「理科」で歴史を読みなおす



「理科」で歴史を読みなおす  伊達宗之:著 ちくま新書

 ちょっと釣りっぽいタイトルだなーと思ったのですが、手にとって目次を見た途端にワクワクと興味をそそられるような内容で、歴史を読み解く著者の「理科的」な発想や着眼点が新鮮ジューシー、娯楽書として隅々まで楽しめる一冊でした。

 普通に暮らしていて、なにか問題が生じたとき、ほんのちょっと視点を変えるだけで解決の糸口が見えてくることってよくあります。発想の転換となるキーワードは案外自分の足元に転がっているもので、第三者から受けた指摘が驚くほど根本的なことだったりしたときによく、
「なんでこんな簡単なことに気づかなかったのだろう」
 と、ほぞを噛む思いになることもあります。
 それに似た思いがしたのが本書の、

 ・縄文人はどんな星空を眺めていたか。

 を読んだときでした。
 
 違うのです。
 たしかにいま私たちが見ている夜空とは。
 それは地球が赤道部をふくらませた楕円形をしているということから推察可能なことで、よく考えればわかること。
 だけど気づかないのです。
 縄文人がどんな星空を眺めていたかなんてこと、歴史を読むとき、普通は考えないのです。
 気づかないから考えないのか考えないから気づかないのか。
 だけどひとたび気づいたら、そこからいろんな発想が拡がる。

 この手の発想は、じつは「思いを馳せる」という情緒的な心の働きかけが必要なのではないかと思う今日この頃。縄文時代というはるか昔を生きた彼らが、なにを見、なにを思ったか、その足元に我が身を置けば、普段は気づけないようなことにも思い至り、それが疑問となって表面に現れたとたん、眠っていたあらゆる知識がリンクをはじめ、視界が広がる。
 目から鱗という表現は、まさにそういう状態をさすのだと思います。

 これに関連するのかどうか、著者の言う「理科力」について、巻末に「アルス」という言葉の説明があります。自然(ナトゥーラ)の対義語であるアルスは人為的な行為全般を表す概念なのですが、日本人には全くと言っていいほどなじみがない。それは日本人が長い鎖国時代を終え、海外から貪欲に学問を取り入れだしたころには、産業革命を迎えたヨーロッパ諸国では、アルスから分化したサイエンスという新語が勢力を増し、哲学・文学・芸術・科学・音楽をすべてひっくるめてアルスと呼んだ時代がすでに崩壊していたからです。

 その後、科学はさらに細分化されていき、その進歩と引き換えに、その昔、科学が自然哲学だった時代のおおらかさ、つまりはアルスという概念が失われつつあるのではないか。科学はいま過渡期を迎えている。科学に限らずものごとすべてが過渡期を迎えつつある中、人々は回帰をはじめているようでもある。科学が純粋に人々の知的好奇心であり未知の探求が最大の動機だったころの「アルス」を忘れず、新たな地平を拓いていこうじゃないか。

 と、最終的にはそういう主旨の内容でしたが、この本は、そこに辿り着くまでのさまざまなプレゼンテーションを楽しむことができます。

 物性物理学を専門とする理学博士である著者の考察は多岐にわたり、数学、語学、鉱物の輸出入などの観点から歴史を考え、ダイナミックに解析する。
 すべてがドキドキワクワクするような切り口だったのですが、私が一番面白いと感じたのは、√2 などの無理数を、ピタゴラスの時代の人々は不吉な凶数だとし、門外極秘として一切の暴露を禁じた。などというエピソード。そういうことがあってこういうこともあって、日本の印刷学会規格の用紙であるA版、B版は、いま世界を闊歩している──と、ちょっと話が飛びすぎましたか。

 
 気軽に読めて、なおかつ「言われてみればそうですね」といった類の発見が随所でできる楽しい読み物。
 機会がありましたら、ぜひ。

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