新世界:改訂版
「元気でねぇ」
管理人は言った。僕は頷く。
「でも、ほんとに荷物はそれだけでいいのかい」
僕はまた、頷く。管理人は唸った。
「ギターだって、あんなに大事にしてたのに。初めて弾いて聞かせてくれたときは私、びっくりしたんだから」
「そう、ですか」
「何も、こんなに急いで引っ越す必要もなかったんじゃないの? まだまだこっちでやり残したこともあるでしょうに」
僕は静かに首を振る。
「無い、です。僕は早くここから出て行きたい」
「おや、まぁ……」
管理人がそれ以上鬱陶しい口を開く前に、僕は長年使ってきた部屋の鍵を管理人に返した。
喜びはなく、寂しさと虚しさだけが心のどこかに引っかかっていた。
そして僕は背を向ける。
お別れの時間だ。
バスに乗りながら、外を見る。見なれた景色が、もう二度と見れなくなるのだと、そう思う。実感が沸かない。だけど、とにかく目に焼き付けておこうと外ばかり見ていた。景色は足早に移り変わって行く。
小学校へ通う道。小学校なんて、もうよくは覚えてないのに、あまりいい思い出が無いような気もするのに、今は何故か心に突き刺さる。
中学の頃、夜中まで友達と語り合っていた公園。捨てられた空き缶。煙草の吸殻。友人の顔が脳裏をよぎった。過ぎ去った幸せ。
駅。高校への通学路だった。朝のラッシュ時の強烈さはまだ新しい記憶として、心に残っている。文化祭や体育祭、初めてできた彼女。笑うと前歯が顔を出して、それが可愛くて、どうしようもなく愛おしかった彼女。卒業式での涙の別れと、最後の夜。
どれも、過去の話。
終わってしまったことだ。
僕が遠ざけた。逃げ出すように、捨てた。後悔は、無いと言えば嘘になる。やっと自由になれる喜びが無いのも、きっとそのせいだろう。僕は一人で歩いていく。それは他の何者にも犯されない、僕の決意だ。何処にも属さず、誰とも交わらない。ぬくもりと平和より、自由と孤独がいい。暖かいけど曖昧な愛より、美しくも哀しい寂寞がいい。体は犯されても、心までは犯させない。僕は、独りだ。
ふと窓の外を見た。次の停車駅が目に入る。そこには、見慣れた姿があった。
肩で息をしながらバスを待っている、僕の元彼女だった。
バスが軋み、排気音と共に扉が開く。元彼女が乗ってきた。それは凄まじい剣幕だった。
「馬鹿!」
開口早々大声で僕をののしる元彼女である。元々、勝気な子だった。
「私に何も言わず行こうとするなんて、信じられない」
「もう別れたんだから、知らせる必要もないだろう?」
「私はまだ納得してない!」
「知るかよ、そんなこと」
冷たく言い放つ。きっぱり別れたはずなのに、しつこい。正直、僕はもうこの子のことなんてどうでもいいし、鬱陶しいだけだった。
「何よその言い方……前も言ったけど、進路が決まってからのあんたちょっと変よ?」
「変なのは君のほうだろう」
この子の登場で、思い出が汚された。もう二度と戻りたくは無いけど、大切だった過去に水を差すようなことは、本当にやめて欲しい。
「とにかく、僕はもう行くんだ。君は今すぐバスから降りた方がいい」
「納得するまで降りない」
「強情だね」
「それはあんたの方じゃないの?」
「僕は僕の中で決めたことに従って行動してる」
「私もよ」
「……譲らないの?」
「譲らないわ」
元彼女は何かを決意したような目で、それでいてどこか寂しげで、今にも壊れそうだった。昔なら、或いは、肩を抱いてやったかもしれない。だけど、もう、僕には何も関係ない。残念だけど、届かないんだ。
「分かってないみたいだから言うけど、僕たちもう別れたんだよ?」
「分かってないのはあんた。あんな一方的に別れるって言われて私が納得すると思ってんの?」
沈黙する僕を他所に、彼女は続ける。
「あんたはそれでいいかもしれないよ? そうやって悲劇の英雄でもなんでも気取ってれば、いい気分だろうけどさ。でも、私はどうなるの?」
「知らないよ。勝手にしてくれ」
元彼女は大きな溜息を一つついた。
「もう、いい」首を振って僕を睨みつける。
「期待した私が馬鹿だったわ」
そうして、次の停車駅で元彼女は降りて行った。
これでよかったんだ。僕は彼女を捨てたんだから。これで、よかったんだ。
心のどこかで、何かが騒いでいたが、僕はそれを踏み潰した。
いつの間にかバスの外では雨が降り出していた。ヒーターの温風と、むっとするような人の臭い。窓の外を見ると、傘を忘れたのか、急いで走る元彼女がいた。バスはそれを追い越して、同時にアナウンスが流れる。
「次は、――です」
僕はにやりとした。もうすぐだ。もうすぐ、僕の新しい世界に着く。そこで、僕の理想の生活を送るんだ。ひっそりと、消え去るまで。僕自身が、過去になるまで。
過ぎ去りし日々はもう戻らない。後悔ももう遅い。選択には、必ずなにか犠牲が伴う。僕はその全てを受け入れよう。ありのままの僕を受け止めて、次の段階へ進むんだ。
バスが止まった。僕は賃金を払い、バスの外に出る。湿った空気が鼻の奥に入り込んできた。傘を差して、目的地へ向かう。新しい僕の家へ。雨が不規則に傘を叩くぽんぽんと言う音が、妙に楽しかった。僕は気が付けば鼻歌を歌っていた。前の家を出るとき、捨ててしまったCD。大好きだったロック歌手の、アルバム収録曲で、割とマイナーなファンしか知らないような曲。でも、この歌も新しい生活をしているうちに忘れてしまうだろう。そう、望む。
やがて雨は止んだ。雲の隙間から陽の光が差し込み、どこか神々しい、絵画で見たような光景になった。その光の真下に、僕の新しい家へ続く扉が見えた。希望に満ち溢れた、質素な佇まい。僕は傘を捨てて、駆け出した。
早く、あそこに――。
甲高い音の後に鈍い音が聞こえ、
新しい世界は暗転して見えなくなった。
全ては、過ぎ去っていった。
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