前島賢、著『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』、ゼロ年代おたく系文化の、前史も含めた同時代的証言として、示唆が豊富♪

 『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』は、評論家、文筆家の前島賢さんの著作。1982年生まれの著者、はじめての評論一冊本で、ソフトバンク新書から2010年刊行。

 主に扱われているのは、「おたく向けコンテンツ・シーンのゼロ年代の動向について」で、a「セカイ系という言葉の変遷」と、b「『セカイ系』を論じた種々の言説が言い表そうとした事柄の変遷」と、c「『セカイ系』を意識した、あるいは関わりを持つ諸作品」とが、言説と作品との間の相互影響も含めて整理されています。
 アニメ、ゲーム、ライトノベル、批評などの分野を横断しながら、分野間の脈絡(影響関係)を追いやすく整理してるところもいい。
 かいつまみになってるかもしれない危惧はあるけれど、アタシ評価では、脈絡の追いやすさとのバランス・シートはプラス。書誌の網羅的なデータ集なら、ネットをちょっと探れば、自分で整理できるしね。

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 「ポスト・エヴァ」云々の副題は、とりあえずゼロ年代おたく系文化の前史、あるいは起点という位置づけです。

 新書のカバー表4には、「アニメ、ゲーム、ライトノベル、批評などなど--日本のサブカルチャーを中心に大きな影響を与えたキーワード『セカイ系』を読み解き、ポスト・エヴァの時代=ゼロ年代のオタク史を論じる一冊」とあるけれど。
 これは映画のトレイラー風のハッタリ風味だと思う。ウソや誇大広告まではなってないけど、内容の一面だけを強調したヒッカケではある。
(こうしたカバー周りや、腰帯コピーの文責は、通例、著者ではなく、出版社の編集部にある)

 著者本人は、この著作を、論じられている分野についての「『正史』を紡ぐための土台、叩き台として」(同書、序章)公表したようです。
 あるいは「あとがき」には、「セカイ系、そしてゼロ年代のオタク文化とは何だったかのかを問うための道具、土台として使っていただければ、これ以上の幸せはない。」ともあります。
 アタシ的には、むしろ、「(前史も含めた)ゼロ年代のコンテンツ体験の同時代的な整理、証言」として読み、好感を持ちました。
 好感を抱いただけでなく、新鮮な示唆や刺激を幾つも受け取れたので、読んで良かったです。

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 『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』の論には、アタシは、細かな点では、疑問や異論、幾つか抱いてます。
 けれど、この本からは、新鮮な示唆や刺激を幾つも受け取れた。

 例えば、著者の考えをアタシなりに言い換え整理してみると、「『セカイ系』という言葉で、指し示されようとした作品群」とは、「自意識にまつわる諸もんだいの在り様を、主題的に描写している、おたく系諸作品」といったところになります。

 この観点の生産性は高い。

 「セカイ系作品群」についてよく言われる、「キミ・ボク関係」や、「身辺的な狭い関係性」及び「抽象的で大きな物語との直結」の、作品内実における関連も、理解しやすくなる。

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 ちなみに著者も関わりを持つ限界小説研究会編の評論集アンソロジー、『社会は存在しない セカイ系文化論』(南雲堂,2009)では、セカイ系作品類型の一般的定義のアレンジバージョンが、以下のように提起されています。

物語の主人公(ぼく)と、彼が思いを寄せるヒロイン(きみ)の二者関係を中心とした小さな日常性(きみとぼく)の問題と、「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的かつ非日常的な大問題とが、一切の具体的(社会的)な文脈(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群。

 上の「社会は存在しない」で提起された定義は、『セカイ系とは何か』でも参照事項として引用されてるんだけど。一般によく聞かれる定義よりも、一段階練れた定義になってる。

 「小さな日常性(きみとぼく)の問題と、『世界の危機』『この世の終わり』といった抽象的かつ非日常的な大問題とが、一切の具体的(社会的)な文脈(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群。」の、内、「作中社会の『社会的文脈』の断線」が、セカイ系作品の定義をなすという含意。ここが、一般的によく聞く定義より練れてるとこ。

 例えば、『新世紀エヴァンゲリオン』(とりあえず、旧世紀版の方としておきます)について、「この作品がセカイ系かセカイ系でないか」と言った論議が、ちょっと前にはあったらしい。

 よく聞く類の定義、例えば「小さな日常性と抽象的な大きな問題が、一切の中間項なく直結する作品」だと、「エヴァ」の作中に、一切の中間項ないのか? ってツッコミ所が生じる。
 「エヴァ」の場合、ないわけじゃぁないです。断片的、示唆的な描写で、社会は現在の社会とは違うスタイルで続いている(存続している)ことは描かれている。
 もし、こうした、断片的、示唆的描写による暗示を認めないとしたら、およそフィクションの類は、原理的に成立が困難になってしまう。

 「一切の中間項なく(直結)」を、「一切の社会的文脈を挟むことなく(直結)」に置き換えるとどうか。
 確かに、旧作エヴァでは、碇シンジをとりまく日常生活空間と、日本国や国連といった社会との社会的文脈は途切れています。
 何筋かの脈絡がつながってるかなー? って気がすることはあっても、どこかで途切れたり、作中の妄想や、陰謀論と入り混じったりして、「使徒との戦い」「人類補完計画」と言った大きな題材との脈絡は繋がっていかない。
 社会的な脈絡が繋がっていかないので、戦いに社会的意義を見出せないまま、大きな状況の変転への直面を強いられてくドラマが、旧作の碇シンジのドラマです。

 この「社会は存在しない」で提起された定義は、コロンブスの卵と言うか、あるいは、セカイ系を巡る論議を通して、実際に論点になっていたのはここだろう、といった掘り返しでしょうか。とりあえずここで判断保留しておきますが。

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 『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』の方で提起されている(アタシなりの要約整理ですが)、「自意識にまつわる諸もんだいの在り様を主題的に描写している、おたく系諸作品」は、著者独自の整理になりますけれど。これは確実に、過去の論議の論点の掘り下げ、あぶり出しになっています。
 それに、セカイ系作品群それぞれのスイートスポットとでも言える、要点をよく言いあてている。
 それぞれの作品を読み解いてくいくときの糸口として有望。
 価値判断の面で、よりニュートラルなところも、定義としていい。

 バズワード(仲間内でしか通用しない半隠語で、定義が曖昧な感覚語、雰囲気語)として生まれた「セカイ系」が転用された、「一般に流布している定義」は、定義の要をなしていないって主旨の指摘は、説得的。にも代わらず、「セカイ系」という言葉はゼロ年代を通じてかなりの論議の論題になった、それは何故か? という論旨構成も面白い。

 さらに言うなら、「自意識を巡る諸もんだい(問題系)」を言って、「内面」を持ち出さないところも、論旨の打ち筋がいい。
 アタシが思うには、過去の日本語文学(近代日本語文学)で探求された「近代的内面」が困難になっているところに、セカイ系作品群のアクチュアリティがあるはず、と思えるから。

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 ところで、アタシは、自分からは「文学」って言葉は使わないんです。
 それは「文学」こそバズワードと化してる現状、と認識しているから。つまり「昔、『文学』とゆーものが大事にされてた時代があった」って、感じ。
 他の人が「文学」を使う分には、その人が言葉に込める含意なり、文脈なり、価値判断なりが了解できる分には、使ってもらえばいい、と考えています。

 そういうわけなので、「自意識を巡る諸もんだい(問題系)を描く諸作品」といった概念を内容にしてる、著者の「文学」の用法はわかった。
 前島賢さんは『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』で、セカイ系作品群を「オタクの文学」とも呼んでいる。
 アタシはこの意見(セカイ系作品群は「オタクの文学」)には同意しない。「おたくの小説」を侮るわけではなく、「文学」の方こそ「もう死んでいる」……ってゆーか、バラけきってて、纏まりがなさ過ぎる、ってのがアタシ的観点なので。
 けれど、著者が「セカイ系とは何か」で論じている事柄は、とりあえずわかった。

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 とゆーよーな感じで、『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』、アタシは、細かな点では、疑問や異論、幾つかある。あるけれど、著者が提示した整理には、かなりの説得力を感じています。
 論述からも公正さ--精確には「公正さを目指す意志」が読みとれますし。

 もちろん、この説得力は、「セカイ系とは何か」で、著者が依拠してる視座(観点)を前提にしたなら、の説得力で、別の観点に立てば、また別の同時代的な脈絡が、有意味なものとして浮き上がってくることでしょう。

 そういう意味で、アタシはこの本を「コンテンツ体験の同時代的な整理、証言」として読んだ。

 著者には悪いかもしれないけれど、アタシはフィクションの類について「正史」の成立可能性を、著者のようには信じていない。つまり「文学史」とか「美術史」とか、そーゆー類が、歴史書として信頼に足ると思っていない。
 分野としても、「言語史」なり、「社会史」なりのサブ・ユニットとしてなら、あり得るだろうけれど、それ自体では分野として自立し得ない。

 一般に、歴史の実態と言うのは、錯綜や食い違いの相にこそあると思うので。いわゆる「正史」のような整理は広い意味での物語(実話物語)であるはず、と思っています。
 「正史」の類の整序から、除外されたり隠蔽されたりする事柄の方にこそ、歴史の実相がある--より正確に言えば、アタシ的には、「歴史の実相」は「整序された物語」と「除外されたり、隠蔽された事柄」との関係にこそ見出せる、と考えているわけですが。

 著者とは異なるだろう、アタシ的視座から読んでも、『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』は面白いし、論題について、新鮮な示唆や刺激を幾つも受け取れました。
 「『コンテンツ体験の同時代的な整理、証言』として読ん」でも良かった、というのは、歴史を整序する以前の錯綜や食い違いについて、新鮮な示唆や刺激を幾つも受け取れたからです。

 題材となってる諸分野に、興味関心のある読者には、お勧めです。

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書誌情報:
前島賢,『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』(ソフトバンク新書),ソフトバンク クリエイティヴ株式会社,Tokyo,2010.
ISBN 978-4-7973-5716-5

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『セカイ系とは何か』(前島賢)紹介文の筆者ノート

 親記事「前島賢、著『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』、ゼロ年代おたく系文化の、前史も含めた同時代的証言として、示唆が豊富♪」について。

 親記事は、2010年5月26日に、最初に公開。その後、誤字脱字、不自然な句読点を直すなど、細かく文章を整えるために手を入れることは、数次にわたっておこなった。

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◎7月2日の部分改訂
 7月2日に、文意がとりづらい箇所に部分改訂を加えた。
 この部分改訂は、「文章を整える」類には収まっていないと判断し、以下に記す。

 「文意がとりづらい箇所」については、「Drupal.cre.jp利用の自己評価(第2四半期,4月~6月)」をまとめる過程で気づいた。

部分改訂を加えた箇所(改訂後):

 一般に、歴史の実態と言うのは、錯綜や食い違いの相にこそあると思うので。いわゆる「正史」のような整理は広い意味での物語(実話物語)であるはず、と思っています。
 「正史」の類の整序から、除外されたり隠蔽されたりする事柄の方にこそ、歴史の実相がある--より正確に言えば、アタシ的には、「歴史の実相」は「整序された物語」と「除外されたり、隠蔽された事柄」との関係にこそ見出せる、と考えているわけですが。

 著者とは異なるだろう、アタシ的視座から読んでも、『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』は面白いし、論題について、新鮮な示唆や刺激を幾つも受け取れました。
 「『コンテンツ体験の同時代的な整理、証言』として読ん」でも良かった、というのは、歴史を整序する以前の錯綜や食い違いについて、新鮮な示唆や刺激を幾つも受け取れたからです。

当該箇所の改訂前文章:

 一般に、歴史の実態と言うのは、錯綜や食い違いの相にこそあると思うので。いわゆる「正史」のような整理は広い意味での物語(実話物語)であるはず、と思っています。
 「正史」の類から整除される事柄の方にこそ、歴史の実相があるはず、と考えるアタシ的視座から読んでも、『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』は面白いし、論題について、新鮮な示唆や刺激を幾つも受け取れました。
 「コンテンツ体験の同時代的な整理、証言」として読ん」でも良かった、というのは、新鮮な示唆や刺激を幾つも受け取れたからです。



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