~風~
「よ、ひさしぶり」
そいつは突然現れて、私の肩を叩いてくる。
私は晩ごはんの仕度をしていて、煮立った鍋に鯖の切り身を入れようと、鍋の蓋をあけたばかりの時だった。そのままの姿で固まってしまった私の顔に、立ちのぼってきた湯気が容赦なく襲いかかってくる。
顔をあげ、曇ったメガネの向こう側から、そいつの懐かしい笑顔が透けて見えてくるまでに、ずいぶん時間がかかったように思う。
「どうしたんだ、そんなきょとんとした顔をして」
なのにそいつは、ついさっきまで、そこにいたかのような小憎らしい態度。
「姿が見えないだけで、俺はいつでもお前のそばにいるって言っただろう? まだ信じてなかったのか」
「……勝手に人の心を読むな」
「読まれたくないなら油断するなよ」
いつもいつも、そんなふうで。
そんな彼を、私は
「風」
と呼ぶ。
泣きそうになった私は急いで顔をうつむけた。
帰ってきてくれたのは、うれしいんだ、風。
でも気まぐれな風は、また、いつ、いなくなるかわからない。前回は、わりと長くて三年ほどこの家にいた。私がすっかり安心して、風はもうずっと私のそばにいてくれるんだと、そんなことも思わなくなるくらい一緒にいるのが当たり前になったころ、雪の降る朝、気がついたら家のどこにもいなくなっていた。
あれから五年。
風は、いる時間より、いない時間の方がよほど長い。
気を取り直し、ガスコンロの火を弱めて鍋の中に鯖の切り身を二つ並べた。少し手が震えている。味付けにみりんと醤油。入れすぎないように注意して。用意しておいた太葱のぶつ切りと、おろしたてのしょうがを入れ、隠し味に梅干し一つ。
鍋の蓋を、静かにとじる。
その間に風は、対面キッチンの向こう側、リビングのソファに腰を下ろしていた。
「今度はどこでなにしてた、風」
すっかり落ち着きを取り戻した私は、最も気がかりなことを聞いてみた。
ソファの上で、さすがに疲れた様子の風は、ふーっと長い息を漏らした。振り向いて私の顔色をうかがったあと、
「取りあえず、金」
どさどさと音を立て、麻袋からソファに紙幣の束をぶちまけた。
それで終わり。
風は、いなくなっていた間、どこで何をしていたのか、私に教えてくれたことは一度もなかった。
今回も、金を持って帰ってきたんだから、それで文句はないだろうといわんばかりだ。
「でな、もうそろそろ、ここを引き払え」
「もう?」
濡れた手をエプロンの裾で拭きながら、私は風に近づいていく。
「もうって、そろそろ十年になるんじゃないか? ひとところに長くいるとやばい。俺は明日旅立つから、二、三ヶ月うちにはどこか適当な家を買って引っ越しとけ」
「え!」
私はあいた口がふさがらない。
「明日、旅立つ……って?」
「次のオファーが待ってるんだ」
「風!」
そんなふうに、
私が、
怒鳴ったとたん。
風は、ふっと目の前から消えた。
「……風?」
からからと緑の風が、リビングの中を駆け抜けていく。
「ごめん、風。戻ってきてよ、もう二度と怒鳴ったりしないから」
──姿が見えないだけで、俺はいつでもお前のそばにいるって言っただろう?
からかうように私の耳もとでささやくと、南側の大きく開いた窓の外へと駆け抜けていった。
残された私の耳に聞こえてくるのは、鯖の煮えるぐつぐつという小さな音だけ。
「風……」
窓辺に駆け寄り、空を見あげた。
まぶしい。
向こう側までも見透かせそうな、突き抜けた青い空。
でもそこに、風の姿はなかった。
私はずっと、夢を見ているだけなのかもしれない。
ときどき、そんなふうに思うことがある。
本当は風などいなくて、寂しがりやの私が勝手に作りあげた、架空の人物。
ソファに札束が置いてあることさえも、風がそこにいた証拠にはならない。
どれくらい、ぼーっと空を眺めていただろう。鯖の煮える良い香りに、お腹が鳴って我にかえった。
キッチンに戻り、鯖の煮え具合を確かめる。
ぐつぐつ、ぐつぐつ。
鍋の中で、鯖の切り身が飛び跳ねている。
一切れではなく、二切れ。いつも気がついたら、風の分も用意してしまっている。多分こういうことを言うんだろう。風は姿が見えないだけで、いつでも私のそばにいるってことは。
私が風に教えられたのは、私たちは永遠の生命を約束された、この地球で一対だけの、時の番人。誰とも友だちになれない私が、ゆいいつ待っていることのできる男、風。
全然、納得できないんだけどね。
「ん、味が薄い」
わがままな風は、味が薄いと食べずに残す。
苦笑しながら、煮汁に醤油をちょっと足した。
*****
シュールですけど……
「姿が見えないだけで、いつでもそばにいる」って、どういうことなのかを、表現したくて書いた掌編。
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