エピソード・メモ:悠希と國央、そして悠里

エピソード・メモ:
悠希と國央、そして悠里

鍼原神無〔はりはら・かんな〕
*悠希のお話、エスキス(下書)。

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概要:
暴走族“愚礼怒”、2代目特攻隊長だった悠希は、性別適合手術を済ませて間もないTS(Trans Sexual)。
戸籍改訂のため、古巣の町に戻ってきたが、家族との話し合いもうまく進まないまま、勤め先からとっていた長期休暇は、もうすぐ終わろうとしていた。
そんなある日、休暇の間、厄介になっていたポン友、吉住(ヨっちゃん、ヨシ)の家を、突然、妹の悠里が尋ねて来た。
(下書きは、次段から)

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 病院の廊下は、昼なのに、灯りに紗が掛かっているように感じられた。
 明るくはある。けれど、僅かな薄曇に似て、微かな陰に覆われているような気がする。
 悠里の後を歩いている悠希は、上野から持ってきていた内、一番無難な服を着て来ていた。数年ぶりに、悠里と会った時にも着て行ったスーツだった。メイクも、衣装に併せてはいても、できるだけ控えめにして来ていた。
 それでも、病院の内では、華やかさが浮いて見える。
 明日には、上野に戻らなければいけない。
 悠希は、昨晩まで、父に会うのは、まだ先のことになる、と覚悟していた。今は、気持ちの整理がついていない自分を感じながら、ひんやりした廊下を歩いている。
 悠希は、病室の手前で立ち止まり、壁に掛けられたネーム・プレートを見た。
 4つ設けられたプレート受けには、3枚の名札が差し込まれている。

「秀都留 國央」

 悠希と悠里の父の名も、あった。
 悠里は、黙って悠希の様子を見ていた。
 吉住が、悠希の背を、静かに押す。
 時間は限られていた。「患者本人からの、たっての要望での、特別な面会」は、15分だけ。3人は、ナース・ステーションで告げられて来たところだった。

 悠里が、吉住の家を訪れて来たのは、昨夜の事だった。
 吉住からの携帯で、妹の来訪を知らされ、悠希は外出先から急いで戻った。妹とは、何度か連絡をとろうとして、うまくいかないでいたからだ。
 唐突な来訪に胸騒ぎを覚え、あたふたと帰ろうとする悠希を、暴走族の後輩である山崎が送ってくれた。病み上がりだからいい、と言うのも取り合わず、バイクで送ってくれたのだった。
 そして、悠希は、悠里から、父が会いたがっている、と告げられたのだった。
 女の姿で構わないから、悠希を連れてきてくれ、父がそう言っている、と告げた悠里は、気持ちの乱れを、なんとか、とり纏めようとしているようだった。

 廊下よりも、くっきりと明るい病室には、4基のベッドが据えられていた。ほぼ正方形の部屋のようだ。
 入って右手のベッドの、金属フレームの上には、畳まれていたマットレスが、むき出しで置かれていた。
 悠里は、左手のベッドの脇まで進んで、悠希たちを振り返った。
 ベッドを見やると、起されているマットレスに身を預けて、痩せた男が悠希たちを見ていた。
 悠希と、悠里の父だ。
 落ち窪んだ眼窩、鼻の下に止められたチューブが痛ましい。
 顔色だけでなく、肌の色が茶色く乾いて見えた。頬や顎に、剃刀負けの後が目立つ。
 患者用のガウンに包まれた細い腕が、布団の上に横たえられていた。点滴のチューブが、袖から潜り込んでいた。ガウンの合わせから伸びている線は、心電図か何かかもしれない。

「お兄ぃちゃん」悠里が、悠希に声をかけ、促した。自分は、はす向かいの位置にある、窓際のベッドに歩いていく。
 静かな声で、何か挨拶をして、頭を下げている。隣のベッドの患者は、どこかに出ているようだった。
 吉住に背中を抱えられるようにして、悠希は、ぎごちなく枕元に近づいていった。足下に、床の感触がしない。
 思っていたよりも、面変わりした父の顔が、遠くに思える。
 窪んだ眼窩の奥の目の色は、悠希に馴染みの無いものだった。

「吉住くんですね」聞きとりづらい、かすれ声だった。
「悠希の、命を、救っていただいた。お礼を、今日まで申し上げなかった。すみませんでした」
 何かに堪えているような言葉は、途切れがちに紡がれた。時折、息を吸い込む音も混じる。
「私は、あの頃。取り乱して、いました。お会いして、お礼を言わねば、と。何度、思ったか。
 そのたび、あなたを、訪ねる勇気を、出せなかった。本当に、お恥ずかしい。
 息子の、命を、救ってくだすって。どうも、ありがとうございました」と、微かに上半身を前に倒す。思うように、体を動かせないようだった。

 あぁ。と、吉住は思った。この人は、これを言いたくて、俺を呼んだんだ。
 昨晩、悠希の妹に、一緒に病院に来てください、と、請われたときは、何事だろう、と、いぶかしく思った。
「あなたの、お姉さんには。何度か、お話を聞かせて、いただいた。ことがありました。
 ずっと、息子に。よくして、くだすった。今日、やっと。あなたに、お礼を言えて、よかった」
「いえ……。ダチですから」と吉住。そうか、と思っていた。数年前の事故の後、悠希の父が辞めた高校に、姉の葉子が、通っていたことを、今さらのように思い出していた。
 戻って来た悠里が、吉住たちと反対側のベッド・サイドで、小さな腰掛に座った。父の姿を見ている悠希を、黙って見つめている。
 父の視線は、ゆっくりと吉住から悠希の方に動かされた。視線を動かすことも、億劫そうだった。

 吉住に向けて語られた言葉を聞いた悠希は、腑に落ちるものを覚えていた。父の眼の色に混ざっている諦念は、自分に向けられたものではなかった。急に、部屋の室温が感じられる。
 けれど、悠希はかえって、捉えどころの無い気持ちに囚われていった。
 窪んだ眼窩に埋め込まれたような父の瞳が、濡れたビー玉のように思えた。
 ゲイ・ボーイをはじめてから、性別適合の手術をする前には、もう、排斥する視線は、見慣れてしまっていた。
 暴走族時代から、見慣れていた視線だったようにも思える。
 好奇、嘲弄、哀れみ、嫌悪、蔑み、非難、怒り。
 今、父親に向けられている眼の色は、悠希の知らないものだった。
 怒りや、非難、蔑みや嫌悪には、突っ張り返してきた。哀れみや、嘲弄、好奇の視線には、微笑で応える術を身につけてしまっていた。
 今、悠希は、自分の身体から、砂の城が崩れるように気力が零れ落ちていくのを感じていた。不安だった。
 
「悠希、お前にも、謝らせて、ほしい。
 わたしは、親として、子供に言ってはならないことを、言ってしまった。
 すまなかった。今さらと、思うだろうが、許してほしい」
 数年前の事故の後、口にされた言葉のことを言っていた。
 事故で、死にそうになった悠希に、大量の輸血を申し出て、命を救ったのが吉住だった。

 いっそ、死んでくれれば、よかった。

 悠希は、一呼吸の間、目をつぶって、また開いた。
 記憶の隅に埋もれていた想い出が、過去の感情を、エコーのように伴って、浮かび上がって来ていた。
 悠希は、記憶と、感情をまといつかせたまま、今の父と向かい合った。
「今は、お願いして、点滴を、止めて、もらっているが。
 いつも、痛み止めで。頭が、ぼうっとしている。
 それなのに、何度も、何度も、あの時の事が思い出される。
 本当に、済まなかった」

 父親の姿が、急に縮んだように思えた。今さらのように、肌に刻まれた皺、浮かんでいる染みや、白髪、髪の毛を透かして見える頭皮が眼に入ってきた。僅かに甘かったピントが補正されたような、克明さだった。
 急に、哀れみに似た感情を覚える。
「もう、ずっと前から、恨む気持ちは、なくなっていました。だいじょうぶです。
 でも、お父さんに謝ってもらって、楽になりました」
 喉の整形をして以来のハスキーな声が、さらに掠れている。
 言ってしまってから、理解した。自分は、哀れみの気持ちを父に向けるような、ご立派な人間ではない。
 父と自分の関係が哀しい。この気持ちは、哀れみではない。

「お兄ちゃん……。もっと、ちゃんと言ってあげて」と悠里。低く抑えた声が硬い。
「いいんだ。悠希が、言っている、ことは。よく、わかる。
 許して、もらったと、しても、自分は、忘れることは、できない。
 相手に、忘れてくれと、と。頼める、わけはない。
 悠里も、覚えて、おくと、いい」
 國央は、億劫そうに眼をつむり、もう1度開いて、悠希を見た。
「お前、戸籍を変更する。手続きを、とるんだって、聞いた。
 聞かせてほしい。お前が、男を棄てたわけを」
「それは……。わたし、水商売辞めて、堅気に……」
 一度、口を開いた悠希は、自分がトンチンカンな事を語りだそうとしていると気づいて、言葉を途切らせた。
 傍から見ても、途方にくれているように見えた。
 悠希は、困惑で足下も覚束ない感覚に耐えていた。ブラウスの上から、ペンダントを握り締めている。

「おやじさん。いいすか」吉住の声が聞こえた。
「俺も、ユウキが男をやめた理由、わかんねぇでいます。いくら考えてもわかんねぇ。
 ただ、洒落や冗談で、ちんぽ切る野郎はいねぇ、と思ってます」
「なるほど。それは。そうだね」父親が、眼を細めた。微笑んだようだった。
「ユウキ。おやじさん、おめえのこと、心配してんだよ。
 なんでもいいんだよ。腹割って話してやれよ」と、悠希の肩に掌を置く。悠希が、小さく身をすくませたのが、わかった。
 ゆっくり、吉住の方を振り返る悠希の表情が、すがり付くような顔に思えて、吉住はどぎまぎした。意識して、顔を引き締め、ゆっくり頷いてやる。
 父親の方にゆっくりと顔を戻した悠希は、うつむき加減だった。父は、そんな様子を、ベッドから見つめている。
 悠希は、ゆっくりと、ベッド・サイドの床に膝をつくと、父の顔を見上げた。顔を見たまま、ブラウスのボタンを外す。ネックレスから、ペンダント・トップを外すと、爪を立てて開いた。死んだ恋人の写真を見せようと、ペンダント・トップを乗せた掌を差し出した。

「わたしが、女だって、わかったのは、この人の……、この人が、教えてくれました」
 悠希の顔を見たまま、父親が口を開いた。
「そうか。優しい人なのだろうね」
 言われた途端、悠希は確信した。とうさんは、知っていたんだ。知ってはいたけど、わたしの口から聞いて、安心したかったんだ。
「とても優しい人です。愛してくれています」
「そうか」と言って、父は、口をつぐんだ。
「その人にも。お礼を。言わないと、いけないね」
 悠希は、父の目を見ていた。
「……。お願いします」
 父は、静かに頷いてみせた。悠里と、吉住は、それぞれに、2人の様子を見つめていた。
「今日は。来てくれて、ありがとう。悪いが、疲れて、しまったよ。休ませて。ほしい。
 悠希。戸籍の事は。必要な。書類を持って。早いうちに、来てほしい。
 吉住さん。どうか。この先も、息子を。よろしく、お願いします」
 吉住が頷くのを見てから、父は瞼を閉じた。
「悠里、すまないが。看護婦さんを、呼んで来て、おくれ」悠里は、無言で病室を出て行った。
 吉住は、悠希の腰に腕を回すようにして、ベッドの傍を離れた。
 病室を出る前、悠希は1度立ち止まり、眼をつぶっている父の姿を見て、それから出て行った。

 しばらく後、悠里を含めた3人は、病院に近い喫茶店に入っていた。
 ウィーク・デイの午後、それなりに広い病院のロビーにもかなり人はいたが、喫茶店の方は、丁度、込み合う時間の合間のようだった。
 悠里は、自分の気持ちが乱れているのを、自覚していた。気持ちをぶつけるほど子供じゃない。自分に言い聞かせて、冷静に話をしているつもりでいた。
 悠希と吉住は、喫茶店に誘われた瞬間、悠里の目に篭っている力に気づいていた。2人がよく知っている眼の色だった。怒りの篭った眼だ。
「お父さんも、ああ言ってたし。次は、出来るだけ早く来てね、お兄ぃちゃん」
「うん。ありがとうね、悠里」
 悠希の気持ちは萎縮していた。悠里の怒りの根に気づいてしまったからだった。
 悠里は、女として暮しはじめている自分を、身内の恥、と思っている。昨日と今日、短い時間の間に、悟っていた。
 父が悠希の戸籍のことを受け入れたことも、納得できずにいる。けれど、短くない年月、世話をしてきて過保護な母親のようになってしまっている悠里は、父の意思に異を唱えることが思いもつかないようだった。

「今度は、お父さんのこと許してあげるって、もっと、ちゃんと言ってあげてね」
 悠希は、曖昧な微笑を浮かべて、悠里の言葉を受け流していた。
 許すとか、許さないとか、もう、そういう機会は過ぎ去ってしまっていた。今日、それがはっきりわかった。そんな風に思っていた。だから、悠里にも「ありがとう」と言うことができた。

 吉住は、自分の姉が、いろいろな事を悠希の父に話していたので、悠里が傷ついている、と理解していた。
 彼女が、父親の世話をして来た年月の事を考えると、無理も無い、とは思えた。だから、勤めて平静を装っていた。
 やっぱ、ついて来るべきではなかったか、と、何度か思った。さすがに、悠希の家族の事情に、嘴を挟まないだけどの分別は持っていた。
 放心しているようにも思える悠希の様子を見ると、2人だけにするわけにもいかない、とついて来てしまった。先輩の皐が、悠希は女の顔をしてる、と言っていた意味は、今日、とことんわかった。

 30分ほどかけて、茶のみ話のように言葉を交わしてから、2人は悠里と別れた。
 悠希は、疲れたような微笑を吉住に見せて「ヨッちゃん。今日は、ありがとう」と言った。吉住には、雄希がまだ、放心しているように思えていた。

 見ちゃらんねえよ。
 男だったら、横っ面はって、しゃっきりしろって言ってやるとこだぜ。
 女なら、女でいいから。粋な女でいてくれよ。

 吉住は、眉を潜めながら笑って見せた。
「バカすけ。ジュンに聞いたぞ。
 堅気の女になって、お姉ちゃん、って呼んで貰うんだろ。
 しゃっきりしろや」やっと、言ってやった。

 雄希は、不思議そうな表情を見せたが、うん、と頷いた。

<改訂していく予定>

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