まほつく。 もどかしさと一杯のカクテル(旧版)
まほつく。 もどかしさと一杯のカクテル
閉店後のバーは、どこか寂しい。
そこには、店を騒がせていたお客様も、シェイクの音も、仕事の緊張感もなにもない。
ドアの開く音。目を向ければ、マスターが看板代わりのボードを小脇に抱え立っていた。、
「トマトさん、お疲れ様でした」
「はい、お疲れ様でした。明日は夕シフトからですよね」
「はい。それと……今日の事は、気にしないで良いですから」
ははは。そんな事言われて、気にしない方がおかしいよ。
でも、マスターの気遣いはありがたかった。正直、今にも、胸の奥の一本のグラスの足が、ポキリと折れてしまいそう。そうしたら、グラスの中に入ったものが、わっ、とこぼれ落ちてしまうから。
だから、いかにも大丈夫! って感じに笑ってみせる。でも、マスターの目はごまかせないかな、ははは。
視線を落とすと、半分も減ってないマティーニのグラスが、まだ置いたままだった。それが引き金。
『これは、カクテルじゃないですね』
わたしが『Accueil』に来てから初めて来た、常連の合羽さん。真木乃の山に住むカッパである彼は、他の誰よりも水に厳しい。もちろん、それはお酒でも同じ。
彼がわたしに注文したのがマティーニだった。ベルモットとジンをステアして作る、透明なカクテル。別名、カクテルの王。それを注文する時の、カッパさんの鋭い目が、今でも忘れられない。
その時、なぜ断れなかったのか。わたしのどこかに、シェイクはダメでも、ステアなら大丈夫、って考えがあったのかもしれない。氷を入れたグラスの中でお酒やリキュールを混ぜ、一つのカクテルにする作業。バースプーンの扱いなら、マスターには勝てないけど、それなりにできる。そう思ってた。
でも、出来たマティーニを一口飲んだカッパさんは、一言。
『ダメですね』
短い。でも、だからこそ胸にズンと響く言葉。思わず、バースプーンを取り落とした。グラスに当たったバースプーンは、悲鳴を上げるような大きな音を立てて、常連さんもお客様も、みんながわたしの方を見た。
だから、意地を張ってたのかもしれない。すみませんと謝るだけなら誰でも出来る。ここは、見習いのプロらしく、ちゃんとどこが悪いのかを聞かないと。聞いて、直さないと。
でも、カッパさんは、ただ一言、ああいうだけだった。
『これは、カクテルじゃないですね』
その意味が、わたしには分からなかった。確かにわたしは、ジンとベルモットを混ぜた。
なのに、これがカクテルじゃないというなら、何だというの? それじゃ、わたしのしている事は、一体。
「トマトさん!」
「あ。は、はい」
肩に置かれた暖かい手。それにすがりそうになって、ぐっと拳を握り締める。ダメだよ、ここで頼っちゃだめだよ。わたしは、飲んだ人を幸せにする、そんな素敵なカクテルを作るんだ。だから、ここで逃げちゃいけない!
決意をこめて、わたしは、マスターを見上げる。
「マスター、お願いがあります」
「何でしょうか」
「ここのお酒、ちょっと使わせてください。使った分のお金は、払いますから」
「練習、したいんですね」
「お願いします!」
マスターの前でこんなに深く頭を下げたのは、ここでバーテンダー見習いをさせてもらうことを頼み込んだ時以来かもしれない。はは、前転でもしそう、平均さんじゃないんだから。冗談で恐れを紛らわして、じっと待つ。
それから何分が過ぎただろうか。マスターが、ふむ、と呟いた。
「良いでしょう」
「本当ですか!」
「はい。ここにあるお酒は、自由に使ってもらって構いません。お金も要りませんよ」
「ありがとうございます! それじゃ」
「あ、少し待って。ただし、条件が一つ」
条件? 身を硬くするわたしに、マスターは、にこり、と笑って、きっぱり言った。
「お体には、お気をつけ下さいね」
カシス四十五ミリリットル。オレンジ適量。
お酒を直接タンブラーの中に入れ、ステアする。ビルドという、カクテルの中で一番簡単で、それでいて奥の深い製法。
まずは基本から。そう思って作ったカシスソーダ、カシスウーロン、そしてこのカシスオレンジ。どれも上手く出来てる……ような気がする。いや、本当に上手くできてるんだろうか? わからない。わからないから、一口飲んで、二口飲んで……やっぱりわからない。一気に飲み干して、次にとりかかる。
カンパリ二十、グレープフルーツ三十。トニックウォーター適量。併せてビルド。カンパリスプモーニの綺麗な桜色に、ほっと息をつく。そう、この色。これこそカクテルの。
『これは、カクテルじゃないですね』
……カクテル、なんだろうか。これは本当に、お酒を混ぜ合わせたものなんだろうか。いや、そもそも、カクテルって何なんだろうか。わからない、わからないから飲む。
飲み干す瞬間、頭に鈍い痛み。酔ってるのかな。いやいや、バーテンダーがこれくらいで酔っ払うなんて問題外。そんなにお酒の痺れる感じもしないし、大丈夫、大丈夫。
また、基本の基本に戻ろう。カンパリソーダ、カンパリオレンジ、カンパリトニック。二種類の材料をゆっくりと混ぜて、確かめる。ちゃんと混ざってる。はず。多分。きっと。
「大丈夫、だよ」
自分に言い聞かせる台詞が、こんなに虚しいとは思わなかった。なにしてるんだろ。凹む暇があったら、もっと綺麗な、もっと素敵なカクテル、作らないと。次は、次はこれ。
ジントニック、カクテルの定番。定番過ぎて、どう工夫すればいいのかわからなくなる。ブラッディメアリー。大好きなトマトのカクテル。でも、ウォッカの割合が違う気が。
冷蔵庫を探す。あった、ビール。泡の扱いが気になるレッド・アイ。上手くできてるか……わからない。もやもやと一緒に飲み干す。
次のリキュールを探そうとして、腕に何かが当たった。
瞬間、店内に響き渡るガラスの叫び。
「あ……」
視線を落とす。割れたタンブラー。照明を乱反射するガラスたちの遺体。手を伸ばす、届かない。距離感が? ガラスのきらめきがやけに眩しい。それがだんだん二重になって、三重になって。やば、わたし、酔ってる。気づいたとたん膝が砕けた。尻餅をつく。こらえきれない。倒れる。後頭部に硬い床の感触。痛い、痛い、痛い痛い痛い。何が痛い、心が痛い。悔しい。なんで出来ないんだ。わたしは素敵なカクテル作りたいのに。もっと上手くなって、どんどんお客様を幸せにしたいのに。こんな所で寝てちゃいけないのに。起きて、起きてよわたし。さあ、立ち上がって。立ち上がれない? やだ。やだよ。指先、冷たい。凍る。寒い。寒いよ。目。揺れる。かすむ。遠く。音が遠く。消えていって。
『トマトってさあ。何か地味だよね』
そうかな。そうだよね。地味、だよね。
『だからさ、そういう顔がウザイっての。生活の邪魔、消えてくんない? ほら早く』
消える。そっか、消えるのか。わたし、消えなきゃいけないんだ。そうだよね。わたしなんて地味だし、面白みもないし、イジメられても仕方ないよね。
『うわキモ。笑うんじゃないわよ』
笑った。そっか。わたし、笑ってるんだ。笑って、笑顔で、ガラスの欠片、手にして。
ハッと跳ね起きた時、わたしはカウンターに座っていた。
「お目覚めになりましたか、お客様」
「……え?」
目をこする。ここは、そう、『Accueil』。わたしが働く店。でも、お客様?
視線を上げる。マスターの優しい笑顔。この笑顔を見ていれば、どんなことだって大丈夫。そう思わせてくれる、素敵な笑顔。
そうだ、マスターに言わなきゃいけない事が。謝らなきゃいけないことが、わたし。
「マスター」
「どうぞ、『命の水』でございます」
言葉をさえぎって差し出される、一杯のグラス。中には透明な液体が。もしかしてマティーニ? そうか、マスターのマティーニか。それは、とっても美味しいんだろうな。よし、迎え酒に、一口、一口だけ。
口にした瞬間、広がる甘み。
「これ……砂糖水?」
「ミネラルウォーターに、シロップを少々」
「え、でも、これ、そんな感じじゃない。元から、こんな味の水だったような」
「ええ。これは、カクテルですから」
あ。
マスターの微笑み。手にした『命の水』。見比べて、一口飲んで、二口含んで、三口で飲み干す。全身にいきわたる、命の感触。
そうか、これがカクテルなんだ。
「わたし。腕だけ良ければ、って。ステアが、シェイクが上手ければ、それでカクテルになるんだ、お客様は喜ぶんだ、って」
「何を混ぜるかは問題ではありません。お客様が最も求める味を、空気を、記憶を、一杯のグラスに収める。それがカクテルです」
マスターの声。優しい。でも、強かった。わたしに、大事なことを伝えようとしていた。それを受け止めたら、胸の奥のグラスが、揺れた。揺れて、中身が、少しこぼれた。
「マスター、わたし」
「はい」
「わたし、バーテンダーになりたいです。マスターみたいな、素敵なバーテンダーに」
「なれますよ。トマトさんなら、絶対」
……うん。マスターにそう言われたのなら、それは絶対だ。絶対にしなくちゃいけない。
今日、二度目の決意。でも、今度の決意はやけくそじゃない。一歩ずつ、着実に、マスターのようなバーテンダーになっていくんだ。
よし、と気合入れ。グラスを差し出す。
「マスター。『命の水』、もう一杯」
「かしこまりました」
マスターの手元をじっと見つつ、ふっ、と、笑顔浮かべた。この笑顔、忘れないでおこう。
胸の奥のグラス。その中に満ちたわたしのカクテル。その一杯の名をかけて、わたしは今日、決意します。
絶対に、バーテンダーになってやる!
おしまい。
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