2010年、上半期の読書など

 2010年、上半期の読書などについて。
 振り返ってみての記事は、「2010年、1月~3月の読書など」と、「2010年、4月~6月の読書など」とに簡単に記した。

 この雑記記事には、振り返り記事をまとめながら考えたことの内、それなりにまとまりをなしてきた事柄を、ノート的に書いておこうと思います。
 強いて言えば、論考以前的な、考察のノートですね。
 これから検討を重ねて、一般的な通用性を高める必要はあります。
 例えば、『1Q84』についての考察は、作品を未読の方には意味不明なハショり方をしてる段階。そういう意味でもノートに過ぎません。

 ノートする話題は、以下の3つ。

【話題】

◎村上春樹『1Q84』BOOK1~BOOK3:物語は終わっていない
◎前島賢『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』:おたくたちの、セルフ・イメージを巡って
◎TVドラマ『仮面ライダーW』:注目の最終フェイズ(第4クール)

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◎村上春樹『1Q84』BOOK1~BOOK3:物語は終わっていない

 村上春樹作の『1Q84』は、この4月にBOOK3が出されれたことで、作中世界も作品も、観通しが良くなった。
 BOOK3で、お話(上辺のストーリー)には一区切りがついたわけだけど。
 物語は終わっていない。
 それは、BOOK2のラストで、お話に区切りがついたけど、物語は終わっていなかったことと、あまり変わらない事情だ。

 この件については、7月3日に発行された、季刊「考える人」No.33(2010年夏号,新潮社)掲載の「村上春樹ロングインタビュー」の談話内に、読者的に参考にできる言及がある。
 7月3日発行って、ぎりぎり上半期じゃぁないんだけど。まぁいいや。アタシ的には、上半期にずっと考えてたことの参考になったから。

 ロングインタビューから、話題に関連する要点を、アタシなりの要約も交えて抽出してみる。

・『1Q84』の続編を書くかどうかは、いまの段階では作者にもわからない。
・「三年間ずっとこの小説を書いてきて、いまはすっからかんの状態だから」
・BOOK4なり、BOOK0なりがあるかどうかも、いまは作者にも何とも言えない。
・「ただ、いまの段階でいえるのは、あの前にも物語はあるし、あのあとにも物語はあるということです。その物語は僕の中に漠然とではあるけれど受胎されています。つまり続編を書く可能性はまったくないとは言えないということです」

 つまり、作者が、『1Q84』の続巻を書くことがあるとしても、それは「すっからかんの状態」をリチャージした後になるだろう、って話。

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 小説家村上春樹は「作者は自作について語る最後の人物であるべきだ」って、フィクションの作者として実にまっとうなポリシーの持ち主。これまでも、作品の内実解釈については、直裁なコメントはしないという方針は、基本的に堅持してきてる。
 「考える人」のロングインタビューで語られてるのも、個別作品の内実解釈を、作者が特権的にあれこれ決め付ける類のコメントじゃぁない。
 だから読者は、気兼ねなく参考にしたりしなかったりできる。
 アタシは、参考にする。その辺は、小説家村上春樹に信頼感、抱いてるから。

 それに、『IQ84』のBOOK1~BOOK3について言えば、そこで描かれた物語は、あまりに終わっていない。
 つまりBOOK3は、本文の最後に、見えないインクで「未了」と刷り込まれてるような状態。
 「その物語は僕の中に漠然とではあるけれど受胎されています」とかの作者コメントを参考にするなら、早いか遅いかの差はあっても『1Q84』の続巻は書かれるだろうと思える。

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 村上春樹の創作スタイルを踏まえると、しばらく短編小説を書いていく可能性は低くない。あるいは、『ねじまき鳥クロニクル』第3部の時のように、しばらくの沈黙(と読者に思える)期間を置いて、続巻が書かれるかもしれない。もちろん、続巻は書かれない可能性だって、ゼロではない。

 もう1つ「考える人」のロングインタビューから引用すると「あるいはそのときにはもう興味がなくなっているかもしれない。『もうあの話はいいや』みたいに。そうなると、その話は書かれないまま終わってしまいます。いまは何とも言えません」って談話もある。
 「そのとき」というのは、もし『1Q84』が書き継がれるとしたらの「そのとき」だし、「すっからかんの状態」からリチャージして、次に長編にチャレンジする「そのとき」って意味のはず。

 例えば、作者の中に「漠然とではあるけれど受胎されて」いる物語の種が、『1Q84』とは別の作品に練成される可能性、これもあるとは思います。
 ただ、別の話になるとかも含めて、書かれない系の可能性は、そんなに高く見積もる必要はないと思うな。

 『1Q84』のBOOK1~BOOK3で描かれた事柄が、作者に「そのとき」がきたら「もうあの話はいいや」的になっちゃう程度のものかどうか。読者の側での、作品内実についての評価が、読者それぞれの、続巻の有無への予測や期待を左右する。要するにそういうことになってるのが当面の状況でしょう。

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 ともあれ、どうなってくにしても、読者は続巻の有無についての見極めをしばらく待つ必要はある。
 この「しばらく」は、数ヶ月ってオーダーではなくて、数年のオーダーの「しばらく」。
 例えば、村上さんが新作短編を何本か書いて(書くとして)、その後に『1Q84』とは違う長編を書き始めたら、そうなって、やっと、続巻なしがほぼ確定になるはず。

 アタシ的には、『1Q84』を読み返して、春樹の過去作を読み返して、又、『1Q84』を読み返して、って読書をしてけば、数年なんて、すぐ過ぎるだろうとわかってるので、特に不満はない。
 実は、過去1年ほどの読書がそんなふうだった。
(この読書スタイルは、他の系統の読書に負担がかかるのが難点だったんだけど。数年待つ必要があるってことなら、逆に、春樹作品再読の方をじっくりモードにしてけばいいので。かえって気が楽♪)

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 さて、「いまの段階でいえるのは、あの前にも物語はあるし、あのあとにも物語はあるということ」。
 この言葉は、『1Q84』未読の人には、あまりに当たり前のことのように聞こえるかもしれない。

 作中のキャラクターたちや、作中の社会には、作品の前にも、後にも物語はある。けれど、取捨選択をした切り出しに、メリハリもつけた構成をしたのが、小説(特に長編小説)のはずだからだ。

 けれど、ある作品から、読者が「作中のキャラクターたちや、作中の社会には、作品の前にも、後にも物語りはある」感じを、ありありと受け取れる場合、その感知は作品の表層からだけでは引き起こされない。
 作品の表層を読み通すことで、読者の一人一人の脳裏に立ち上がる、行間も含めた全体像によってしか、感知されない。

 「行間も含めた全体像」があまりに希薄な「お話」は、「説明的」と呼ばれる。しばしば「話の都合でまとめられてる」とか、「作者の都合で書かれてる」とか評されるタイプの作品も、この類だ。
 そうした作例では「作中のキャラクターたちや、作中の社会には、作品の前にも、後にも物語りはある」感じはほとんどしない。無理に想像しようとしても、活き活きした像は結ばれない。

 『1Q84』について言えば、行間は豊富だ。
 「説明的」かどうかは、色々な評価も聞かれてるけど、アタシには「作者の都合」「お話の都合」よりは「物語の綾なし」がはるかに重視されているように思える。

 「『1Q84』の続巻があるのか、ないのか」が、少なくない読者の間で話題になるのは、むしろ、表層(上辺)に近いお話が、あまりに綺麗にまとめられているためだろう。綺麗にまとめられすぎている感すら受けるとこもあって。それがミス・リードのように作用。物語の行間も含めた綾なしを、目立たない形に押さえすぎてるんじゃぁないかな? そんな気はする。

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 『1Q84』の、表層(上辺)に近いお話は綺麗にまとめられてる、にもかかわらず、物語の内実はあまりに終わっていない。
 作者がどうこう言ってるからって理由ではなく、読者として行間を手繰っていくと、そう思わざるを得ない。

 例えば、BOOK2で、さきがけのリーダーが青豆に語った「重い試練」を、彼女はまだくぐり抜けていないと思える。
 BOOK3のラストで、青豆当人は、くぐり抜けた気分になってはいそうだ。そうだとしても構わない。作中人物としてはもっともな感慨と思えるから。
 青豆が、かなりのストレス、プレッシャー、スリルを潜り抜けたのは、わかる。

 けれど、読者として、冷静に読み返していけば、青豆がBOOK3終盤で潜り抜けた試練は、実は、それほど重いものでもないと、思える。
 乱暴に言えば、タマルの支援で牛河の脅威を回避した後は、些細な偶然の連鎖で、カルト集団の追及を際どい時間差でかわした。

 例えば、天吾が、書きかけの新しい小説を書き上げることで、新しいレシヴァ(receiver)になる、といった試練に比べれば、BOOK3で青豆が潜り抜け試練は、重いとは言えない。
 さきがけのリーダーが、自分の娘と多義的に交わったように、天吾が新しいパシヴァ(passiver)と多義的に交わるとか、そういうことだって起こりえる。起こり得ないという物語的な保証は、描き出されていない。
(あるいは憶測になるけれど、BOOK2で天吾が空気さなぎを通して垣間見た、少女時代の青豆は、実は、これから生まれるはずの娘、なのかもしれない)
 BOOK3で物語が終わっていない、とは、例えばそういうこと。

 つまり、BOOK3のラスト近辺で描かれた、青豆と天吾にとっての至福のような時間は、試練の前の小さな静謐のように思える。物語的には、その方が自然なのだわ。
 『1Q84』の物語は、BOOK3では、あまりに終わっていない。

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 あるいは、読者の内には、BOOK3のラストで、青豆と天吾が、青豆が元いた世界に戻ったとみなして、「重い試練」は終了した、と読んでいる人も少なくないのかもしれない。
 けれど、BOOK3のラストで、2人が脱出した世界は、1Q84とは、又、別の世界で、青豆が元いた世界ではない、と思える。

 これについては、BOOK1第1章「見かけにだまされないように」、BOOK2第23章「タイガーをあなたの車に」、BOOK3第31章「サヤの中に収まる豆のように」を読み比べて観るといいと思います。

 特に、「サヤの中に収まる豆のように」の、最後のパラグラフは注目される。

 彼女は空中にそっと手を差し出す。天吾がその手をとる。二人は並んでそこに立ち、お互いをひとつに結び合わせながら、ビルのすぐ上に浮かんだ月を言葉もなく見つめている。それが昇ったばかりの新しい太陽に照らされて、夜の深い輝きを急速に失い、空にかかったただの灰色の切り抜きに変わってしまうまで。

 描かれているのは、月が「夜の深い輝きを急速に失い、空にかかったただの灰色の切り抜きに変わってしまう」のを二人がみつめてる様子。つまり、ここでは、二人が脱出する世界でも、月が「灰色の切り抜き」、ペーパームーンのように変わっていく様子が描かれてる。
(「ペーパームーン」の『1Q84』における含意ついては、BOOK1冒頭に置かれているエピグラフで示唆されている)

 天吾と青豆の二人が、脱出した新しい世界に、リトル・ピープルの影響力が及ばないという物語的な保障もない。それどころか、二人こそが、新しい世界に、リトル・ピープルを呼び込む糸口にはなりかねない危険の方が、物語的には自然だ。そうはならないという物語的な保障も、BOOK1~BOOK3にはほとんど見当たらない。
 強いて言えば、読めるのは、青豆と、天吾、それぞれの決意についての自己言及と、2人のロマンチックラブ

 青豆と、天吾それぞれの決意についての自己言及は、それなりに訴えかけてくる。
 けれど、例えば、BOOK2で、さきがけのリーダーが最後に口にした言葉「その世界はもうない」が、行間から引き寄せる喪失感の大きさと比べると、二人の決意だけでは、心もとない。
(もんだいのヵ所では、青豆も、リーダーの言葉に無言で応じてる)

 「あなたも」と青豆はいった。彼女の声は既に、死をもたらすものの不思議な透明性を帯びていた。「あなたもおそらくとても有能で優秀な人なのでしょう。あなたを殺さなくても済む世界がきっとあったはずなのに」
 「その世界はもうない」

 あるいは、青豆と天吾のロマンチックラブの成就も、さきがけリーダーの言葉の背後に暗示される喪失の大きの前では、刹那の高ぶりに思えてしまう。

 つまり、天吾が、小説を書くことを通じて、さきがけのリーダーのようになっていかない、という物語的な保障は、見当たらない。
 さきがけのリーダーに「その世界はもうない」と言わせた喪失は、大きなもので、個々人の決意や、想像的なロマンチックラブも、すでに呑み込んできて、「もうない」ものにしてきたはずだからだ。
 物語的なバランスは、今のところ、さきがけリーダーの言葉が暗示する喪失感、その背後にあるはずの大きな喪失の方に、傾いている。

 『1Q84』は、BOOK3で、話(上辺のストーリー)には大きな区切りが1つついた。けれど物語の内実は、あまりに終わっていない。

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◎前島賢『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』:おたくたちの、セルフ・イメージを巡って

 前島賢さんの『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』については、本の主題に即しながらの紹介文を、別にまとめています
 ここでかいつまんだ再説をしとくと、「セカイ系とは何か」は、「セカイ系を巡る色んな言説と、セカイ系と呼ばれたり、踏まえたり、乗り越えようとしたりしてる色んな作品との相互関係を追いながら、おたく向けコンテンツ・シーンのゼロ年代の動向を整理した同時代的証言」。

 アニメゲームライトノベル批評などの分野を横断しながら、分野間の脈絡(影響関係)を追いやすく整理してるので、これらの分野のどれかに興味、関心のある人にはお勧めです。

 こちらのノートでは、本の主題を離れて、アタシが刺激を受けた小さな話題を書いておきたい。「セカイ系とは何か」って主題からすれば、近傍に随伴してるような話題かもしれない。
 それが「おたくたちの、セルフ・イメージを巡って」の話題。

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 「セカイ系とは何か」で、著者、前島賢は、概略「自意識にまつわる諸もんだいの在り様を主題的に描写している、おたく系諸作品」を「セカイ系」とみなす視座を説得的に打ち出してる。

 ここでアタシなりの微修正を唱えるなら、「セカイ系」は「おたく系諸作品」の呼称ではなく、創作諸ジャンルを横断するムーブメントと思った方がわかりがいいし、観通しがよくなる。
 ここでムーブメントっていうのは、例えば、内向の世代とか、ニューウェーブとか、あるいは印象派とか、そういう類のこと。

 ムーブメントだとみなす方が、「セカイ系の乗り越え」と呼ばれるような作品と、セカイ系を追求するような作品とが、踵を接すように相前後して発表された動向も、ある作品が「セカイ系」とも「セカイ系の乗り越え」とも評され、評価が揺らいでる状況も、理解し易くなる。
 あるいは、バルビゾン派印象派後期印象派など、同系ムーブメントの間で、深化の試みも乗り越えの試みもせめぎあって展開したような様相も、理解し易くなる。

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 さて、「セカイ系とは何か」では本文の最終節に「オタク文化の思春期としてのセカイ系--新たなるセカイ系の誕生に向けて」と題されたパートが付されている。
 このパートには、「最後に、いささか妄想じみた、個人的な未来の展望というか、願望を書くことを許していただきたい」と、記されてる。つまり、最終節に記された事柄は、「セカイ系とは何か」本論の結論ではない。
 本論をまとめた後に、付記された、「展望、ないしは、願望」にあたる。

 最後に、いささか妄想じみた、個人的な未来の展望というか、願望を書くことを許していただきたい。
 セカイ系は、時にその定義はしばしば大きく変わったが、しかし「私」を巡る問題系であるという点は、変わらなかった。まるでオタク文化という場所自体が思春期を迎えたかのように、自意識過剰の10代の少年のように、この「私」を巡る問題が95年からゼロ年代を通じて語られ続けた。
 オタク文化に携わる者が、作り手が、受け手が、なぜそれを作るのか、それを受け取るのか、我々は何なのか? という自省を迫られるようになった時代だった。
 しかし、思春期は、いつかは終わってしまう。
 そのようなセカイ系の時代、自意識の時代、オタク文化の思春期は、すでに終わりを告げたと言っていい。『エヴァンゲリヲン新劇場版』の、原作から脱却し、エンターティメントを目指そうとする姿勢を、成長と呼ぶことも可能だろう。

 この後、著者は、「もちろん、セカイ系的作品を個々人として書いていく作家はいるだろう」と記し、「セカイ系だから、ループものだから、私小説だから、無条件に肯定される時代はかえって作品にとって不幸だろう」とも記し、「筆者は、ここでたとえば自意識の時代が永遠に終わった、などと言うつもりはない」と続けている。

 おそらく、オタッキーな物語商品のムーブメントとしては、セカイ系ウェーブは最初のピークを過ぎたのでしょう。
 けれど前島氏の整理を踏まえて、「セカイ系」を、「自意識を巡るもんだい系を主題的にフィクションで描こうとするムーブメント」と捕らえるなら、そうした動きが下火になることはあっても、途絶えることがあるとは思えない。この件は、前島氏の意見と、あまり違ったものではない。

 最終節に、わざわざ、展望ないし願望を付記した著者の意図には斜めに交叉するようになるかもしれない、アタシの考察は、この先になります。

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 作り手にとっての、あるいは市場にとって、セカイ系ムーブメントは、1つのピークが過ぎた。
 だとしても、市場に入り混じっている受け手たちのレイヤーでは、「自意識を巡るもんだい系」の重要性が、流行り廃りで、推移する状況にはない、と考えられます。

 前島氏の文脈には、斜めに交叉するような異論かもしれないけれど。
 むしろ、オタッキーな物語商品が、これだけメジャー化している以上、おたく層のセルフ・イメージの抱き方や語り方は、その質が試される状況が、継続的に続くでしょう。

 氏の個人的な、「展望、ないしは、願望」に異議を唱えるわけではない。あるいは、積極的な異論を提起するつもりもアタシとしてはない。
 けれど、オタッキーな物語商品の動向とは、別に、受け手側おたく層のセルフ・イメージは、その抱き方や語り方がもんだい系としての性質を持ちつづけると思えます。

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 例えば、オタキング的な、おたくのセルフ・イメージは、すでに「死んでいる」そうなのですが。

 一般論として「自己理想化されたセルフイメージは、自己主張されても、通例、そのままの形では広い通用性をもたない」。想像的な自己理想化がはなはだしい主張は通用性が低く、通用範囲が狭いからです。
 これも、また、自意識を巡るもんだい系のトピックの一例です。

 オタキング的な、おたく自身を想像的に自己理想化したセルフ・イメージの主張も、“自意識過剰”のひとつのタイプの兆候です。想像的な自己理想が通用しないことがはっきりすると、一転してシニシズムに転じ「死んでいる」とか唱えるのも、“自意識過剰”に顕著な兆候です。

 思うに、「自意識過剰」という日本語が錯覚の元なんですね。
 「自意識過剰」と呼ばれる言動のパターンは、人間関係において不安定な自意識に起因する、挙動不審な言動の総称と言えます。つまり、自意識が文字通り「過剰」なケースもあれば、「過少」なケースでも、「薄い」ケースでも、“自意識過剰”と呼ばれる兆候的な言動は生じます。関係性において、自意識が不安定化すれば、生じ得ます。

 “自意識過剰”は思春期に顕著な言動パターンではあっても、実は、思春期だけに特有の言動ではないわけです。
 ことに、現在の日本社会のように、諸分野で、流動性が高まっている状況では、“自意識過剰”な言動兆候は、ますます「思春期だけに特有」なものではなくなていくことでしょう。

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 アタシが思うには、おたくたちのセルフ・イメージが単一である必要性すらない。
 むしろ、様々なタイプのオタッキーたちとの間で、様々なタイプのおたくたちが、それぞれに、セルフ・イメージを語り、通じたり、通じなかったりが繰り広げられ、繰り返していく方が自然なのではないか。
 その方が“自意識過剰”を、解消していくコミュニケーションも生じそうです。

 例えば、ライトノベルに対する世間的な注目が今よりさらに高まるようになって、読者が増えれば、従来のおたくと同質な作品感受が共有されるとは限らない。
 むしろ、オタッキーな物語商品がメジャー化すれば、コアなおたくたちが旧来感受してきたようには、商品や作品を感受しない受け手も増えるのが自然。従来のおたく的感受も、様々な感受のバリエーションのワン・オブ・ゼムになっていく、と推定されます。
 つまり、おたく層のセルフ・イメージの抱き方、語り方は、これからも、関係性に問われ、試されることが度々断続するはずです。

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 前島氏の、論旨、文脈に必ずしも寄り添った考察ではないですが。
 オタッキーな物語商品、物語作品の受け手にとって、自意識のもんだいは、この先、必ずしも一過性な思春期のもんだいに限定されはしないと思えます。実態的な意味でも、比ゆ的な意味でも。

 例えば、オタッキーな物語商品から、メガヒット的な作品が生まれるたびに、コアなおたくたちのセルフ・イメージの抱き方、語り方は、これからも繰り返し、断続的に、状況に試されていくことでしょう。

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◎TVドラマ『仮面ライダーW』:注目の最終フェイズ

 昨年9月からTV朝日系で地上波放映がスタートした、変身ヒーローものドラマ『仮面ライダーW』は、いよいよ、最終フェイズ。次番組の情報(仮面ライダーオーズ)もリリースされ始めてる。

 すでにTVの用語で言う第4クールの展開に入ってて、最終回までにどんなドラマが展開されるか、目が離せません。
(第4クールってのは、概ね第4四半期に近い概念。週1で、放映期間1年間の連続ドラマだと、最終フェイズってことになります)

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 前後編を1エピソードにして展開されてる『仮面ライダーW』のTVシリーズ。
 前後編の2話を1エピソードと区切って観てると、毎エピソード、毎エピソード、高い水準の面白さが演じられてきてる。
 第3クールを回りきるあたりの流れで言うと、「風が呼ぶB」(第31話~第32話)「Yの悲劇」(第33話~第34話)「Rの彼方に」(第35話~第36話)「来訪者X」(第37話~第38話)、この辺の一連のエピソード展開は、テンションが高くて、高密度。

 例えば、「Yの悲劇」の前後編なんかは、一連の流れの中で、一見、テンションが低めに思えるかもしれない。

 けれど、このエピソード内には、復讐者である仮面ライダーアクセルが仇敵であるウェザー・ドーパントに「復讐などと言う小さなものにこだわってると、彼女のようになるぞぉ」と嘲られる場面が、アクションシーンの間に短く挿入されてる。

 ここで「彼女のように」と言われているのは、「Yの悲劇」で復讐に失敗する、エピソードのゲストキャラクターのことなんだけど。
 仇と狙うウェザー・ドーパントに嘲られるアクセル、って場面は、1エピソード(前後編)の中でよりも、より前後に広がった長いプロット展開の内で観た方が、くっきりと印象付けられる。

 負けず劣らず印象的な場面が、幾つも、長期、中期、短期のプロット展開それぞれのレイヤーごとに配置されてる。レイヤーを重ねながら観てくと、複雑な綾なしの物語展開が楽しめる♪

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 「Yの悲劇」で、「復讐者(アクセル)が仇敵(ウェザー)に、復讐心について嘲られる」シーン。これは、様々な物語レイヤーに散りばめられた印象的な小挿話の一例として、あげただけです。

 園崎若菜フィリップとの擬似恋愛関係。フィリップと鳴海亜樹子の擬似家族関係、亜樹子と左翔太郎の擬似兄妹関係、翔太郎と照井竜の対照関係。
 あるいは、復讐心を振り切った照井に、新たな復讐心を向ける園崎冴子の、復讐心の悪循環。
 さらに、冴子と若菜の父権を巡る愛憎関係、などなど。
 エピソードが1つ進むたびに、様々な相克関係、相乗関係、がめまぐるしく潮目を変えていく。

 例えば、これまでの物語展開でも、仮面ライダーWと仮面ライダーアクセルの関係は、相克的な関係から入り、何度かの逆巻きを繰り返しながら、徐々に相乗関係に転じてきてる。

 フィリップと若菜の関係は、基本的には相乗関係を伏流させながら緊張を続けてたものが、「来訪者X」から以降の展開で、相克関係に急転した。

 あるいは、自分の復讐心を振り切ることで、ウェザー・ドーパントを倒した照井に、ウェザーを倒されたことへの復讐の牙を向ける冴子などは、復讐心の逆巻きが描く悪循環といった趣で、面白い。
 照井が、自分に向けられた復讐心に、どう向き合っていくものか、自然と興味が湧いてくる。

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 もちろん、『仮面ライダーW』ってドラマの中心的な題材は、左翔太郎フィリップの相棒関係なんだけど。
 フィリップの記憶欠落って大きなハンディを抱え込んでる2人の相棒関係は、安定感のあるものではない。周囲の相克、相乗に干渉されて、しばしば揺らいで、その揺らぎが、ドラマとしていい。
 この相棒関係のユニークさがくっきりするように、様々な関係が、あるときは外縁を縁取るように、あるときは、相棒関係に圧力をかけるように錯綜を続けてる。

 第4クールで、最終話までの観どころは、まず、いくつもの相克関係、相乗関係が、どんな綾なしで、1つの渦に収斂していくか、だろうと思います。

 その上で、観どころになるのは、「若菜と園咲琉兵衛との関係」「琉兵衛とシュラウドとの関係」「シュラウドとフィリップとの関係」とかじゃぁないかな。それから「シュラウドと不在である鳴海壮吉(故人)の関係」これも重要になるはず。
 もちろん「翔太郎とフィリップの相棒関係」を揺らがせたり、深めたりするって綾なしでの重要さが期待される。

 最終話に向けて、これらの関係のどれが相乗関係になり、どれが相克関係になっていくか。
 決して定常的な方向で流れていくわけじゃぁないだろう、ってのも楽しみ。

 どの関係が、いつ、どんな展開で、相克/相乗の“潮目”を変えていくか予断を許さない。
 つまり、相乗が相克に、相克が相乗に転じるかわからないようなスリリングさがいい。

 さらに言えば、細かな相克/相乗の関係が、絞り込まれていって、1つの渦をなしていくような期待も抱かせるのが最終フェイズの『仮面ライダーW』。
 多分、シリーズ終盤のクライマックスは、ここで期待される1つの渦が綾をなすあたりになるんじゃぁないかな?
 終盤の盛り上がりは、収斂してく1つの渦のタイトさ具合にかかっていそうな気がします。

 ともかく、『仮面ライダーW』の第4クールは、最終話に向けて目を離せない最終フェイズになってます☆

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