俗流・記号論についての野暮な提言
野暮は承知で書きます。
俗流の記号論って、よくないよ。
「記号論」という言葉を見たこと、読んだことのある人は少なくないと思います。
あるいは、「記号論」って、看板掲げてなくても、「◎◎は記号だ、だから、これこれなんだ」って主張を含んだ日本語の言説は、増えているように思います。
(個人的観測では、1980年代のニュー・アカ・ブームの時に増えて、その後一時下火になって、最近また増えてる、ように見受けます)
と・こ・ろ・で、「記号論」て看板出してるにしろ、出してないにしろ、最近の日本語での「◎◎は記号だ、だから~」って言説は、玉石混交。
内には、バチもん、エセ、マガイモノとしか言えない様な言説も目立ちます。
この作文では、「マガイモノには気をつけましょうね」って提言を、なぜ気をつけた方がいいか、の理由と共に説明します。
作文の便宜上、「マガイモノ」言説の類を一括して、「俗流の記号論」と呼ぶことにしましょう。
ここで、「俗流の記号論」と、呼ぶのは、次のような性質の言説。
例えば、我国の義務教育課程で、今だによくやってるらしい「□肉□食:左記の□の内に正しい漢字を入れて熟語を作りなさい」とかを、ロジックらしきもので粉飾して、“記号論”だと称する類の、誇大広告っぽく、ハッタリ臭い俗流論説の類を一括して指します。
後から説明しますけど、「俗流・記号論」が、記号論を称する事自体、「看板に偽りあり」だ、と思われます。
ですので、“記号論”であるかのように流通している日本語の言説に、ここで言う「俗流」の粉飾が混入していないか、よくよく眉に唾をつけて吟味されることをお勧めします。こんなこと言うのは、野暮でしょうけど。
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この作文での提言は、次のような意見に基づいています。
「本来、言語統制的言説に対して批判的な理論である記号論を、骨抜きにした上で用い、広める俗流・記号論は、よくない」
ただし、はっきりお断りしておきます。
この作文では、「言語統制的な言説」その物についての検討をする予定はありません。批判論を展開する予定もありません。
「言語統制的な言説」も、幅を広げれば「正しい日本語」とか「美しい日本語」とかを称揚する言説も含まれ得ます。こちらの類の言説が、どこまでもっともなものかは、別に詳しく検討していかないといけないでしょう。
つまり、「もし、言語統制的な言説が主張されるなら、それは、ストレートに主張された方がよく、記号論もどきで、粉飾されるべきではない」とは、主張します。
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俗流・記号論は、「弱肉強食」は正解で、「焼肉定食」は不正解だ、なぁんて、言語統制的、権威主義的な言説にものすごく弱い“論”。あるいは、しばしば迎合的なのが、「俗流の記号論」。
例えば「設問の出し方が曖昧でよくないでは?」とかの発想を封圧すると、もう、それ自体も、言語統制的で権威主義的になる。
実際には、俗流・記号論が発想を封圧するとも限らないけど。封圧する言語統制的な言説に、迎合的だし、しばしば加担する。
少なくとも、言語統制のツールに使われ易い俗論なのだ。
個人的に、特によくないと思うのは、論と称されているほどの俗流記号論が、しばしば「言語統制のツールに使われ易い」って事情に無頓着であるように見受けられること。
ほんとッ、つい「これは、何かの陰謀で、無自覚なふりしてるのかしら?」とか、不安にさいなまれてしまいます(笑)。
邪推にすぎませんけどね。個々の言説事例について、陰謀の有無の真相は知りません。
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私見だけど、どんな「論」でも、流布する過程で、多分、多かれ少なかれ、俗説、俗流は、派生するものだろうと思う。
それは、今のメディア状況と、ポピュリズム化した世の中では、避けがたいことと思う。
無理も無い。
だからって、ナンデモアリってわけにもいかない、と、アタシは思う。
アタシだって、うっかり無批判に俗説を鵜呑みにしちゃう事はあります。
それでも、ナンデモアリでは、いずれ困るでしょ、と思う。アタシだけが困るわけではない、と予想されます。
ここで、アタシが、数ある俗論、俗説の内で、こ・と・に「俗流・記号論はよくない」と、ことあげしてるのは、繰り返し強調しますが、時代にミス・マッチな言語統制的言説に、ことに、迎合、加担しがちな俗論だからです。
少なくとも、言語統制のツールに使われ易い。
野暮は承知で書いてます。
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一応、礼儀でしょうから「俗流・ではない・記号論」=「本流記号論」とは、どんなものなのか、極、簡単に触れてみましょう。ポイントとして、本流と、俗流の相違点だけでも、注意すれば、バチもん言説かどうかを、チェックしていけるとも期待されます。
アタシの考えでは、俗流ではない記号論、本流の記号論は、まだ未完成なんだと思います。
しばしば、小説『バラの名前』、『フーコーの振り子』、他を著した、U.エーコが、記号論と、記号学を集大成する、現代的な整理を、今でも推し進めている、かに伝え聞きます。
この説の真偽は、今のアタシには判断不能ですけど。まぁ、とりあえずは、信用しておいてもいいんじゃないかな(?)。
アタシなりには、ソシュールからエーコに至る、現代記号論の流れは、大まかには掴んでるつもり。やや、ソシュール系トレンドに偏った理解、とは思いますけど。
(ソシュール自身は、記号学を構想したけど、生前のご本人は唱えなかった。けれど、ソシュールの言語理論の「再発見」は、現代記号論を大きく進めたきっかけの1つだった)
現代記号論(本流)の要諦:
「記号は、一般に、示差的な体系(差違の体系)として意味を現わす」
「記号の体系は、一般に、体系としては無根拠である。その無根拠さは、言語記号の体系に、典型的に見てとれる」
「記号と特定の概念の結びつきも、示差的なメカニズムに依り、意味は、体系内の差違によって生じる」
つまり、記号の表層とも呼び得る、「意味しているもの(意味するもの)」は、特定の“意味”と、1対1に対応しているわけではない。(「弱肉強食」が、常に正解とは限らない)
このため、記号論では、「意味されること(意味されるもの)」を「概念」と呼ぶこともある。
この「概念」は、意味自体ではない。輪郭が曖昧な、複数の意味のソースだ。「概念」の輪郭(境界線)が曖昧なのは、「概念」自体もまた、示差的だからだ。
例えば、単語(言語記号)は、意味素のようにイメージされるべき実体ではない。一般に、単語は多義的であり、意味しているものと、意味されることとが1対1に対応する「符丁」は、記号全般の内では、極、特殊な一部にすぎない。
単語を、「符丁」のように、あるいは実体であるかのように見なすのは、習慣化された錯覚である。
「記号が現わし得る意味は、文脈において収束されていく。時として、意味が確定(限定)されることもあるが、常に確定されるわけではない。文脈の整備が不手際な場合は、意味は錯乱していく」
こうした文脈の整備を“正しい言葉の使い方”とみなすのは、日常的な言語使用のための便宜としては、もっともな面もある。
しかし、文字通りの意味で“正しい使い方”があると見なすのは錯覚にすぎない。
記号の示差的性質を、うまく利用した造語や、文脈は、“正しくない”場合でも、意味を通じさせる。意味が通じる言語使用は、すべて「正しい」。
ただし、もちろん、意味が通じる範囲が限られていたり、広かったり、TPOに即したり、即さなかったりすることはある。しかし、この点は、いわゆる“正しい使い方”の方でも、何も変わりは無い。
例えば、法律の執行において“正しい”言葉の使い方は、しばしば以上に、私的な会話では「正しくない」。
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アタシは、要諦にまとめてみたような本流記号論の最大公約数的なテーゼ、特に、言語記号論のそれは、分析セオリーとして、正しいと考えています。(記号論の内にも、幾つかのサブ・トレンドはあります)
正しいだけでなく、1950年代に、ほぼ大枠は整っていた本流の言語記号論は、19世紀以前的な「物語の内容は、正しく、著者の意図を解明することで確定される」って古臭い権威主義的テーゼを、「理論的に」粉砕した言語思想なのだ、と評価しています。とても、評価している立場です。
この場合、「理論的に」は、とても重要。
細かかく言えば、19世紀以前的な文芸テーゼを最終的に粉砕したのは、脱構築批評と呼ばれるトレンドになるはずです。そして、現代記号論は、脱構築批評の理論的基盤をなしました。
で、その後、1980年代頃から、記号論には、停滞感があると思うのですが。それは、なぜか?
いろいろな理由が絡まっていると思います。
1つには「体系として無根拠な記号体系が、なぜ、体系として変化していくのかを、理論的には、うまく整理できなかった」ってあたりが、停滞の大きな要因であるように見受けられます(私見)。
あれこれ、疑問もあるでしょうけど。ここでは、本流記号論自体の解説をすることは目的ではありません。この辺で本筋の纏めに移ります。
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俗流・記号論の「□肉□食」的な絵解きは、先に、要諦としてまとめたような、本流・記号論の上澄みだけを、数十年も遅れて掬って見せてるものとしか思えません。
アタシの見聞きしている範囲では、ことに「この『概念』は、意味自体ではない。複数の意味のソースだ」のあたりを無視した論が目立つようです。
しばしば、「記号の表層とも呼び得る、『意味しているもの(意味するもの)』は、特定の“意味”と、1対1に対応しているわけではない」のあたりがよく理解できていないような気配を感じることもあります。
要するに、記号全般と、記号の特殊形態である符丁との区別が、はっきりしない“記号論”があったら、それは俗流・記号論である可能性が高い。ここ、チェックポイントとして有効です。
さらに、「◎◎という記号は、★★を意味する」といった限定がなされていたら、例え、左記の文例のようにあからさまでストレートな断定の形式をとっていなくても、記号論としては、看板に偽りありなのです。
何故、例えば「◎◎と言う言葉は、★★を意味する」と、ストレートに主張しないのかも、よくわからないことが多い。このように主張された方が、主張がどこまでもっともなものか、読者の方で検討もし易いでしょうに。
本当かな? ある特定のTPOでだけ、あるいは、特定の文脈でだけ通用する意味ではないかな? などなどと、考えると思います。
ところが「記号」という言葉を、何かの理論が背景にあるかのような粉飾に用い、意味を断定するレトリックを、ちょくちょく見かけます。
先に要諦で示したように、本来の記号論のセオリーは、意味を断定する習慣(慣用)の錯覚性を解明していく分析セオリーで、意味を断定するためのセオリーではありません。
もし、記号論とは別に、独自の意味を「記号」という単語から引き出して用いるなら、それはそれとわかるように記されるべきですが。アタシの見聞きしている範囲では、そうした斬新な“論”は、知らないでいます。
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アタシは、本流記号論が、「19世紀的な、古色蒼然とした権威主義的テーゼ」を、理論的に粉砕したのと引き比べて、「□肉□食」的な、俗流・記号論が、21世紀にもなって、言語統制的な動きや、新しい権威主義に対して、あまりに無頓着であるのを見聞きする都度、情けなく思う者です。
個人的には、理論には、著作権は無いんじゃないか(?)と、思う。知的所有権はあるのかしら? よく、わかんないけど。
著作権は無いからこそ、画期的な理論には、「誰それの理論」みたいに、提唱者の名を冠して、偉業を称える慣例があるのではないかしら??
だから、理論については、例え盗用のような唱え方がされても、その事だけで、常に責められるべきとは限らない、と思う。
乱暴な極論を唱えてみれば、正しい理論は、誰が唱えても、正しい、かもしれない。
ここで、「かもしれない」と付くのは、理論が正しくても、その理論が本来想定していた対象範囲や、パラメータを無視して適用したら、その適用は「正しい」とは限らないからです。ほとんどの場合、そうした適用は間違った論旨を導き出すことでしょう。
本流記号論と、アタシの言う俗流・記号論の関係は、ネジレている。
俗流・記号論は、本流の成果の上澄みだけを断片的に世間に流布することで(本流の停滞をよいことに)、本流記号論の歪んだイメージを広げている。
平たく言えば、羊頭狗肉。
とりあえず、どこら辺にもんだいがあるか、だけは、指し示せたと思います。
ほんとっ、最近流通してる自称“記号論”については、“記号論”の看板を掲げていようと、掲げていまいと、ここで言う「俗流」であるかどうか、よくよく眉に唾をつけて吟味されることをお勧めします。
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備考=「記号学」と、「記号論」について。
大まかには、ヨーロッパ系で、ソシュール・ルーツの論はかつて「記号学」と呼ばれていました。
これに対し、アメリカ系で、パース・ルーツの論がかつて「記号論」と呼ばれていました。
その後、ヨーロッパ系記号学と、アメリカ系記号論とを統合する試みが進められ、そのトップ・ランナーが、エーコだ、と言われています。
現在では、特に断られない場合、「記号学」と「記号論」とは同義に用いられることが多くなっています。
本文では、「学」とまで大上段に振りかぶっていなくても、論の体裁をとった、あるいは利用した言説を対象にしていますので、「記号論」の語を採用しています。
なお、「記号学」と言うのは、元々、古代ギリシアのアリストテレスまで、遡るとかも聞きます。
ただし、この「遡る」は、曲者で、決して連綿と続いていたわけではありません。断絶期間は長い。
ソシュール、パース以前にも、記号を巡る一般的、かつ体系的な考察はあったようですが。
通例、現代記号論(記号学)の起点は、ソシュールとパースと、みなされることが多いです。
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