新世界
喜びはなく、寂しさと虚しさだけが心のどこかに引っかかっていた。
長年使ってきた鍵を管理人に返し、僕は背を向ける。
お別れの時間だ。
バスに乗りながら、外を見る。見なれた景色が、もう二度と見れなくなるのだと、そう思う。実感が沸かない。だけど、とにかく目に焼き付けておこうと外ばかり見ていた。景色は足早に移り変わって行く。
小学校へ通う道。小学校なんて、もうよくは覚えてないのに、あまりいい思い出が無いような気もするのに、今は何故か心に突き刺さる。
中学の頃、夜中まで友達と語り合っていた公園。捨てられた空き缶。煙草の吸殻。友人の顔が脳裏をよぎった。過ぎ去った幸せ。
駅。高校への通学路だった。朝のラッシュ時の強烈さはまだ新しい記憶として、心に残っている。文化祭や体育祭、初めてできた彼女。笑うと前歯が顔を出して、それが可愛くて、どうしようもなく愛おしかった彼女。卒業式での涙の別れと、最後の夜。
どれも、過去の話。
終わってしまったことだ。
僕が遠ざけた。逃げ出すように、捨てた。後悔は、無いと言えば嘘になる。やっと自由になれる喜びが無いのも、きっとそのせいだろう。僕は一人で歩いていく。それは他の何者にも犯されない、僕の決意だ。何処にも属さず、誰とも交わらない。ぬくもりと平和より、自由と孤独がいい。暖かいけど曖昧な愛より、美しくも哀しい寂寞がいい。体は犯されても、心までは犯させない。僕は、独りだ。
いつの間にかバスの外では雨が降り出していた。ヒーターの温風と、むっとするような人の臭い。傘を忘れたのか、急いで走る少女をバスは追い越して、アナウンスが流れた。
「次は、――市です」
僕はにやりとした。もうすぐだ。もうすぐ、僕の新しい世界に着く。そこで、僕の理想の生活を送るんだ。ひっそりと、消え去るまで。僕自身が、過去になるまで。
過ぎ去りし日々はもう戻らない。後悔ももう遅い。選択には、必ずなにか犠牲が伴う。僕はその全てを受け入れよう。ありのままの僕を受け止めて、次の段階へ進むんだ。
バスが止まった。僕は賃金を払い、バスの外に出る。湿った空気が鼻の奥に入り込んできた。傘を差して、目的地へ向かう。新しい僕の家へ。雨が不規則に傘を叩くぽんぽんと言う音が、妙に楽しかった。僕は気が付けば鼻歌を歌っていた。前の家を出るとき、捨ててしまったCD。大好きだったロック歌手の、アルバム収録曲で、割とマイナーなファンしか知らないような曲。あの人たちのようになりたいと始めたギターも捨ててきた。今、僕が持っているのは、僕自身と、手にした傘だけ。この歌も、新しい生活をしているうちに忘れるだろう。そう、望む。
やがて雨は止んだ。雲の隙間から陽の光が差し込み、どこか神々しい、絵画で見たような光景になった。その光の真下に、僕の新しい家へ続く扉が見えた。希望に満ち溢れた、質素な佇まい。僕は傘を捨てて、駆け出した。
早く、あそこに――。
甲高い音の後に鈍い音が聞こえ、
新しい世界は暗転して見えなくなった。
全ては、過ぎ去っていった。
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