『終戦一年前のチェックメイト』/山崎雅弘(歴史群像100号)ただの講和に興味はありません! 独・日・伊の中で無条件降伏する国がいたら、連合国の前にひれ伏しなさい! ……この言葉の裏にある連合国の憂鬱

 「無条件降伏」
 戦争で相手に「無条件降伏」以外は許さないというのは、つまるところ、講和に応じるつもりがなく、徹底的にボコボコにする、という意思表示である。
 この宣言が出た1943年のカサブランカ会談の当時、すでに枢軸国の劣勢と連合国の優勢は、はっきりしていた。枢軸国に、勝ちを手に入れる手段はもはやなく、後はこの戦争をどう終わらせるか、だけが焦点となっていた。
 そして、それこそが連合国にとっての憂鬱だった。枢軸国が頭を下げて、停戦を申し出る可能性があったからだ。特に、1943年時点でなおも国土の広い範囲を支配されているソ連が、その返還を条件にドイツと単独講和をする可能性は、決してゼロではなかったからである。
 問題となったのは、連合国の足並みが乱れることで、大戦を引き起こした枢軸国への仕置きにも、その後の戦後世界にも、禍根を残す……という、未来や仮定の話ではなく。

 ぶっちゃけ、国民が納得しないのだ。
 アメリカにせよ、イギリスにせよ、そして独裁国家のソ連や枢軸各国にせよ、国家総力戦を進めるためには、国民の強い賛同が必要である。そのため、どの国も、国民の好戦性を高めるためにありとあらゆる手段を費やした。そしてまた、国家という至高の共同体幻想を国民が共有する20世紀という時代は、国家の敵とはすなわち、抹殺すべき対象なのである。

 21世紀の今の時代で言えば、「対テロ戦争」のようなものである。
 犯罪者ならば、逮捕して、裁判にかけた上で処罰する必要がある。しかし、これがテロリストならばどうだろうか? 逮捕するのではなく、殲滅。裁判など必要なく殺害するのが当然、という風潮がまかり通っている。では、犯罪者とテロリストの違いは何かというと、実は客観的な基準などないのである。「こいつはテロリストだ」と多くの国家や国民が認定してしまえば、そいつは犯罪者ではなくテロリストなのだ。

 第二次世界大戦という未曾有の戦争は、国家指導者から、敵国に対する妥協を奪ったのだ。国民が妥協を許さないがゆえに。
 それでも、負けが確定してしまえば、それどころではない。
 1944年6月。西部戦線のノルマンディー上陸作戦、東部戦線のバグラチオン作戦、そして太平洋でのサイパンの戦い。枢軸国は、ついに敗北へのリーチがかかる。負け確定。ならば、もう国民がどうこうではなく、妥協できるところは妥協しなくてはいけない。日本で東条内閣が倒れ、ドイツでヒトラー暗殺計画が進むようになったのも、負けが確定したからである。妥協点を探り始めたのだ。
 だが、それを受けるべき連合国の側はというと――正直、妥協をする余地は残っていなかった。国民の総意は、戦争の責任のすべてが枢軸国にあり、悪いのはすべて枢軸国なのに、なんで妥協する必要があるのか、ということになる。現代で言えば、テロリストと交渉はしない、というノリである。

 勝っているということは、こっちが正しいということだ。
 こっちが正しいのに、間違っているヤツと妥協はできない。
 まったくもって、正義は無慈悲なことである。

 連合国が持ち出した「無条件降伏」とは、正義が悪に向ける断罪であり、そしてそれは、21世紀の今も、テロリストと見なした相手への容赦のなさとして、続いているのである。

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