も知らない人にとっては二束三文の価値にならなくても、書いた人にとっては唯一無二の価値があるならそれで良いと思った。一つ一つなくした後に重みに気がついて、僕は血眼になって探したから分かったんだ。バカだとは思う。そうして、見つからなくて途方に暮れて、同じ子欲しさに復元と復旧に明け暮れた。でも、できなかった。できなかったから重みを知っている。さらに、そういう子ほど、どうでもいいときに限って、のそのそと僕の前に姿を現わした。一体どこに行っていたんだと問いただしたくなるが、やはり相手は何も言わない。
ここでどこかに遠出した猫でも女の子でも何でもいい、そういう話を書いたら面白い気もした。しかし、僕にはもう書けなくなっていた。いつしかライトノベルにかぶれてライトノベルに飽きた僕は、最初からそういうものを欲していないんだろうとも感じた。単なる作文か、その模造品が欲しかったんだろう。
そういう風にして僕は技巧を軽視し、むしろ努力を重要視した。書いた物を大事に出来ないのに大事にしてねとも言った。でも、いいじゃないの。書いても書いても僕は忘れん坊だから保存した場所を忘れたりしてなくしてしまう。なくした後に大事さに気がついて思いっきり探す。ふっといなくなるときのあの喪失感は耐え難いものだと知っていた。
とーしろーで満足しろと言い続けた僕は今では知られている通りだ。病院がよいの暇つぶしがてら何かを書こうとするど素人だ。でもいいじゃない。少なくとも、以前よりは自分を受け入れやすくはなったと思う。自分に出来ないことは出来ないし、自分に出来ることはご覧のように出来る。出来ないことを出来るようにすることも良いけれど、遮二無二になって努力して、それで斜に構えて周りに当たり散らすのは前よりも減った。
この気持ちがあるのならば、別に擬人化しなくても良いかもなとも思うためか、僕は相変わらずこの件も作り話にする気はない。書いたときから手元に戻る今に至るまで、何だかんだ言ってほどほどに楽しかったし、ぐちぐちと文句はたれても、たまに全体的にはほどほどによかったと思うこともある。それならもう良いじゃないと思う。それ以上に何も求めてはいない。気取って使い慣れない言葉に振り回されるのはまっぴらだった。
惜しむらくは、もっと早く自分が書いた物の大事さに気がついたら、もっと丁寧に扱っていたんだろうし、書いた物をなくすこともなかったんだろう。どうかへそ曲がり屋のようにはならないで欲しい。何故だか知らないけれど、一度でも、いらない子扱いするとすっ飛んで逃げていく。彼ら彼女らはああいう存在だと僕は思っている。何も丸ごと姿を消すという罰ゲームはしなくて良いんじゃないの。そういう経験を経てすこしだけ素人らしくはなったと思う。

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